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島本浩也投手が育成から支配下へ タイガースの高卒投手では初!

岡本育子フリーアナウンサー、フリーライター
10月、フェニックスリーグでの島本投手。この時はただ“決死のアピール中”でした。

11月21日、球団事務所での契約更改交渉の際に島本浩也投手(21)が支配下登録選手として契約を交わしました。これまで育成選手が支配下登録されたのは全員シーズン中で、新しい背番号のユニホームを着てガッツポーズ!だったんですけど、今回は勝手が違います。いわゆる普通の契約更改後という雰囲気で、取材する方もされる方も「これでいいのかな」と戸惑い気味の会見でした。

2011年1月末、安芸キャンプ荷物出しをする(右から)阪口、島本、一二三。
2011年1月末、安芸キャンプ荷物出しをする(右から)阪口、島本、一二三。

島本投手もスーツ姿で、翌22日のファン感謝デーも126番のユニホーム。でもファンの皆さんは嬉しい思いで見納めができたかもしれませんね。新しい背番号は、森田選手がつけていた『69』番。来年2月1日のキャンプでお披露目となるでしょう。場所は沖縄か安芸か?それが今、島本選手の一番気になるところです。

他にも“初”があり、阪神タイガースに育成選手で入団した投手が支配下登録されること、また高校から入った育成選手の支配下登録も初めてのことでした。球団は「チャンスが少ない中で結果を残した」という評価。よかったですね。これでもう高卒で阪神に入団した育成選手はいなくなったわけです。藤井宏政選手、阪口哲也選手、穴田真規選手の分も、島本投手には頑張ってもらわないと。

「ビックリした!嬉しかった」

フェニックスリーグが終わった翌日の10月28日、球団から呼ばれた島本投手は「時期が時期だったし、もう1年育成でやってくれ、という話やろな」と思って出向いたそうです。「それが話を聞いているうちに、あれっ?違うかな。もしかして?という感じ。驚いたのもあって普通の顔で“はい”と返事してしまったら…『もっと喜べよ』って言われました(笑)」。そうですよね。さらに、もっと最悪の事態も覚悟していたはずですから。

「終わってからメッチャ喜んだけど、周りの人や友だちには言うわけにいかへんし。親だけには電話しました。おかんは泣いてて、おとんは仕事中やったけど喜んで笑ってた。兄ちゃんはLINEで知らせたら『いつか支配下になれると思ってたよ。よかったな』って返事が来ました」とのこと。実は、お父さんも嬉し涙だったようですよ。そのお話は、のちほどご紹介します。

最初のチャンスを逃した後悔

11月21日、契約を交わしたあと記者会見での島本投手。
11月21日、契約を交わしたあと記者会見での島本投手。

島本投手はおそらく以前から支配下登録の候補に挙がっていたと思われます。2012年11月、台湾ウインターリーグに参加して9試合(14回2/3)を投げ、奪った三振が23個、防御率0.61という素晴らしい成績を残しました。10イニング以上投げて0点台の防御率は、参加した4チーム全投手の中で1人だけ。これは大きな自信となり翌2013年の春、安芸キャンプの練習試合や教育リーグでも好投を続けます。もしかしたら近づいている、その時のために「生活もちゃんとしとけよ。寝坊とかはアカンぞ」と、マネージャーから諭されたことも。

やがて1軍オープン戦の出場機会が訪れます。2013年3月12日のヤクルト戦(甲子園)で7回に登板。しかし四球、2ラン、四球と1死も取れずに交代で…わずか10分の“1軍初マウンド”でした。夕方、鳴尾浜へ戻ってきた島本投手は「せっかくのチャンスやったのに、力んでしまって自分のピッチングができなかった。育成の自分にこれ以上の、オープン戦以上のチャンスはない。そう思って頑張ってきたのに」と唇を噛みしめました。何より自分自身が情けなくて悔しかったのでしょう。

気持ちを切り替えてアピールを続け、公式戦登板数も増えた昨シーズン。そして再び支配下登録を目指して臨んだ今季ですが、滑り出しは順調ではありませんでした。3月16日の春季教育リーグ・中日戦(ナゴヤ)で9回裏に登板、三者凡退で試合を終え、バス移動だった帰りの車中で左足付け根あたりを激しい痛みが襲ったそうです。

はく離骨折を乗り越えて

2月のキャンプ中に左内転筋が張っていると感じたけれど、テーピングをして投げられたのでそのままだったとか。でもこの日は「ヤバイかな、限界かなという状態で、かばいながら放っていた。帰りのバスに乗って緊張が取れた瞬間に、ものすごく痛くなってきた。吐きそうなくらいの痛みで…涙がボロボロ出た」と言います。その間、山下トレーナーが隣に座ってずっとさすっていてくれたこと、島本投手は山下トレーナーの太ももをつかんで激痛に耐えたことを聞きました。

鳴尾浜にバスが帰り着いた頃にはもう自力で動けない状態で、すぐに救急車で病院へ。診察の結果は「恥骨はく離骨折」でした。おそらく恥骨の内転筋付着部分がはがれたのでしょう。3~4週間かかると言われたところ、驚異の回復力を見せ4月12日の育成試合で早くも復帰しました。「骨折のおかげで1~2週間は安静にしていたから、内転筋の張りもなくなってよかった」と言いますが、勝負をかける年に出遅れてたまるかという思いはあったはずです。

当時はまったく気づかず、本人の「内転筋をちょっと」という言葉を信じていました。本当に2週間ほどで普通の練習をしていたから、そんな壮絶な痛みと格闘していたとは…。今思えば、あの時期で、それも早期完治で何よりですよね。5月からは公式戦での先発を任され、8月31日のウエスタン中日戦(姫路)でプロ初勝利を挙げるなど必死のアピールは続きます。

