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過去を学び将来に備える:歴史に影響を与えた戦国時代の地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

戦国時代

戦国時代には沢山の地震が起きました。戦乱の中、地震による混乱が拍車をかけたように感じます。1467年の応仁の乱や、1493年の明応の政変から、信長、秀吉、家康が天下をとり、大坂の陣に至るまで、百年余りにわたって戦乱の時代が続きましたが、この間、多くの地震が発生し、歴史の変化にも影響を与えたようです。

戦乱の時代に突入して起きた明応の地震(1498年9月20日)

明応地震は南海トラフ地震の一つと考えられており、大きな津波被害を出しました。当初は、東海地震と考えられていましたが、近年、南海地震も一緒に起きた可能性も指摘されています。

この地震では、淡水湖だった浜名湖の南岸が津波によって切れて、湖が遠州灘とつながり、今切ができたとされています。また、浜名湖の湖口にあった角避比古神社のご神体が津波により流されたそうです。後日、流れ着いたご神体を祀った細江神社は、地震の神様としても有名です。

現在の三重県津市である安濃津も津波によって大きな被害を受けました。鎌倉では、大仏の大仏殿が津波で流されたと言い伝えられています。ただし、1495年9月3日に起きた地震が関東地震で、その津波が原因だとの指摘もあります。また、1948年7月9日には西日本で大きな地震が発生していたようで、南海地震との関連も議論されています。

なにせ500年以上前のことですから、明快な結論は得られていないようです。いずれにせよ、戦国時代の始まりの時期に、大地震が連続して発生したことだけは確かなようです。

その後、戦乱の時代が続いたため、地震記録を残した古文書は十分に残っていません。1502年1月28日に越後、1510年9月21日に摂津・河内、1520年4月4日に紀伊・京都、1525年9月20日に鎌倉、などで地震の記録が残されています。戦乱の時代を収めた織田信長が生まれたのは1534年、今川義元を桶狭間で破ったのは1560年、命を落としたのは1582年ですが、この時期には大きな地震は無かったようです。

多くの武将を痛めつけた天正の地震(1586年1月18日)

1582年本能寺の変の翌年1583年に、秀吉による大阪城の築城が始まりました。豊臣秀吉と徳川家康との小牧・長久手の戦いは1584年、この激動の時代に起きたのが天正地震です。近畿から中部を襲った内陸の大地震で、阿寺断層、庄川断層、養老・桑名・四日市断層などが連動して起きたと考えられています。若狭湾や伊勢湾で津波の記録もあるので、海の断層も動いたのかもしれません。被害地域の広さは、内陸最大の地震と考えられている1891年濃尾地震より遙かに広域にわたります。

この地震では、近江の長浜城が全壊して山内一豊の一人娘与祢が圧死し、越中では木舟城が倒壊して前田利家の弟・秀継夫妻が死亡しました。さらに、飛騨では、帰雲山の山崩れで帰雲城が埋没し、内ヶ島氏が滅亡しました。この他にも、美濃の大垣城が全壊焼失し、伊勢の長島城や尾張の蟹江城も壊滅、清洲城は液状化の被害を受けました。このように、多くの戦国大名に被害が及びました。

地震の時、秀吉は、明智光秀が作った坂本城に居ましたが、慌てて大坂に逃げ帰りました。寒川旭先生によると、この地震の後、伏見城の普請に際して、地震とナマズとの関係を手紙に残したのが、地震とナマズを結びつけた最初の記録だそうです。また、秀吉が大垣城に前線基地として家康を攻めようとした矢先に、天正地震が起きたため、秀吉は家康と和解することになりました。

その後、1590年小田原征伐、1592年文禄の役と続いた後、1596年に浅間山の噴火と慶長の3地震が発生しました。実際にはこれらは文禄時代に起きたのですが、災いを気にしてか、文禄から慶長に改元されました。

伏見城を倒壊させ清正を復活させたと言われる慶長伏見地震(1596年9月5日)

秀吉の晩年に慶長伏見地震が起きました。前日9月4日には豊後地震が起き、津波によって大分の多くの家屋が流失し、瓜生島の80%が陥没したと言われています。さらに、9月1日には、四国の中央構造線で.慶長伊予地震が起きたと言われています。5日間の間に大地震が3つ起きるという歴史上稀に見る事態でした。

伏見地震では京都の被害が最も多く,明からの使節を迎える予定だった伏見城天守も大破しました。この地震に絡んで、歌舞伎の演目「地震加藤」も作られました。小西行長との確執で謹慎処分中だった加藤清正が、秀吉の身を案じて伏見城に駆けつけ、謹慎処分が解かれ、その後の戦乱で大活躍したという物語です。地震後、明との講和が頓挫し、1597年に慶長の役が始まり、清正は再び朝鮮に出兵し、翌1598年秀吉の死後、日本に撤退します。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍側に加わり、その後、熊本城や名古屋城を築きました。その熊本城が4月に起きた熊本地震で被災しました。

ちなみに名古屋城は、1610年に家康の命で築城を始めました。清洲城から城下町ごと熱田台地の北西端に高台移転をしたもので、清洲越と呼ばれています。この背景には、豊臣の大坂方に対抗する政治情勢や、1586年天正地震での液状化の被災、五条川のほとり故の水害危険度の高さなどが関係したと思われます。築城に際して清正は最も重要な天守の石垣作りに携わりました。

慶長地震(1605年2月3日)と慶長三陸地震(1611年11月2日)

家康が1603年に征夷大将軍になり、江戸幕府が開府した後に慶長地震が発生しました。一般には、この地震は、南海トラフ地震の一つと考えられていますが、津波の被害が顕著で揺れの被害記録が余り残されていないことから、震源に関しては南海トラフ以外にも色々な説が示されています。また、1624年に完成した53の宿場を通る東海道は、慶長地震の津波被災地を避けているように見えます。

1611年には、慶長三陸地震が起きました。この地震では、北海道も巨大津波に襲われたとの指摘があり、2011年東北地方太平洋沖地震と同様の巨大地震だった可能性があります。丁度400年で巨大地震が繰り返したことになります。この地震の後、仙台藩の藩主だった伊達政宗は様々な復興事業を行いました。その内容については、以前に記したYahooニュース「東日本大震災で活きた伊達政宗の時代の地震教訓」を参照下さい。

その後、1614年11月26日に越後や関東、東海、近畿、四国などで広域に被害を出す地震が発生したようですが、震源も含め不明な点が多いようです。この直後、1614年12月19日、木津川口で戦火を交え、大坂冬の陣が始まりました。そして、大坂夏の陣で、1615年6月4年に豊臣秀頼と淀殿が命を落としました。次の地震の活動期まで、しばらく地震の静穏期が続き、その間、徳川は盤石の体制を固めていきました。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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