2015年化学賞 「生物学賞化」する化学賞が示すノーベル賞の「制度疲労」
「え?これ生理学・医学賞じゃないの?」
最初に発表を聞いたときの感想だ。
ノーベル化学賞はDNA修復に関する研究で優れた成果をあげた3氏に贈られることが決定した(ノーベル財団の発表より)。日本人受賞はならなかったが、この分野はそりゃノーベル賞だよな、と納得するような、研究者ならだれでも知っている研究テーマであった。
逆にまだノーベル賞受賞していなかったの?なぜ今?と思ったのも事実だ。
というのも、DNA修復は私が理学部生物学科の学生だった1990年代前半には、当たり前のように生物学(生命科学)の教科書に掲載されていたからだ。
その教科書の代表が「細胞の分子生物学」だ。1992年にこの分厚い本を買ったとき、すでに図入りでDNA修復は記載されていた。
それもそうだろう。ノーベル財団が発表している「Scientific Background on the Nobel Prize in Chemistry 2015」をみると、今回の受賞対象の研究が、1970年代から80年代に行われていることがわかる。
しかし、冒頭にも書いたが、生物学がなぜ生理学・医学賞ではなく化学賞なのか。
近年の化学賞の受賞者をみると、数年ごとに「これは生物学ではないか」と思われる研究が受賞対象になっている(Wikipediaより)。
ここ数年をみても、2008年の緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見とその応用、翌2009年のリボソームの構造と機能の研究、そして2012年のGタンパク質共役受容体の研究、そして今回だ。
生理学・医学賞をみると、2006年のRNA干渉-二重鎖RNAによる遺伝子サイレンシング-の発見、2009年のテロメアとテロメラーゼ酵素が染色体を保護する機序の発見などは、化学賞であってもよいように思う。細かい話だが、分子生物学が化学賞、細胞生物学、発生生物学は生理学・医学賞にあたるようだ。とはいえ、その境界はあいまいだ。
生物学賞のような化学賞がなぜ生まれるのか。これは、近年の生物学が、100年以上前に設定されたノーベル賞の分野分けにあてはまらない状態になってきていることを示しているといえる。
これは現在の国際情勢にもつながる。20世紀初頭に列強によって分割された国境線をまたぐように民族が居住しているかのようなものだ。
もともと化学賞の受賞対象だった諸分野にとっては「領土が奪われている」かのような感覚を持つかもしれない。生物学のさばりすぎ、というように。生理学・医学賞からみても、「それ医学じゃない」みたいな内容に賞が与えられ、「人を救ってナンボでしょ」という批判があるかもしれない。
生命現象を分子の言葉で語る分子生物学が化学から分かれて生物学、医学を席巻した20世紀後半。もはや生命現象を分子で語ることは特別なことではなく、主食はお米です、ということくらい当たり前になった。しかし、100年前に行われた研究分野の「領土分け」は変更ができない。こうして生物学のような化学賞が生まれている。
また、20年以上前から教科書に載るような研究が今になって受賞対象になったのは、この分野に関わる研究者が多数いて、誰を受賞者するのかが難しかったからという声がある。
選に漏れた研究者が「私は受賞の価値がある」と異議をとなえるのは、もはや恒例になった。また、共同研究は当たり前になり、チームで研究に取り組むのも今や当然だ。論文の著者が1000人を超えるようなものさえ生まれている。たった3人までしか受賞対象がいないノーベル賞は、時代にあっていないのだ。
このほか、情報科学など新たな分野が次々に登場し、分野の境目はあいまいになっている。こんななか、100年前の分野に無理やりにでもあてはめなければ、受賞はあり得ない。
ノーベル賞が「制度疲労」を起こしているのは誰の目にも明らかだ。
とはいえ「老舗」は強い。一度得た信頼、ブランドは揺るぎそうにない。フィールズ賞が「数学のノーベル賞」と呼ばれることがあるように、分野の「ノーベル賞」も出てきているが、一般の人々が認知するのはフィールズ賞など一握り。「料理界の東大です」のようなもので、ノーベル賞のブランドは盤石だ。
私たちは、もうちょっとノーベルブランドを斜に構えてみてもいいのではないか。老舗ブランドとはいえ、まだ115年。人が作ったものは永遠ではないのだから。