Yahoo!ニュース

「検体取り違え」をどう防ぐか~苦悩する医療現場

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
大量の検体と慢性的人員不足のなか、現場は「検体取り違え」防止に取り組んでいる(ペイレスイメージズ/アフロ)

620万円で和解

現場は苦悩している。

去る11月29日、兵庫県の高砂市民病院で発生した「標本取り違え」事故は、高砂市が患者に620万円の和解金を支払うことで解決した。

高砂市民病院が検体を取り違えて乳がんと誤診し、20代の女性が乳房の一部を切除された医療ミスをめぐり、市は29日、女性が市に約1850万円の損害賠償を求めた訴訟で和解する方針を明らかにした。市は女性に謝罪し、和解金など約620万円を支払うといい、12月2日開会の市議会に関連議案を提出する。

出典:産経WEST記事

この件の概要は以下のようなものだ。

訴状によると、女性は2014年3月、市民病院の乳腺超音波検査で右乳房に腫瘤が見つかり、翌4月に良性か悪性かを判断するため検体を採取。病理検査の結果、乳がんと診断され、医師から「切除手術が必要」と告げられた。

女性は病院が紹介した別の医療センターで右乳房の一部を切除する手術を受けたが、腫瘍からがん細胞が検出されず、手術が必要な50代女性の検体と取り違えたことが判明した。病院によると、20代女性に謝罪し、外部調査委員会を発足させたが原因の特定には至らず、女性側に乳房の再建手術などの解決策を示していた。

出典:神戸新聞記事

なんで検体が取り違えられたという初歩的なミスが起こるのか…原因が特定できないとはどういうこと?医療現場どうなっているの?と思った方も多いだろう。

多発する「検体取り違え」

近年、こうした「検体取り違え」が訴訟になるケースが相次いでいる。2015年には千葉県がんセンターで、同じく乳房の組織の取り違えが発生し、誤った手術が行われた。

本例においては乳がんが疑われた二人の患者の生検検体が入れ替わり、誤った診断結果に基づいて一名に過剰な手術が行われた。(一方は浸潤性乳管癌(invasive ductal carcinoma)の診断であり、もう一方は乳管腺腫(ductal adenoma)ないしは乳管内乳頭腫(intraductal papilloma)の診断であった。乳管腺腫の場合、通常は経過観察となる)

出典:(平成28年2月)千葉県がんセンター検体取り違え事例の検討結果の報告について

このケースでは、「取り違えの過程を客観的に証明できる事象で検証した結果、検体の取り違えは採取後から病理組織を作成するために検体をカセットに挿入するまでの間に発生していた」ことが明らかにされたが、取り違えが起こった具体的な行為は明らかになっていない。

千葉県がんセンターは、この事例に関して、詳細な報告書を作成している。この報告書を読むと、身につまされる。こうした「検体取り違え」が、全国の医療現場で発生しうるものであることが明確にされているからだ。

手間の多い作業

患者さんから組織が採取されて、それが標本になり、病理医が診断し、報告書を書き、診断に基づいて治療が行われる。その過程は長く、手作業のものが多い。同報告書から、その手順を一部抜粋する。

外来ブースへの呼び入れ→問診・診察→超音波検査→局所麻酔→針生検→圧迫止血→病理伝票作成→検体容器を所定の場所に置く→検体受付・到着確認→病理番号添付→検体の処理(専用カセットへの検体の移動、切り出し)→パラフィン浸透(脱灰、脱脂)→包埋→薄切→染色、封入(標本完成)→病理医への提出

この長いプロセスのすべてで「検体取り違え」が発生する可能性がある。しかも、これで終わりではなく、病理医が診断をコンピュータのシステム上に入力し、それを電子カルテなどで臨床医が確認し、カンファレンス等を経て治療法が決定される。そこでも取り違えの可能性がある。

たとえば、病理医が異なった患者さんの組織の診断結果を入力してしまうというミスもあり得るし、実際起こっている。

検体取り違えではないが、診断結果を臨床医が確認しなかったためにがんが進行したという例もある。

すべてに注意を払え、真剣にやれ、というのはまったく正論だが、ミスをゼロにすることはできない。だから、ミスは起こるものとして、ミスが起こりにくいように手順を減らしたり、バーコードなどを利用した機械を用いる、ミスが起きても早期に発見できるようなシステムを導入するといった対策が必要になる。

