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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第三回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。

少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■なぜ実名報道にするのか、匿名報道にするのかを説明できないメディア

■自分の言葉で顔を出して語る文化風土

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■なぜ実名報道にするのか、匿名報道にするのかを説明できないメディア■

澤:

メディア側の責任が大きいと思います。人の名前を出す意味がここまで議論されない国は珍しいのではないでしょうか。記者の間で、自問自答や説明ができない。どうしてこういう取材をするんだと当事者から聞かれて、デスクに言われたからですと答えるような記者がいる」と言われたことがあります。そんな記者が本当にいるのかなと私はかなり疑問に思います。ですが、実名報道にこだわるのか、あるいは匿名報道にするのか、そういうことが説明できない人はかなり多いと思うんです。

藤井:

犯罪被害者遺族の運動がこの10年広がる中で、取材に来た記者に対して、どうして取材に来たのか、被害者の名前をどうするか、加害者の名前をどうするのか等、遺族や当事者から問われる機会が増えました。大半は、よくわからないから来ました、勉強しに来ました、と言うのがほとんどです。死刑や刑罰についてどう思っているのかと問われると、とくにそうなります。別に意見が違うから取材を受けないと言っているわけではなくて、記者の現在の意見を聞きたいと。やはり普段から考えていないと、意見を言えないです。少年は少年法で名前を報道できないことに会社としてもなっています、の先の意見が言えない。

澤:

かつてはナントカ新聞とかナントカ放送という名前が「権威」だったのかもしれない。その名刺を見るだけで取材に答えなければならないもの、という空気があった。私はニューヨーク特派員時代、国連の取材をしているときに、国連本部を観光で見に来た、日本人と思われる人たちに本部の建物の入口を教えてあげたりしたことがあります。親子三代で来ておられ、私が国連の出入り許可証をつけているので、国連の人ですか?と聞かれる。いえ共同通信の記者ですと答えると、おばあさんは私はものすごく私をえらい人のように扱うわけです。お父さんたちはマスコミにはちょっと冷ややかな感じ。子どもの代になると「知らない」。子どもたちはマスコミに対してリアリティがないのかもしれません。お上的なふるまいができた時代なら、先のような説明をする必要もなかったかもしれない。日本のニュースや記事の書き方って、「記者が教えてる」ような感じになりがちです。偉そうにしてはいけないし、そんなつもりもないけれど、何だかそういう雰囲気になっていたのかも知れない。でもほんとうは、この人はこう言っている、この人は逆にこう言っていると「伝える」役割だし、だから英語の記事は「誰がどう言った」を中心とする積み重ねです。メディアなのでまさに「間」に立つという原点にかえったほうがいいと思っています。

藤井:

歴史のある大手メディアの特権性のようなものを背負っている記者はもはや絶滅危惧種になっていると思いたいです。そういえば、ある被害者団体の集まりではカメラクルーも記名させているところもあります。カメラクルーはそんなことをしたことがないから、カメラマンや音声さんがとまどっているところを見たこともあります。彼らは個人の名前を名乗って仕事をする機会や習慣が少ないというか、そういう仕組みになってないから。地方の通信局ではカメラマンがディレクターや記者の役割を兼ねることがありますが。

澤:

日本は「名乗る」ことが少ない気がします。記者会見でも記者がなかなか名乗りませんよね。どこどこ新聞の誰々です、ぐらい言う記者もいますが、会社名しか名乗らない人もたくさんいます。日本の匿名社会では名乗って生きていく、名乗って表現をするということが躊躇する文化がある気がするんです。「名乗るほどの者じゃありません」っていうか…。シンポジウムでも会場から質問する人も名乗りませんよね。街頭インタビューに日本では応じない人が少なくないけど、アメリカは積極的に応じて、自分の意見を聞いてくれという姿勢なのです。

私が大学のジャーナリズムスクールで議論の材料としてよく見せるんですが、たとえば、アメリカのコネティカット州にあるサンディフック小学校で乱射事件が起き、子供20人を含む26人が亡くなった。ニューヨークタイムズの一面には26人の名前が大きく一覧が出るわけです。犠牲になった子どもたちや先生たちの名前です。追悼のろうそくの写真とともに、一人一人の名前がテレビにゆっくりと流れる。そうやって被害者の名前を市民が共有しようとする。一方で、アンダーソン・クーパーという有名なCNNのアンカーが、犯人の名前を呼びたくないと言うんですね。人の名を呼ぶことは本来、その人に対する尊重の意を示すことです。晒しではなく、ヒューマンな視点から「この者の名はもう呼びたくない」と言って、犯行への強い不快感を表明したんです。

