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災害からの自立、根源にあるもの「茨城県常総市大水害の(その後)から」

吉川彰浩一般社団法人AFW 代表理事
(写真:ロイター/アフロ)

連日のじめじめとした雨模様、梅雨真っ盛りといった天気に皆さんもうんざりとされていることだと思います。

しんしんと降る雨にまた違った思いを持たれる方々がいることを皆さんは覚えていますでしょうか。

昨年9月、まだ残暑が残る時期、茨城県常総市では過去例がないほどの広域水害に遭いました。その甚大災害は「関東・東北豪雨」という名前がついています。

筆者過去記事

「関東・東北豪雨のその後」忘れ去られた被災地、茨城県常総市を訪ねてみた

「茨城県常総市大水害」被害実態に見合わぬ制度 社会課題と言える大規模水害に対する生活再建の在り方

人生が変わるほどの災害、そこから立ち上がり、乗り越えていくということがいかなるものか。

時にその様は「被災からの自立」という言葉で伝えられます。

自立に至る過程は、被害時だけが伝えられる現代においては、伝わりきれるものではありません。その過程に至る思いに触れることで、私たちは被災経験を共有し感じることが出来るのではないでしょうか。

大規模水害に被災し、それを乗り越え今を生きる「一人の自立の姿」をお届けします。

工作・絵が大好きだった少年時代

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作家として生計を立てる松枝悠希さん(36歳)。茨城県常総市(旧水海道市)で生まれ育ち、地元「水海道小学校」「水海道中学校」に通っていました。

「作家になろうと決めたきっかけについてお伺いします。どうして作家になろうと思ったのですか」

松枝さんの両親が営む印刷会社 松枝さんにとっては幼少期の遊び場
松枝さんの両親が営む印刷会社 松枝さんにとっては幼少期の遊び場

「私の実家は地元で松枝印刷といいう会社を営んでいます。小さな頃から紙が身近な環境で育ったせいか、余った紙で工作したり絵を描いたりするのが大好きで、いつも両親の職場で遊んでばかりいました」

「なるほど、だから作家を」

「いえそうではないんです。あくまで工作と絵がとても好きな子供だったということです。紙だけでなく身近にあるもので物を作るの好きで、小学校のころには「どんぐりマン」というのが流行っていました。拾ってきたどんぐりで人形を作って、みんなで見せ合ったり、戦ったりしていたんです。当時はミニ四駆が流行っていた時代に、どんぐりで、どこまで作れるかなんてやっていたんですよ」

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「図工が本当に大好きで、両親の仕事の影響もあったのでしょう。目の前で印刷機が動く姿を眺めながら、傍らで絵を描く、紙を使って工作をする。時間さえあれば身近なもので図工ばかりしている。

工場内に大量に積まれた印刷用紙。
工場内に大量に積まれた印刷用紙。

そんな私を見て、好きなことを伸ばしてあげたいと母は思ったのでしょう。その時の言葉は今でも覚えています。「そんなに図工が大好きだったら、図工の授業しかない学校があるんだよ」、これが私が東京藝術大学に進むきっかけに繋がっているのですが、その当時は「そんな夢みたいな学校があるんだ!」という思いでいて、作家になろうという夢を持ったわけではないんです」

芸術の道を歩み始めたきっかけ

松枝さんの経歴を聞くと、高校時代に茨城県内有数の進学校に進学されています。

「私が通った高校はいわゆる進学校で、通常の高校が学ぶことは2年生には終わります。勉強ばかりの毎日で、とても大変で。色々と悩んでいる時に、たまたま通学路のあった「芸大美大受験予備校」の看板が目に飛び込んできたんです」

同年代の筆者も振り返りながら、大変さの意味をしみじみと感じます。

今でも同様ですが学歴で個人が評価される「良い高校」に進み、「良い大学」に入り、「良い企業」に入る。それは過酷なスタンダードな道です。

勉強づけの毎日、漠然とした良い大学→良い企業という道だけを示される重圧。若き日の松枝さんも大変悩まれたのだと思います。

「この時なんです。小さい頃、母に言われた「そんなに図工が好きなら図工しかない学校があるよ」という言葉を思い出したのが。そうだ!図工の大学に行こう!って思ったんです」