相次ぐ検体取り違えを受け、病理医の集まりである日本病理学会も、今年7月19日に「検体取り扱いマニュアル」を発表した。このマニュアルでは、推奨する行為とやってはいけない行為を明記している。

たとえば、生検(組織を一つまみとってくる)検体に関しては以下のように書かれている。

<推奨>

*検体の到着確認は、その場で検体搬送者とともに行う

*検体の到着確認は、1 検体ごとに個別に行う

*検体の過不足等があった場合は、受付せず持ち帰ってもらうか,担当医等に直ちに連絡をする

*検体を包埋ブロック作製用カセットに移動する作業は 2 名以上の臨床検査技師で行う

*担当医は病理検査室からの問い合わせに真摯に答える

*検体の形状や性状等を病理診断申込書にスケッチ、記録する

*工程を担当した臨床検査技師あるいは補助事務員は、署名、押印等をする

<避けるべき手技>

*検体容器や個数、病理診断申込書との整合性の確認をしない

*疑問に思った点を、そのままにして作業を進める

こうしたマニュアルを徹底することにより、取り違えを減らすことはできるだろう。

問題は人員不足

しかし、「検体取り違え」が起こる背景には、もっと深刻な問題がある。それはマンパワーの不足だ。

近年病理検体は劇的に増加している。2005年と2014年を比較すると、日本国内の病理診断料件数は1.75倍、術中迅速件数は2.99倍、免疫染色件数は2.71倍になっている(同報告書より)。

しかし、それに人員が追い付いていない。

千葉県がんセンターも例外ではなく、2005 年の臨床病理総数(組織・細胞診含む)が229,345 件であったのに対して、2014 年は 469,607 件と実に 2 倍以上に増加している。しかしながら、病理検査技師・事務員は 7 名から 10 名に 3 名増えたのみ、検体の増加に伴う病理検査室の拡充等も行われていないのが現状である。

出典:病理検体の取り違え事故に関する報告書

千葉県がんセンターだけではない。多くの病院で、病理検査技師(臨床検査技師)は狭い部屋のなかで増える標本と格闘している。

このような、病理検査室の実情は千葉県がんセンターに限ったことだけではなく、全国の病理部門に共通した問題である。逆に、検体取り違え事故がこれほどまでに少ないのは、現場の病理検査技師を含む病院全体の医療スタッフの非常な努力に支えられてい

る。これまでの事例でもそうだが、事故が起こった病院の「犯人探し」に躍起になって、犯人が特定できればそれで終了、あとは「現場の作業手順の見直し等、現場任せ」では、検体取り違え事故は後を絶たない。非常に甚大な損害を被る患者さんの不幸を救うことができないと考える。

出典:病理検体の取り違え事故に関する報告書

「早い」「美味い」「安い」は両立できない

「検体取り違え」のみならず、医療現場では様々なミスや事故が発生し、患者さんに被害が出ている。医療関係者はミスや事故が起きないように日々努力しているが、個々の努力だけでは解決しきれない。

千葉県がんセンターの報告書が言うように、ミスを減らすためには、人員の補充(ヒト)、バーコードを用いたシステムの導入(モノ)、場所の拡充(モノ)などが必要でありそれにはカネがかかる。

そのカネは患者さん、国民が負担する。つまり、国民がカネをどれだけ投入するかを決めなければならない。

牛丼とは違って、「早い」(スピーディーな診断)、「美味い」(ミスのない確実な診断)を「安い」価格ではできないということだ。「安い」価格がいい、というのなら、「早い」「美味い」は犠牲にしなければならない。

「検体取り違え」を起こした病院を「ひどい病院だね」「あそこにはいかない」と批判するだけでは解決しない。医療関係者は当然として、国民がこの問題を「自分ごと」として認識し、決断し、行動していくことが必要なのだ。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

榎木英介の最近の記事