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「刑事司法の理念からは耐え難い不正義」――袴田事件で再審開始&釈放を命じた決定を読む

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

画期的な決定だった。再審開始や死刑の執行停止だけでなく、拘置の執行を停止し、有罪判決の決め手となった証拠が「捜査機関によってねつ造された疑いのある」ことも明記されていた。これによって、死刑囚が再審開始決定を受けてすぐに釈放されるという、戦後初めての急展開となった。

釈放された袴田巌さんと姉の秀子さん
釈放された袴田巌さんと姉の秀子さん

DNA鑑定の威力

本文は68ページ。再審請求審の決定書としては、さほど長くはない。裁判所の判断の説明はDNA鑑定から始まる。この決定書を読んで、改めてDNA鑑定が裁判所に与える影響は強い、と感じた。足利事件や東電OL事件も新たなDNA鑑定によって再審開始が決まったが、今回もDNA鑑定が再審開始の大きな根拠となった。

事件発生から時間が経過していることや保管状況などから、検察側は試料の劣化や捜査員らのDNAが付着するコンタミネーションの影響を強調したが、裁判所は(1)血液に由来するDNAは試料中に長い年月残存する。乾燥した場合はより残存しやすく、凝固した血液であれば、DNAは常温であっても安定的に保たれる。(2)一方、唾液や皮膚片等に由来するDNAは、数ヶ月も経過しないうちに検出されなくなる――などとして、退けた。

証拠開示の力

ただ、この決定はDNA鑑定だけに支えられているわけではない。DNAに関しては、弁護側と検察側の鑑定人で見解が異なる点もあった。それでも裁判所が弁護側鑑定を受け入れたのは、新たに開示された証拠類を見て、冤罪との心証を強くしたからだろう。

特に、殺害時に着ていたとされるズボンのサイズについての新証拠は衝撃的だった。

控訴審での着装実験で袴田さんはズボンをはくことができなかった
控訴審での着装実験で袴田さんはズボンをはくことができなかった

原審控訴審で実験してみたところ、ズボンはきつすぎて袴田さんははくことができなかった。ズボンのタグに書かれた「B」という表示は、肥満体サイズを示すと受け止められ、はけなかったのは、味噌付けにされた後に乾燥されて生地が縮んだためとか、袴田さんが運動不足で太っただめだとか、そんな理屈をつけて、済ませてしまった。実際は、「B」は色を示す記号であり、ズボンは細身サイズだったことが、新たに開示された証拠で分かった。ズボンは、縮んだわけではなく、最初から袴田さんには小さすぎて、これを着て犯行に及ぶなどありえない話だったのだ。

弁護側や裁判所にとっては、「新証拠」「新事実」だったが、こうした証拠は衣類が「発見」されてまもなく作られていた。警察や検察にとっては、とっくに知っている事実だった。にも関わらず、その事実を隠し、裁判所の誤った判断を導いたのだ。

重大証拠のねつ造疑惑

このズボンを含む血染めの衣類5点は、公判段階に入ってから味噌樽の中から「発見」された。生地の色合いや血痕の色は、1年以上味噌に漬かっていたにしては不自然だった。有罪判決の最大の根拠となったこの衣類については、以前から捜査機関によるねつ造ではないかという疑惑が指摘されていた。

今回の再審請求審を担当した裁判官たちも、その疑いを強くもったようだ。決定書は、こう書いている。

〈ねつ造されたと考えるのが最も合理的であり、現実的には他に考えようがない。そして、このような証拠をねつ造する必要と能力を有するのは、おそらく捜査機関(警察)をおいて外にないと思われる。〉

決定書では、この推認のプロセスはかなり省略されている。事件の経過を知らずに決定書だけを読むと、唐突感を覚えるかもしれない。しかし、新たに出てきた証拠に加えて、証拠開示に至るやりとりなど、再審請求審を通じて見聞したすべてのことから、裁判官たちは「ねつ造」をもはや確信したのだろう。決定書の最後の20ページほどの中に十数カ所も「ねつ造」という表現が出てくる。ねつ造疑惑を「想像の産物」と切って捨てる検察側に対し、「あり得ないなどとしてその可能性を否定することは許されない」と厳しい批判を加えている。