フェニックスに賭けた必死の思い

フェニックスリーグの日ハム戦(10月25日)で好投した島本投手。
フェニックスリーグの日ハム戦(10月25日)で好投した島本投手。

ただ7月末での支配下登録はかなわず「周りにいくら言われても関係ないんやなと思って、若干あきらめているところはあった。9月末に『ことしで終わるかも。もし11月で支配下になれんかったら辞めるつもりで、フェニックス頑張ってくるわ』って親に連絡したけど、そのフェニックスリーグも行けるかどうかわからんかったし…」とマイナス思考が頭をもたげました。

「でも絶対に11月まで勝負しようと思った。そしたら途中で行けることになった。なのでフェニックスに賭ける気持ちは誰よりも強かった。1試合が良くても、次に悪かったら僕はもう終わりなんで。めっちゃくちゃ良いピッチングしたろ!と思っていたんです」

その言葉通り、2試合に先発して4回パーフェクト、5回2安打無失点と見事な結果を出しました。途中参戦の途中帰阪ながら強烈なインパクトを残し、平田監督に「島本が一番よかった。素晴らしい!」と絶賛されたほど。自己最速を2キロ更新する146キロをマークした要因のひとつは体重アップだったようです。入団時の63kgから少しずつ少しずつ増えてきて、この時は70kgあり「それでスピードが上がるってのを実感した」と言います。体重増だけでなく、体もしっかり大きくなりましたね。そうそう、今まで穿いていたGパンが入らなくなったんですって。

「宮崎から帰る飛行機で、田上さんから『そろそろ背番号を変えなきゃな』と言われた、その3日後」に届いた吉報。2010年に育成選手として入団し、その年の3月29日に支配下登録された田上選手も最初の背番号は126でした。縁起のいい背番号、縁起のいい先輩です。

お父さんもお母さんも涙、涙

2011年、ルーキー時代の島本投手。顔の輪郭も今よりかなり細い?
2011年、ルーキー時代の島本投手。顔の輪郭も今よりかなり細い?

既に10月28日の時点で島本投手から聞いていらっしゃったご両親ですが、正式発表された11月21日にお祝いを兼ねて電話をさせていただきました。父・美智雄さんは「ほんまにもう皆さんのおかげです。いつ戦力外になっても…と私らは思っていたので、聞いたときはビックリしました。涙が出ましたよ。実は、いつもギリギリで良いことが起こるので、何かありそうな予感がするなあって話をしていたんです、その日の朝」とおっしゃいます。予感的中ですね!

「今までも小学校、中学校、高校と心配させながらギリギリで良い方向へ進めた。いい人が周りにいて引っ張ってくれたんでしょうね。高3の時は(対外試合禁止で)甲子園にも行けなかったのにスカウトの方が来てくださって、これがまず奇跡(笑)。育成で阪神に入って、今度は支配下選手にもなれて。嬉しい限りです」。またお父さんは「球場にいらっしゃるファンの皆さんが、いつも本当にあったかくて」と感激しておられましたよ。

母・礼子さんは「2年ほど前から覚悟をしていました。ことしは特に“育成5年目はないかなあ”と思って。本人から、もう終わりって電話がかかってきた時、言葉に詰まらないよう前もって言うことも考えていたくらいで。9月末に少し弱気なメールも来ていましたしね。でもあの日の電話は、いきなり『おかん、やっとや~』と。え、何が?どういうこと?って聞いたら『支配下になれた』って言うんです。よかったなあって、もう涙が…」と思い出してもウルウルという感じです。

「あんな子を獲ってもらって4年もお世話になって、それだけでも感謝です。“クビになったら、しっかりお礼を言うて帰ってきいや”って話していました。本当にもう皆さんのおかげです」。お母さんはやっぱり涙で、もらい泣きしそうになりました。

「あきらめなくてよかった」

来年は島本投手のこの背中に、待ち焦がれた2ケタの番号が入ります。
来年は島本投手のこの背中に、待ち焦がれた2ケタの番号が入ります。

お兄さんが「やっとバイトから正社員になれた」と言われたそうです。なるほど、来年ようやく新入社員ってことですね。「これは通過点。でも今までは通過点もなかった。だから嬉しかった。だけど来年1軍へ行かんかったらクビになると思っています。これで終わったら何の意味もない。来年が勝負です」と島本投手自身も気を引き締めていました。2月は沖縄キャンプ?「そこですね、まず一番は。ほんで1軍!」。そしてポツリとひとこと。

「ほんま、あきらめなくて…よかったです」

最後に、ご両親は沖縄へ旅行したことがなく「沖縄へ行くなら息子が参加しているタイガースのキャンプで」と心に決めておられたそうです。「沖縄、連れていってね~と言ったら『おー!』と返事がきましたよ」とお母さん。既に支配下登録されることを聞いての秋季キャンプだったので、絶対に沖縄へ行くという決意を前面に出してきたでしょう。年が明けたら旅支度をして、朗報をお待ちください。

フリーアナウンサー、フリーライター

兵庫県加古川市出身。MBSラジオのプロ野球ナイター中継や『太田幸司のスポーツナウ』など、スポーツ番組にレギュラー出演したことが縁で阪神タイガースと関わって約40年。GAORAのウエスタンリーグ中継では実況にも挑戦。それからタイガースのファームを取材するようになり、はや30年が経ちました。2005年からスポニチのウェブサイトで連載していた『岡本育子の小虎日記』を新装開店。「ファームの母」と言われて数十年、母ではもう厚かましい年齢になってしまいましたが…1軍で活躍する選手の“小虎時代”や、これから1軍を目指す若虎、さらには退団後の元小虎たちの近況などもお伝えします。まだまだ母のつもりで!

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