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お役所の事なかれ主義 そもそも期待をするからいけない

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(ペイレスイメージズ/アフロ)

お役所の事なかれ主義が加速化しているように思われる。

先日も「餅つき禁止!? 年末年始恒例なのに 自治体規制に住民反発も」というニュースが流れ、われわれ国民を驚かせた。何百年も続いてきた伝統行事を禁止するということが、行政の裁量のうちにあると解釈されるところまで来ている、ということだ。ほかにも公園利用における禁止事項の多さ部活中の声出し禁止など、首をかしげてしまうような「禁止」が多々みられるようになってきた。

筆者のまわりにも、あれをするな、これをするなと、なにかと禁止しようとする向きが多くある。しかしいうまでもなく、人のなすすべての行為には大小のリスクがある。電車に乗れば事故が起こるリスクがあるし、玄関のドアを開ければ陰に強盗が潜んでいるかもしれない。どうしてもリスクを負いたくないならば、いっそのこと、動くのをやめてしまえばよい。ひいては存在をやめてしまえばよい。

馬鹿なことを言っていると思われるだろう。しかし、餅つき禁止とか、公園でボール遊びをするなといったことは、それほど馬鹿げたことなのだといいたい。

いったいどうして、このようなことが起こりうるのか。何ゆえに行政は、われわれの自由な行為を制限しようとするのか。

お役所の事なかれ主義はどうして生まれるのか

我が国の問題は、事なかれ主義にある。事なかれ主義とは、責任を負うことを回避する姿勢のことである。お役所に限らず、うんざりするほど多くの場面で事なかれ主義はみられる。

責任という言葉は、我が国では欧米とは異なる解釈がなされている。我が国で責任と訳されている responsibility は、その語のとおり、レスポンスすること、応じること、あるいは応じることのできる状態のことである。つまり責任とは、応じたとき、自由に振る舞ったときに発生するものである。そうでなければ責任は生じえない。すべての行為には何らかの目的が存在することをかんがみれば、責任は目的を持った人に生じる、と言い換えることもできる。

あるいはまた、責任ないし義務が発生しないところでは、自由は存在しないとも言える。どちらかといえばこちらの方が言い方として適している。社会は多くの人によって成り立っており、自由に振る舞うことは彼らへの何らかの影響を与えることを意味するからである。よって、影響を与える人が責任を負うことができないのであれば、まわりの多くの人は、その人が自由に振る舞うことを認めない。

自由に振る舞う人とは、いうまでもなく、それを企画した人、実行した人である。例えば餅つき行事であれば、その行事を企画した人と、餅つきを行い、振る舞った人である。よって本来的には、もしも問題が生じたならば、それが不可抗力でない限り、その人たちにこそ責任が生じる。

しかし我が国では、どういうわけかお役所や、それを監督した人に強く責任が問われることが多い。たしかにお役所には行政責任というものがあるが、これがあまりにも拡大解釈されているように思われる。行為の結果、何らかの問題が発生することを予見できなかったのか、それを未然に防ぐことはできなかったのかと、彼らには非難の言葉が浴びせられる。

もしもそのような責任を役所が負わなければいけないのであれば、役所は当然、行為そのものを禁止する。行為の目的は、企画した人、実行した人にあって、役所にはない。もともと役所には、餅つき大会をやる意味も目的もないのであって、責任を負わないためには余計なことをしないほうがよいのである。餅つきも余計なことだし、公園で遊んでほしくもないのである。

役所の事なかれ主義が拡大したのは、役所に責任を転嫁するようになった、市民のほうに問題があるように思われる。市民が役所のせいにしないことが明らかであるならば、つまり自己責任を負うことが明らかであるならば、役所は労力を払って規制を考え、それを遂行することはない。

そもそも期待をするからいけない

ようするに、お役所の事なかれ主義を加速化させているのは、お役所叩き、公務員叩きである。すぐに行政のせいにして文句を言う、クレーマーがいることが問題である。しかるに役所は、彼らクレーマーを無視することはできない。ひとたび苦情が寄せられたならば、何らかの対応をしておかなければ不祥事とみなされる。ときにマスコミが叩きにくる。したがって、過剰なまでに彼らの声に耳を傾けることになる。

クレームを言うことになるのは、相手に何らかのものを期待するからである。要求することがあるから、不満が生まれる。不満が噴出して、クレームになる。クレームがなくなるように、規制がつくられる。ことの起こりは期待にあるのであって、その結末として規制、禁止事項が生まれるのである。

したがって、これ以上お役所の事なかれ主義を広げないためには、彼らに何も期待しないことである。われわれは彼らとは無関係だと思うことである。

地域での活動は、勝手にやってしまえばよい。そのかわり、お役所の責任にしてはいけないし、施しを受けてもならない。目的を持った自分たちの行為として、すべてのことに対処しなければならない。彼らは目的を共有できない。ゆえに仲間ではない。影響の範囲内にはないのである。

そして、もしわれわれに悪しき影響を及ぼすようになったときには、断固戦うべきである。邪魔をするなと、余計なことはするなと、声を張り上げるべきである。事なかれ主義の人たちは非難されるのを嫌うのだから、少数のクレーマーよりも大きな声を出して、禁止したほうが厄介なことを伝えなければいけない。またクレーマーが現れたときには、われわれの力で対処すべきである。そういった人をたしなめ、制御しなければいけない。

最後に、これは公務員改革の話である。行政に余計な仕事を与えなければ、公務員は減らすことができる。公務員がやっていたことを、市民、民間がやるようになれば、行政はスリム化することができる。ゆえに地方政府に大きな権限をもたせてはならない。そうではなく、地域住民の自治で、民間の力で、地域を運営していかなければならないのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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