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躁的になる日本社会~ハロウィン狂騒の明と暗~

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

躁的になる日本社会

狂騒のハロウィンが終わった。近年とみに思うことだが、本当に日本社会が躁的になってきていると感じる。所謂「パリピ」(パーリーピーポー)なども同様だが、躁的で明るいノリを全開にさせて憚らない風潮が、ますます強烈になってきた。各種報道では、渋谷を筆頭に、全国の繁華街の津々浦々で「ハロウィン旋風」なる狂騒が吹き荒れたという。多くの場合、ハロウィンは肯定的にとらえられている。かつてこれほどまでに日本社会が躁的の度を増した事例は、珍しいであろう。

ハロウィンの狂騒が増勢するにつれ、それに対する批判もまた声高に叫ばれるようになった。曰く、第一にそれはハロウィン騒ぎの「祭りの後」のゴミ散乱のマナー問題であり、または乱痴気騒ぎ然とした中での女性に対するセクハラ事案であり、あるいは精神論的な側面から「本来ハロウィンは舶来のものであり…」等である。或いはアイドルグループの一部がナチ将校の仮装で臨んだとかの云々である。

ハロウィン本当の問題点

しかしこれらはどれもハロウィン狂騒の本質的な問題点を指摘していない。愁眉の課題とされる参加者のゴミ問題(マナー違反等)は、何もハロウィンだけに限っておこるものではない。騒ぎに乗じたセクハラも、多数が集まる「芋洗い」状態の空間では普遍的に起こりうる問題である。祭りの由来云々は難癖の論外であり、アイドルのナチ将校風の仮装は、歴史事実に対する無知は糾弾されて然るべきと思うが、逆に無知がゆえにその文脈の中に差別的意味合いを自覚するものではなかったのであろう。すると、ハロウィン狂騒の本質的問題とは何だろうか。

それは、ハロウィンの構造的な要因に帰結する。仮装をして繁華街に集合するハロウィンの参加者の最小単位は、単数ではなく複数であるということだ。よほどの奇特なものではない限り、ハロウィンは最低2人以上(実際にはそれ以上)の「集団」が参加の最小単位となる。つまり換言すれば、ハロウィンは「友達がいる」人間にのみ許された特権的狂騒なのである。

「友達がいる」ことが前提の集団イベント

この、参加人数の最小単位が単数ではなく複数、というハロウィンが構造的に持つ要因こそ、ハロウィン狂騒の本質的問題点である。クリスマスやバレンタインデーは、その構造上、参加の最小単位は単数である。そして自己完結の形式をとる。クリスマスやバレンタインデーの当日の様子を思い浮かべれば、むしろ繁華街に人々が集結するのではなく、家路を急ぐ人々の多い事がわかろう。クリスマスやバレンタインデーの当日、繁華街にいる事のほうがむしろ野暮であると捉えられてきたのである。

「集合」「みせびらかし」の必要のない、1対1の自己完結型のクリスマスやバレンタインデーと、ハロウィンは根本的に異なっている。ハロウィンは最初から「集合」と「みせびらかし」を前提とした複数単位での参加行事であり、極論すれば一人部屋でケーキを食えばそれでいっぱしの「クリスマス気分」を味わえる前述の自己完結とは対極にある、集団・徒党を前提とした異形の躁イベントなのである。

「友達がいる」人間にのみ許された特権的狂騒としてのハロウィンは、当然、友達のいない人間に対する前提的な排斥と排外の力が働いている。ハロウィンに行く友達くらい、いるだろう、と高をくくっているかもしれないが、若年層の対人関係は大きく二極化している。オリコンが2010年に調査したところによると、「友人の平均人数」は、専門・大学生の平均で「44.8人」と出た。専門・大学生の若年層は、ハロウィン参加のボリューム層であるから、この数字だけを見ると、「ハロウィンに参加することができない若者」は一見していないようにも思え、心配は杞憂のようにも思える。

