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”魔女はいたか?”~将棋ソフト不正使用疑惑に関する報告書に見る冤罪と魔女狩りの構図(追記あり)

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
(写真:アフロ)

将棋ソフトの不正使用疑惑を巡る対応の責任を取って、日本将棋連盟の谷川浩司会長が辞任した。また、同連盟は疑惑に関する調査を行った第三者委員会による調査結果の詳細を公表。それを読み込むと、まさにこうして冤罪は作られることががよく分かる。さらには、「魔女狩り」に似た構図まで浮かび上がってくる。

告発の最初は具体的で迫真性のある誤情報

報告書によれば、今回のソフト指し(=対局中に将棋ソフトを頼って指すこと)疑惑が持ち上がったのは、三浦弘行九段が昨年7月26日、第29期竜王戦決勝トーナメントで久保利明九段に勝った後。久保棋士は、何度も離席をした三浦棋士に強い不信感を抱いた。そして、3日後に開かれた関西月例報告会で、対局中に30分間も離席する棋士がおり、ソフト指しが行われている疑いがあるので規制するように求めた。久保棋士は、ここでは具体的な名前は出さなかったが、後日協会の常務理事に対して、疑惑の主は三浦棋士であることを告げ、それは谷川会長にも報告された。

久保棋士の話は、実に具体的で詳細だった。自分の手番で、三浦棋士が午後6時41分から7時12分までの31分間も継続して離席したとし、時計で確認していると主張。その前後の指し手なども語ったようである。

後に、第三者委員会が対局時の映像を確認したところ、そのような長時間の離席はなかった。なぜ、久保棋士がそのような誤った話をしたのかは不明。ただ、その話があまりに具体的だったことから、連盟幹部は誰も、映像で真偽を確認しようという発想にならなかったようである。ここが過った事実認識が形成される第一段階だった。

8月4日の常務会で、三浦棋士の”30分離席問題”は出席者に共有された。そして、「不正を疑われる行為も厳に慎むべきものとする」などとした、「対局時における電子機器の取扱いについて」と題する通知書を作成。これは連盟所属の全棋士に送付されたが、事実上三浦棋士への警告書であった。そして、三浦棋士が丸山忠久棋士と対局する竜王戦挑戦者決定三番勝負では、連盟幹部が三浦棋士の行動を監視することも決めた。実際、同月15日、26日、9月8日に行われた対局の際には、離席中の三浦棋士の動きは監視されていたが、特に不審な行為はなかった。

懸命の弁明がアダ

三浦棋士は、10月3日の名人戦A級順位戦において、渡辺明竜王に勝利した。渡辺棋士も対局中はソフト指しされたという印象は持たなかったが、翌日以降、敗戦の分析などをしている間に、三浦棋士の差し手が将棋ソフト「技巧」の指し手と一致率が高いと疑念を抱いた。その疑念は、久保戦における疑惑と相まって、三浦棋士にソフト指しをされた、という確信へと高まっていった。また、渡辺棋士は、三浦棋士のソフト指し疑惑が10月中旬に発売される週刊文春に掲載される情報をつかんでいた。

渡辺棋士からの連絡を受け、10月10日に常務理事の自宅で谷川会長ら7人が集まって会合を開いた。そこで、渡辺棋士らが三浦棋士の疑惑の詳細を説明。週刊文春の記事掲載予定についても伝えた。同月15日から始まる竜王戦の最中に記事が出れば混乱すると、幹部らは焦ったようである。

翌11日に連盟で常務会が開かれた。まず渡辺棋士が1時間ほどかけて、三浦棋士の疑惑を理事たちに説明。ソフトと指し手の一致率が高いという、数字をあげた主張は、科学的な根拠があるように錯覚され、強い説得力をもったようである。加えて、三浦棋士が研究会仲間から、リモートデスクトップアプリケーションを使って、パソコン上のソフトをスマホ上で遠隔操作する方法があると聞いていたという情報もまた、疑念を高める材料になった