「そんな思いで予備校へ迷わず通うことにしたんです。絵を描くことは実はずっと趣味で続けていて、絵には自信もあったんです」

「でも予備校に行ってみたら、当たり前ですけど自分より美味い人なんてゴロゴロいる。負けたくない、もっと上手くなりたい!もうそれは夢中で、暇さえあれば絵を描いてばかりの生活になりました」

やりたいことで食べていく決意 見つけた自分のアイデンティティ

松枝さんはその後、東京藝術大学→同大学院→博士課程と、一般の私たちからすれば、作家として順風満帆と思われる経歴を過ごしていきます。

「やりたいことが見つかり、藝大に進まれて作家としての道が開かれた。そう感じたのですが」

「う~ん。そこは誤解がありますね。芸大を出たから作家になれるという分けではないんです。好きなことで生計を立てていて羨ましいと言われることはありますが、作品を作ったからといって、それで生計をたてられるとは限らないですし、藝大卒だからで通用する世界ではないんです。今の作品に行きつくまでは、私も作家で食べるの難しいと、就職を考え相当悩みました」

「そうですよね。失礼しました。私も同世代として作家として生きていく覚悟ってどういったことなのだろうと思います。お話しを聞くと好きだからという思いだけではなく、これでチャレンジしていけると思われた根拠もありそうですね」

代表作品「This is EXIT」、表現に込められた思いがあります。
代表作品「This is EXIT」、表現に込められた思いがあります。

「私は見つけられたというのが大きいと思います」

「学生時代はデザイン科を選択しデザイン全般の基礎を学びました。その後、立体物を作ることが好きだったので立体系デザインを選択しました」

「デザインよりもアートに興味をもち始め、立体作品を制作するようになりました。日々制作に没頭するのですが、しだいに本当に自分が作りたいものを作れていないことに、ジレンマを感じるようになったんです。自分が本当に作りたいものは何か、自分自身を見つめ直す。ある時、透明でお椀のような形がどうしても必要で、手に入らなければ自分で作ってしまえと、樹脂板を加工していた時にピンときたんです。これだ!これをやっていこう!と」

「この作品を作り続けていくうちに、自分自身の生まれ育った環境から自然と生み出されているものなんだなと思うようになりました。どうしても立体が好きだから、平面の中に閉じ込められているものを立体の世界に解放してあげたくなっちゃう。こっちの方が楽しいんじゃないの?って」

松枝さんの作家の道を歩み始めるまでのヒストリーを聞くと、彼がこれで暮らしていくと決めた作品の背景には、彼のバックボーンである常総市での暮らしそのものが見えてきます。

言葉を換えれば、彼を作りあげてきたのは彼が暮らしてきた歩みそのもだということです。

そして2015年9月10日、常総市は大水害に見舞われます。

水害がもたらしたもの

決壊箇所から12km離れた常総市水海道高野町一体
決壊箇所から12km離れた常総市水海道高野町一体

松枝さんのアトリエは鬼怒川決壊箇所より12km離れた場所にあります。同市内であっても「北のはじ」と「南のはじ」といった関係です。

鬼怒川決壊翌日、12km離れた場所にじわじわと押し寄せる洪水
鬼怒川決壊翌日、12km離れた場所にじわじわと押し寄せる洪水

「鬼怒川が決壊した当日は、私が暮らす地域に水は押し寄せていませんでした。この写真決壊の翌日の朝なんです。じわじわと水が上がってきて、当初は土嚢を積んでなんてことをしましたが、どんどん水かさは増えていきました。

ものの1時間ほどで避難するのが困難ほどの増水
ものの1時間ほどで避難するのが困難ほどの増水

逃げ場が無くなる、でも家とアトリエを守らないと。。恐怖感と焦りは今でも鮮明に思いだします。こちら弟なんですが、あっという間の1時間ほどだったと思います。このままじゃ危ないと家族で避難したんです」

汚水に浸かった作品 捨てるしかありません。
汚水に浸かった作品 捨てるしかありません。

「この写真からさらに水かさを増え、地域の家屋が浸水しました。私のアトリエは2階建てですが、完成した作品や作りかけの作品は1階に置いていて、汚水に浸かったものは廃棄するしかありませんし、作業工具類も泥水に浸かってしまい使えなくなってしまいました」