「友達がいる」ことは当たり前ではない

しかし一方で、「ぼっち」という単語がとみに繁茂する。大学の学食で一人で昼食を採ったり、一人で学食に居る事が耐えられず、トイレに駆け込んで昼食を済ます所謂「便所飯」(福満しげゆき氏の作品群の中に鋭利に示されている)をはじめ、大学生活の中での「孤立」「孤食」の問題は決して小さくない。2014年に産経新聞が報じたところによると、大阪大学や京都大学、早稲田大学などが新入生向けの「友達作り支援」の取り組みを行っているという。大学内での孤立化は、単位取得や情報交換の面でも劣後してしまう。大学側が「友人作り」をサポートしなければならないほど、「友人作り」に悩む若者は多い。

当然これらは、新社会人や若年層一般にも同様に言えることである。「ハロウィンに一緒に行く友人がいる」ことは、実は当たり前のことではないのだ。

一方、そんなサポートなど全く必要のない若者は、実に天然で自明の行為として友人たちと複数人でハロウィンの狂騒に身を投じることができる。この「人的資源の格差」はあまりにも大きい。「44.8人」という数字はあくまで平均であり、限りなく0か、まったく0という人々の存在を忘れてはいけない。

かくいう私など、20代の折には全く友人がおらず、まして大学生時代はその傾向がとみに顕著で、常に一人で学食でうどんやらカレー類やらを掻っ込む己の姿に、随分と恥辱を感じたものである。集団・徒党を原則とするハロウィンへの参加は特権的であり、少なくない「友人ゼロ」の人間にとって、ハロウィンの狂騒はひたすら排外の理屈が公然と大手を振ってまかり通っている異形の空間であるといえよう。

ハロウィンが生み出す明と暗

ハロウィンやパリピが強調されすぎるのは、明らかに社会的弊害を生む。レンブラントの絵画を見てもそうであるように、強すぎる光は、必ず同等に濃い影を生む。ハロウィンやクラブパーティーに参加する若者の動態を「自明のこと」として扱ってしまうと、その明に対して必ず発生する暗部分の住民たちの、やるせない憤怒と憎悪はおざなりにされてしまう。

かつてこの国がバブル経済にわき、官・民が躁的で、明るい何かの雰囲気に包まれていた時に発生したカルトこそ、オウム真理教であった。オウム真理教に入信した人々の多くは、バブル景気の狂乱という躁的なノリを懐疑し、麻原の説く偽りの精神世界に没入していった。まさしく彼らはバブル時代の「明」が必然的に生んだ光の陰の部分に当たる、濃い「暗」に住んでいた人々である。

勘違いされないように断っておくと、私はハロウィンがオウムのようなカルトを生む、と言っているのではない。躁的で、明るく、集団で徒党を組んだ狂騒をあまりにも肯定しすぎると、そこから排斥された人々、つまり暗の影がより濃くなるといっているに過ぎない。ハロウィンを楽しむことは結構なことだが、ハロウィンに参加するのは当たり前、という風潮が亢進すると、そこにどうしても入る事の出来ない人々の存在が見捨てられがちだ。

暗部からの逆襲、という想像力

ハロウィンは常にマナーの視点を中心にその問題が語られてきた。しかし真の問題は、ハロウィンの狂騒という躁空間に存在する人々の動態ではない。「あの場所に行きたくても行けない人々」の存在、つまりハロウィン狂騒から排斥された人々こそが問題なのである。友人に恵まれている人間のみが特権的に集団で行う行事を、自明のこととして持て囃すのは危険だ。

明の部分を強調しすぎると、かならず暗部が色濃くなる。そして時と場合によっては、その暗部が強烈な憎悪を持って社会に牙をむくかもしれない、という想像力をもっと持つべきである。日本社会がどんどん躁的になり、ましてそれを首肯する風潮が跋扈するなかで、ほとんどの人々が、その光の陰にある、将来発生するかもしれない得体のしれない凶暴な何か、に対する想像力を欠いていることに愕然とする。

そして少なくとも、その暗部が凶暴な何かに変化しないまでも、あまりにもその暗に対する思慮を欠いていることに、慊(あきた)らなさを強く感じるのである。この社会は、友を持たない人間、友の少ない人間、あるいは友を持ちたくとも持ちえない人間に対し、急速に冷淡になりつつある。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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