しかし、第三者委員会の調査で、将棋ソフトは同じ条件でも、その時々によって違う指し手を示すことがたびたびあって、一致率を不正行為の根拠に使うことはできない、との結果が出ている。そのうえ、三浦棋士以上の高い一致率を示した棋士もいた。

また、遠隔操作について話を聞いたことはあったが、三浦棋士や家族が使っていたスマホやパソコンなどの電子機器類からは、そのようなソフトは確認されていない。そもそも三浦棋士は、IT関係には疎かったようで、自身のパソコンに将棋ソフトをダウンロードした際には、他の棋士の助けを借りた、とのことだ。

ちなみに、連盟の棋士たちのほとんどが、パソコンに将棋ソフトを入れて、研究に使っている、という。

誤情報に基づく事情聴取で

こうした説明ですっかり疑念が高まった後、呼び出しを受けた三浦棋士に対する糾問が始まった。

やはり、久保戦で31分間の離席があったという前提での”尋問”が行われた。その間、どこで何をしていたのかの追及に、三浦棋士は長時間離席を否定せず、あれこれ弁明する中で、将棋会館4階の休憩室で休もうとしたが、先輩棋士が囲碁を打っていたので1階の守衛室で体を休めていたかもしれない、と言い出した。

おそらく、2ヶ月半も前のことであり、三浦棋士も思い出せなかったのではないか。かといって、「覚えていない」と言えば疑いを晴らせない。分かってもらうためには、何らかの説明をしなければと、気持ちが追い詰められ、懸命に過去の記憶をたどり、あるいは記憶になくても、当時の自分ならとりうる行動を懸命に考え、絞り出したのが、この説明だったのだろう。

当初は「かもしれない」程度の話だったようだが、聞く側が、必ずしもそうは受け取らなかったのか、やりとりの中で、「かもしれない」はいつのまにか「守衛室にいた」という確定的な話になっていく。そして、こうした弁明は、裏を取ればすぐに事実でないことは分かる。

このような不合理な弁明を聞いて、理事たちの「疑念」は、「確信」へと変わり、竜王戦に三浦棋士を出すわけにはいかないという結論に至ったようだ。

かくして、三浦棋士は「クロ」認定された。

本件に見る冤罪の構図

迫真性に富む証言、一見科学的に見える数字による証拠、不合理な弁明などの”有罪”方向の材料のみが、その正しさを精査・検証されることなく積み上がり、その場の空気を”有罪”へと動かした。加えて名人と並ぶ最高位の竜王という権威が、その主張を一層説得力のあるものにしたのだろう。週刊文春というメディアの影響力も見逃せない。

将棋連盟は民間組織ではあるが、冤罪を生む時と同じ要素が、ここからは見て取れる。そしてこういう自体を招きかねないのは、ひとり将棋連盟だけではないように思う。

疑惑は、週刊文春以外のメディア、たとえばテレビなどでも報じられた。対局を映した場面から、三浦棋士が離席する場面を繰り返し流した番組もあり、こうした情報に触れた多くの人が、”有罪”の心証を得ただろう。

これもまた、冤罪が作られていく過程と酷似している。

ソフト指しという妖術

今回の事件が起きた背景は、将棋ソフトの能力向上にある。多くの棋士の聞き取りを行った第三者委員会は、報告書の中でこう指摘している。

〈将棋ソフトの棋力が最強の棋士と互角となり、これを凌駕する勢いとなった時代を迎え、対局者が将棋ソフトを使うのではないかという疑心暗鬼がプロ棋士たちの心の中に生じてきたことを見逃すことはできない〉

ソフト指しという”妖術”を使う”魔女”がいるかもしれない。そんな不安や疑心暗鬼が広がっているところに、権威ある人が「ここに”魔女”がいる」と指し示した。それなりの根拠も示された。

