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「(Gのドラ4)池田駿は今大会一番の投球」ヤマハ・美甘将弘監督、就任2年目の社会人日本選手権優勝

楊順行スポーツライター

「池田駿は、今大会一番の投球でした」

巨人にドラフト4位で指名された池田駿の好投などで、決勝は日本通運に3対2と競り勝ち。胴上げのあと選手と抱き合うその目は、ちょっと潤んでいた。ヤマハの指揮官・美甘将弘。監督就任2年目での、日本選手権初制覇だった。

就任1年目の昨季、じっくりと話したことがある。美甘は、4年間のコーチを経て右島学前監督から引き継ぐとき、あるべきチーム像をまず自分に問うてみた。自然に出てきた答えが、大人の集団であれ、ということだった。

「毎日やるべき当たり前のことをおざなりにせず、誠実に行うこと。それが、私の考える大人の条件でした。現役時代、03年のシーズン後の面談で、"来季はマネージャー兼任でやってくれないか"という打診があったんです。その場では、勢いで"わかりました"といったんですが、ちょっと待てよ、と思い直したんです」

その年のヤマハは都市対抗出場を逃したが、美甘自身は三菱自動車岡崎に補強されてプレーした。すると岡崎は、堀井哲也監督(現JR東日本)のもとで、ベスト4に進出。いままでと違う野球が新鮮で、自分のチームで生かしたいと考えていた矢先の打診である。マネージャーの負担なしに、まだ選手一本にこだわりたい、もっとうまくなれるはずだ……。もし結果が出なければマネージャーを受けると直訴し、1年の猶予をもらった。

「宣言した以上、やるしかありません。練習からよく声を出すようになり、腹をくくってがむしゃらに練習した。すると04年には、いい結果が出たんです。後がない状況でのこの経験で、自分は"大人になれた"と感じたんですね。当時29歳でしたから遅いくらいですが(笑)、だからこそ若い選手には"大人になれ"といえる」

結局、マネージャー兼任要請を保留してから3シーズン、06年まで現役1本でプレーを続けた。もっとも、都市対抗の10年連続出場に1年だけ足りなかったのが、なにごとにも謙虚なこの人らしいといえば"らしい"。

"たまたま"から強豪の主将、監督まで

松井秀喜世代の、1974年生まれ。岡山・蒜山中では「体操服で野球の練習をするような、田舎の部活。井の中の蛙だから、日本の中学生で自分が一番うまいと思っていました」。だが津山工高で、上には上がいることを痛感し、甲子園出場はかなわず。大学で野球を続けるかも不透明だったが、たまたま東北福祉大に進むと、4年生で明治神宮大会に優勝。ヤマハに入社したのも、けが人の代役で練習に参加したのがきっかけの"たまたま"だった。

ヤマハでは、おもに三塁手として都市対抗4強、主将も務めるなど10年間プレー。現役引退後は4年間、マイクスピーカーの営業をこなし、

「最初はパソコンもろくに使えず……(笑)。でも取引先の人が何を求めていて、自分には何ができるのかを考えてきた経験は、選手との人間関係をつくるうえで役に立っていると思います」

11年にコーチとして現場に復帰すると、「コーチと監督では、背負う重みが全然違う」と語った監督初年度の昨年は2年ぶりに都市対抗に出場し、今季の都市対抗でも2回戦まで進出した。そして、日本選手権の初優勝。都市対抗で三度のVを記録しているヤマハだが、最後の優勝が90年だから、全国制覇は四半世紀以上ぶりのことだった。

それにしても近年、東海地区のチームは元気がいい。今年の都市対抗はトヨタ自動車が優勝したのを含め、ここ3年の都市対抗と日本選手権の二大大会では、のべ4チームが優勝したことになる。そういえば就任当時の美甘は、「同地区のチームがいい思いをされているので、負けられません。ただ、二大大会の優勝を口にする以上、覚悟が必要です」と語っていたものだ。そこで描いたチーム像が、覚悟が、大人の集団だったわけだ。年頭にも選手にそう呼びかけた今年、

「選手たちは声を張り上げ、強い気持ちで戦った。勝ったことより、それがうれしいですね」

ヤマハが、大人の集団になった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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