裁判官の義憤

これ以外にも、自白調書のほとんどが任意性を否定されたり、ほかにもねつ造が疑われる証拠があるなど、決定書は不当・違法な捜査を問題にしている。

そのような捜査の結果、ねつ造の可能性が高い証拠によって誤った裁判が行われ、重大な人権侵害が発生した。それが見えてきたことで、裁判官の正義感に火がついたに違いない。

私は、これほどまでに、裁判官が義憤がこもった書面を読んだことがない。その怒りのほどは、たとえば次のような記述からうかがえる。

〈国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底耐え難いことといわなければならない〉

〈拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない。一刻も早く袴田の身柄を解放すべきである〉

不正義に対する強い憤りがびんびんと伝わってくる。

検察は自ら策定した「検察の理念」を熟読せよ

疑惑を向けられているのは警察だけではあるまい。検察にも、証拠隠しを続けてきたうえ、ねつ造の隠蔽に加担したのではないかとの疑念が生じている。

このような批判や疑惑に、検察は誠実に対応しなければならない。異議申し立てをするなどして、これ以上確定判決の死守に汲々としたり、メンツにこだわったり、先輩たちをかばい立てるのではなく、今なお隠している全証拠を開示し、真相解明に協力する。これが、「公益の代表者」として検察がなすべきことだろう。

証拠改ざんの不祥事が発覚後、検察は改革の一貫として、倫理規定「検察の理念」を自ら策定した。その中に、次の一文がある。

〈権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する、謙虚な姿勢を保つべきである〉

本件に関わる検察官は、改めて熟読してもらいたい。

司法はこの事件を検証し、反省し、学ぶべきだ

袴田さんがボクサーだった時のトロフィーなど
袴田さんがボクサーだった時のトロフィーなど

また今回の決定は、裁判所の書面としてはこれまた珍しく、原審裁判所に対する批判めいた記述がある。それは、5点の衣類の発見経過に関してだ。

事件発生は1966年6月30日。その頃のタンク内の味噌は深さ30センチほどにまで減少していた。7月4日に警察の捜査員がタンク内を覗いたが衣類は発見できなかった。同月20日に従業員が味噌の仕込みを行うのにタンク内に入ったが、この時も発見されなかった。ところが、翌年の8月31日になって「発見」されるのだ。

決定書は、これを不自然ではないと評価して一審の有罪認定を維持した控訴審判決について、こう書いている。

〈まったくあり得ない訳ではないという意味でなら理解できるが、通常の用語としては、やはり不自然と判断するのが相当である〉

そして、この経緯がいかに不自然であるか、理由を具体的に述べている。この不自然さを見れば、裁判所は5点の衣類の扱いに、もっと慎重であるべきだったのではないか。そうすれば、袴田氏は遅くとも控訴審の段階で無罪となっていたのではないか。司法が、1人の人間の人生を奪ってしまったのでは…という裁判官たちの忸怩たる思いが、「刑事司法の理念からは到底耐え難い」という表現になったのだろう。

再審の手続とは別に、この事件では警察、検察、裁判所のどこにどのような問題があったのかを検証し、反省し、そこから教訓を学んでいかなければならない。それを現在行われている法制審議会特別部会の議論にも生かしてもらいたい。少なくとも、裁判が始まる前の早い段階から全面的に証拠開示を行う制度は、絶対に必要だろう。

自由の身となった袴田さんは、姉の秀子さんと共にホテルに宿泊。翌日の弁護団と秀子さんの記者会見によれば、釈放直後に比べて、袴田さんの自発的な発語が増えてきた、とのこと。長期の身柄拘束と死刑執行の恐怖によって病んだ心には、「自由」と「安心」という薬がなにより効くのだろう。とりあえずの「自由」は得た。再審が実際に開かれ、「安心」を手にするまでに、あとどれだけの時間が必要なのだろうか…。

(3月28日付東京新聞に掲載された拙稿に大幅加筆しました)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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