堀と橋の多い水の都・大阪は水に弱い?
水運を活かした商都・大阪
豊臣秀吉は、信長が命を落とした本能寺の変の翌年1583年に、上町台地の北端に位置する石山本願寺の跡地に大阪城を築き始めました。城が完成したのは1585年です。まさに、その翌年1586年に天正の大地震が発生しました。その後、1596年慶長伊予地震・豊後地震・伏見地震、1605年慶長東海地震、1611年慶長三陸地震と続きました。大阪城は、天正から慶長にかけての大地震続発の直前にできたと言えます。ちょうどこの時期に、文禄の役、慶長の役、関ヶ原の戦いと続いて、江戸時代が始まり、政治の中心も大阪から江戸に移りました。江戸以降は、大阪は、淀川河口の低地にあることを活かすことで、水運を利用した商都として栄え、天下の台所として隆盛を極めました。水の都とか、八百八橋と言われる所以でもあります。
水に関わる地名の多い大阪
大阪の地形的な特徴は地名から察することができます。肥後橋、淀屋橋、天神橋、天満橋、四つ橋、心斎橋、日本橋、土佐堀、長堀、立売堀、道頓堀など、思い浮かぶ地名は、橋、堀、などが付く地名ばかりです。そのほかにも、中之島、北浜、難波、浪速、谷町など、水に関わる地名が沢山あります。私は、新大阪の駅から御堂筋線を利用することが良くありますが、新大阪駅から難波駅までの駅名は、新大阪、西中島南方、中津、梅田、淀屋橋、本町、心斎橋、難波と、島、津、田、橋、波、といった水辺の漢字が含まれています。
図は大阪の地形とバス停の停留所名を対比したものです。緑印が軟弱地盤地名、赤印が良好地盤地名のバス停の有る場所です。背景の白地のところは、三角州や海岸平野など軟弱な地盤に対応しています。地名は大切な情報を持っていそうです。
かつての砂州・上町台地
大阪城や大阪府庁舎がある上町台地は、かつて海の中にあった砂州でした。台地の東は河内の海、西は大阪の海で、砂州の北側では2つの海がつながっていました。浪速という地名は、潮の満ち引きで浪が速い流れで行き来したことからついたとも言われています。砂州が北側の陸地とつながって河内湖ができ、その後、陸化していきました。上町台地の西側も干拓・埋め立てが行われ、縦横に作られた堀によって、水運を利用した商都・大阪が形作られました。まさに、川に挟まれた中之島に高層ビルが林立する様子は、大阪のまちの特徴を表していると言えそうです。
津波や高潮に弱い低地
低地は、水害や、地震の揺れ・液状化の危険度が高くなります。これまでも、津波や高潮など、多くの水害に見舞われてきました。1707年宝永地震の津波で16,000人も無くなったとの記述が尾張藩士・堀貞儀が記した「朝林」に残されていると、新潟大学・矢田俊文教授が指摘されています。それにも関わらず、1854年安政南海地震で再び多数の津波犠牲者を出したことで、木津川の大正橋東詰に大地震両川口津波記石碑が建立されました。また、1934年室戸台風や1961年第二室戸台風などでも、高潮・高波などで甚大な浸水被害を被っています。
大阪府による南海トラフ巨大地震の被害予測結果が、最悪13万人もの死者となっている原因がこんなところにあると思われます。選挙も終わりましたので、松井知事と吉村市長が中心になって、土地利用のあり方も含め、防災・減災対策を推進していってもらいたいと思います。