ツイッターの匿名比率が日本は75パーセントで( http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ )、アメリカは35パーセントしかない。フランスはだいたい半々。韓国でも30パーセント。ウィキペディアでも、事件についての記述は日本語版だけは関係者が匿名で書かれている。アメリカで乱射事件の翌日に被害者の父親が語っているシーンを観かけませんか。

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■自分の言葉で顔を出して語る文化風土■

藤井:

ええ、驚きます。アメリカなどでは被害者遺族や、加害者家族、容疑者家族までメディアの取材に応じて、事件直後から語っているところをニュースで観ると、日本とほぼ真逆です。事件直後にはとても話せる精神状況ではないし、日本で直後から顔を出して語っている遺族は稀です。アメリカでは、そういう状況に自分があっても、語らなければならないという意識が強いのですか。

澤:

先ほど話した乱射事件の遺族となった父親のロビー・パーカーさんは娘さんがどういう人間だったかを、懸命に精神がぼろぼろの状態で語っている。涙をこらえて語っている姿に私も心を打たれました。話し方は、弁論大会ではないけど堂々と訴えるようなふうにしている。前を向いて語ります。そうであってほしいとか、そうすべきだなんてことを言うつもりはありません。特に記者が言うことではないと思います。でも、大変心を打たれたんです。

藤井:

日本でも犯罪遺族の運動が広がるにつれて、遺族の人たちが裁判のあとに記者会見をするときに、原稿を用意してそれを読みあげるようにしています。どこを編集されてもいいように。あるいはなるべく冷静に読みあげたり、記者からの質問にも淡々に答える。なるべく感情を露にしないようにしているそうです。つまり、遺族はいつも泣いていたり怒っている「感情的な存在」というステレオタイプなイメージを伝えてほしくないからです。ときおりテレビのアナウンサーらしき人があえて涙を引き出すような、たとえば、今日のネクタイは亡き奥様が買ってくれたものですか?とか、いま天国にいる子どもさんに伝えたいことは?などのウェットなかんじの質問をすると、遺族は嫌がりますね。逆に淡々と答えるようにされています。

さきほどのアメリカの小学校乱射事件の被害者遺族の父親のように絶望的な状況の中でも、必死に堂々と語るという方は日本でも出てきました。光市母子殺害事件の遺族の本村洋さんは、日本の犯罪被害者イメージを変え、運動を大きく前に進めた牽引者の一人だとぼくは思ってますが、彼はまさに小学校乱射事件の父親と重なります。

澤:

乱射事件の遺族の父親は、気の毒になってしまうぐらい長時間、自宅の前で記者に対して話しているんです。市民としての責務感が強いのかなと、ふと思いました。それぞれメディアが押しかけてメディアスクラム状態に近かったと聞いていますが、その中で発言されていた。「語る」という文化風土は、記者が言うと傲慢に聞こえますが、「メンバー・オブ・ザ・パブリック」の意識なんだと思います。 日本でよく「通行人が見つけ110番した」という記事がある。その「通行人」が、英語の記事では「メンバー・オブ・ザ・パブリック」。公共のもメンバーの一人なんだと、私はハッとした。選挙で投票するときは「有権者」で参政権を行使するから「公共の一員」だと意識しますが、それ以外でも「メンバー・オブ・ザ・パブリック」なんだと。確かにどんな仕事もパブリックにつながっているのだし、事件の目撃者の「通行人」はまさに社会の問題である犯罪の現場に参加しているわけです。「目撃した通行人」は自分が選んでなったわけでもない。普通の人です。そういう人が公に語ると、日本だと「しゃしゃり出てる」って反感を持つ人も出てくるでしょう。ぼくはそれが嫌なんですよ。10年前にイラクで人質になった3人も叩かれましたが、いまなら後藤健二さんのことをネットで叩く。普通の市民が世の中のこと、公共のことに関与しようと一肌脱いだら気に入らないんでしょうか。でもどんな普通の市民もパブリックに関わっている。ちょっとずつ「公人」とでもいうか、名もなき「完全私人」は一人もいないパブリックの一人なのだから語るんです。公共の一翼を担うその人として、名前のある一個人としてです。

次回に続く

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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