水害で生まれた大量のごみ。一つ一つに思い出があります。
水害で生まれた大量のごみ。一つ一つに思い出があります。

「毎日、片付けに追われていました。5月に個展が控えていたのですが、これまで作り貯めておいた作品は全て廃棄になりました。生活が落ち着き、アトリエと併設した実家がリフォームが終わったのは、水害から半年近くたった2月です。0からというよりもマイナスからのスタート、でも個展を遅らすことは出来ない。ボランティアの方々にも大変お世話になって開催にこぎつけることが出来ました」

水害を乗り越え、5月に開かれた個展の様子
水害を乗り越え、5月に開かれた個展の様子

あれから10ケ月経った、現在の常総市は私たちの日常と何ら変わりはありません。それは復興したとも言えます。ですがその復興されたとされる過程では多くの物が失われたことに気づきます。

腰丈まで水没したとは思えない日常に戻っています。
腰丈まで水没したとは思えない日常に戻っています。

そして、その失われた物を再度構築することはお金の問題もありますが、気持ちの面でも大変なものです。日常の風景ではそれは感じず、見えずですが、その土地で暮らす人に耳を傾ければ、大変なことを乗り越える根底にあるアイデンティティが見えてきます。

場所にこだわる意味

「大変失礼なことをお聞きします。水害にあってこれだけの物を失った。経済的にも相当な苦しさがあったことと思います。そのうえで別な場所で再起しようと思わなかったのですか」

「全く思いませんでした。まず復興をしていくこと。地元が大好きなんです。自然も多いし人も温かい。この地元の環境が私をつくってくれたんですから」

「この時期になるとお祭りの準備で街中がソワソワしているんですよ。私も小さい頃からこの時期は落ち着かなかったです。この落ち着かない気持ちが何とも言えず、心地いいんです」

松枝さんのアイデンティティは”ふるさと”への愛着に満ちていますし、災害があっても揺るがない思いが見えてきます。

災害によって”ふるさと”が大きなものを失ったとしても、そこから”ふるさと”をまた作りあげていこうとする様は、そこで暮らす人の強さの根源を伝えてきます。

松枝さんの携帯の中はお子さんの写真で埋め尽くされています。
松枝さんの携帯の中はお子さんの写真で埋め尽くされています。

お話しを聞きながら、被災当時の写真を探す松枝さんの携帯には、作品の写真ばかりの時期、水害当時の記録の時期、そして「家族を持った」時期へと移り変わっていました。

「お子さんの写真ばかりですね!」

「気が付いたら子供の写真ばかりになってしまいました。水害当時は妻のお腹の中にいたんです。」

はにかみながら、次々とお子さんの写真を見せてくれる松枝さん。

お子さんにも、親となった松枝さんの言葉と災害を乗り越えていく姿が引き継がれていくのだろうと思いました。

松枝悠希 プロフィール

1980年、茨城県常総市生まれ。

東京藝術大学大学院後期博士課程 修了。

樹脂板を加工した2次元から3次元へと飛び出す作品を制作

代表作品は「This is EXIT」

個人ブログ:松枝悠希のABC

公式web:Yuki Matsueda

Twitter:松枝悠希

facebook:松枝悠希

instagram:yuki_matsueda

松枝悠希 展

【期間】2016年 7月13日(水)~7月29日(金)(※17日(日)、24日(日)は休廊です。) 

【時間】11:00~18:00

【場所】〒107-0062 東京都港区南青山5-4-30 新生堂

一般社団法人AFW 代表理事

1980年生まれ。元東京電力社員、福島第一、第二原子力発電所に勤務。「次世代に託すことが出来るふるさとを創造する」をモットーに、一般社団法人AFWを設立。福島第一原発と隣合う暮らしの中で、福島第一原発の廃炉現場と地域(社会)とを繋ぐ取組を行っている。福島県内外の中学・高校・大学向けに廃炉現場理解講義や廃炉から社会課題を考える講義を展開。福島県双葉郡浪江町町民の視点を含め、原発事故被災地域のガイド・講話なども務める。双葉郡楢葉町で友人が運営する古民家を協働運営しながら、交流人口・関係人口拡大にも取り組む。福島県を楽しむイベント等も企画。春・夏は田んぼづくりに勤しんでいる。

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