そういう時に、空気に流されず、情報の吟味の大切さを忘れない理性と、適正な手続きの必要を訴える勇気を持つのは、そうたやすいことではないのかもしれない。かつて、アメリカに吹き荒れたマッカーシー旋風では、共産主義者という”魔女”を探し出し、排除する”赤狩り”が行われた時も、多くの人が自分にその疑惑の矛先が向けられるのを恐れて、口をつぐんでいたという話を思い出した。

今回の出来事で、人の組織や社会では、現代においても”魔女狩り”は容易に起きうることを改めて考えさせられた。

”魔女狩り”の被害を止めるのは

それでも、今回の一件で冷静さと勇気を保ち続けた人が皆無だったわけではない。疑惑の対象となった4対局のうち、半分は丸山棋士との対局だったが、その丸山棋士は客観的に三浦棋士の行動を判断し、一貫して「ソフト指しを疑わせる等不審な行為はなかった」と述べた。また、連盟から三浦棋士に代わって竜王戦七番勝負に出場するよう依頼・説得された際も、三浦棋士を出場停止処分にする際の手続きが適切でないと強く指摘したらしい。

この丸山棋士の証言も、第三者委員会が”無罪”の判断をする根拠の1つになった。”魔女狩り”の被害を食い止めるのは、こうした冷静さと勇気であることも、また考えさせられたことの1つである。

そして、将棋連盟が第三者委員会の意向を汲んで、詳細な報告書を一般に公表したのは適切であり、組織としての健全性を印象づけたことは付記しておきたい。

【追記】

第三者委員会の報告書は、将棋ソフト不正使用に関しては、三浦棋士の”無罪”を明確に判断したのに、彼を”有罪”とし、出場停止の「処分」までしたことについて、「やむを得ない」とした。

だが、誤った事実と不適切な手続きのうえになされた、事実上の強制力を伴う「処分」は、どう見ても誤りであったと思う。三浦棋士の名誉を傷つけ、精神的なダメージを負わせ、竜王戦七番勝負などへの出場の機会を奪い、それに伴う経済的損失が伴い、潔白を証明するための時間的経済的労力的な負担は小さくなく、かつ心労を伴い、さらには三浦棋士のファンを始め将棋愛好者を落胆させるなど、実害も多大であった。

にもかかわらず、将棋連盟執行部の責任を問わない結論となったのは、第三者委員会の構成によるところが大きいのではないか。

委員会の委員は3人の法律家。いずれも現職は弁護士だが、委員長の但木敬一氏は元検事で、法務事務次官、検事総長を務めた。永井俊雄委員は元判事で、最高裁主席調査官、広島高裁長官、大阪高裁長官を歴任。もう1人の奈良道博委員は、第一東京弁護士会で会長を務めた。ほかに実働部隊として、但木氏が所属する森・濱田松本法律事務所から6人の弁護士が補助参加した。

日本の司法では、冤罪を作った者の責任は問われることはめったにない。誤判をした裁判所の責任が問われることはまずないし、検察の責任追及も極めて甘い。

たとえば、富山県で2002年に起きた強姦・同未遂事件(氷見事件)で誤って逮捕・起訴され、実刑判決を受けて服役した男性が、真犯人が明らかになった後に起こした国家賠償訴訟では、裁判所は警察の責任は認めたが、検察は不問に付した。

多くの冤罪被害者は、身柄拘束期間について刑事補償を受けるだけで、誤った司法作用により人生や生活を台無しにされ、名誉を傷つけられたことなどについての慰藉の措置は、ほとんど受けられていない。

今回は、優秀な法律実務家が調査を担当したことで、きっちりと証拠を固め、明確な”無罪”認定を行ったが、その一方で、冤罪を作った側の責任を問わないという、司法の慣行、あるいは司法のメインストリームを歩む者の感覚もそのまま持ち込まれたのではないか。その点でも、日本の社会を反映した報告書だと思う。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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