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単なるバッシングでは意味が無い。メディア・報道への強い、意義と正当性のある「提言」を

不破雷蔵「グラフ化してみる」「さぐる」ジャーナブロガー 検証・解説者
↑ 抗議をしただけでは意味が無い。改善が期待できる場の構築の「提言」を

批判、バッシング「だけ」なら自己満足でしかない。求めるのは状況の改善

元々の体質が暴露されただけなのか、あるいは経年劣化のせいなのか、「報道」の大義を振りかざし続け、その状態に慣れて自浄作用が働かなくなったのか(恐らくすべてだろう)、日本の既存メディアの質が劣化しているとの話を良く見聞きし、実体験している。しかし、仮にメディアの質がアウトだとして、単にこれまで通りにその実情、対応をバッシングをしても、リソースの無駄になる場合が多い。これまでの実情がそれを証明している。彼らの悪質な行為に対する意見や抗議によって、状況が進歩発展改善したことがあっただろうか。

なぜなのか。体質そのものとして、元々叩かれる要素を内包しており、何度でも同じことが繰り返されるからだ。例えば事実でなくとも、意図がねじ曲げられても、否定的・危険性を煽る記事が繰り返されるのは、第三者にとって「生存本能の観点から、プラス要因よりもマイナス要因の方を注視しやすい」「他人の不幸で相対的に自分の幸福感を覚える」からである。自分の生死にかかわりうる情報は、誰とて目を見張る。それをメディアは知っているからこそ、内容が事実でない、煽り記事は繰り返される。

そして叩かれる体質や内情が、抗議程度で是正されるような器量をメディア側が持ち合わせているのなら、そもそもそのようなことは起こらない。さらに「やればできる子」は滅多にいない。

「それでは状況は悪化するばかりでは」。現在進行形の状況がまさにそれに他ならない。そこで(抗議をする読者側、そしてわずかに居るであろうと期待したいメディア内部の「やればできる子」に対し)いくつかの提言を覚え書きしたい。

三つの提言

(1)記名記事の促進と責任の明確化

海外報道では当たり前の話だが、極力記名記事化を推し進めるような雰囲気を形成する。そして無記名記事ならば、これもまた当たり前の話だが、その媒体全体(企業単位)に責任をとってもらう。記名記事には執筆者が責任を持って展開・対応をする(無論媒体全体もバックアップはする)。そして必要時には一定の指摘、訂正を受け入れる体制が整備されていなければならない。要は真摯たれということだ。

記名記事ならば、[bylines.news.yahoo.co.jp/fuwaraizo/20130804-00026971/ ネット上でウソやデマにだまされないためのチェックリスト]で指摘している「5.著者名・過去の発言検索を欠かさない」「6.肩書に惑わされない」が有効活用できる。

企業全体が責任を持つ記事(=無記名記事)で生じた問題には、個人による問題と同一の姿勢・スタイルで媒体企業に対応をしてもらう。企業法人・編集部が対応する場合、概して「全体としては些細な話なので、無視」あるいは「遺憾に思う」でオシマイとなり、責任そのものが薄れてしまう……という常識をメディア自身が作り、責任回避のルートとして確立してしまっている。事実上、無記名記事なら誰も責任を取らずに済む状態となっている。

だが少し思い返してほしい。一般企業の場合なら似たような状況の場合、一支店の問題とて、企業全体が謝罪に応じ対応を求められるのが常だ。先の「アイスクリームケース乱入事件」が良い例である。一連の問題発覚の際、「一支店の問題なのでFC全体としては関知しません」とコメントしたり、黙殺した企業があっただろうか。

(2)ケアレスミスを認める体制を求める

ケアレスミス、ちょっとした間違いは誰にでもある。それを認める姿勢が欠かせない。ところがそのミスを誤魔化し、あるいはなかったような姿勢を繰り返していると、米の調査のように「メディアはミスを誤魔化す」という認識が蔓延し、メディアそのものの存在価値は地に落ちる(ミスを認める18%・誤魔化そうとする72%…米でのニュースへの信頼性などをグラフ化してみる)。いや、すでに落ちているのかもしれないし、だとしてもそれは自業自得ではあるが。

↑ 報道機関は自らの間違いを認めるか(米国の報道に対する市民の反応)
↑ 報道機関は自らの間違いを認めるか(米国の報道に対する市民の反応)

(3)事実の隠ぺいや意図的な誤認・誤情報の展開による、非難の対象となる記事を書けない、書いても環境的に否定されるような「場」の構築

具体的には先日の報道される側による一次情報公開のススメがその方策となる。本来メディア、報道の存在意義、求められている要素は「分かりやすく端的な解説」「多様な付加情報をつけて理解度を深めるための存在」である。誰しも時間が限られているからこそ、正しく要約してくれるメディアを求め、信頼している。ところが上記にある通り、その信頼性が薄れている現状は否めない。

分かりやすく説明する」と「事実と違う内容を説明する」は別物である。記者が思いのたけを語るのは一向にかまわないが、それをする場所は報道・メディアの媒体上ではない。仮にその場で行うとしても、自らの考えであることを明記しなければならない。さも事実のように語り、読者に「布教」するのではたまったものではない。

メディアが振りかざす「錦の御旗」は本物だろうか

これらの要素は何も悪意あるものでは無い。客観的に見ても「メディア・報道の質を改善するためには欠かせない要素」ばかりである。仮に強固な反発をするとしたら、何か後ろめたいものがあるのだろう。「何故反対するのですか?」とメディア側に問い返した場合、世間に向けて主張できる内容の反論が可能だろうか。

また、このような話を展開すると、必ず「報道が委縮してしまう」「報道の自由が束縛される」という反論がある(しかも大抵において、報道サイド、あるいはそれに近しい立場の人達からだ)。しかしそれは勘違いでしかない。

メディアに、報道に「自由」はある。これは間違いない。その主張は当然であるし、それは守られるべき権利である。しかしその「自由」は必然的に責任を伴う。責任の無い「自由」は「自由」では無く、単なる「自由奔放」でしかない。そしてその「自由奔放」は「報道」の名の下に保護される対象とはならない。煽動のみで注目を集めれば、商売だからそれでOK、責任は取らない……これでは反社会的な活動家と何ら変わりはない。

現在、メディアが、報道が振りかざしている錦の御旗「自由」は、実態としては責任の無い「自由奔放」でしかないのではないか。そう考える人は少なくあるまい。多分に、それが事実だと気が付いているのだろう。

誰かが言っていた。「不特定多数の場にさらされる言葉に、いちいち責任を求めるのはキライだ」と。しかし責任の無い言葉は、第三者に公知喧伝されることを前提とするのなら、重み、真実性、言葉そのものの価値は極めて薄っぺらいものとなる。楽しい・面白いのようなエンタメ的なものならともかく、事実か否かの確証が必要なものの場合、それを裏付ける必要が生じるからだ。

そして裏付け行為が必要な場合、その言葉は報道・メディアとしての存在意義を持ち得ていないことになる。手持ちの時計が指し示す時間が正しいか否かを、別の時計で確かめるようなものだ。そしてそのような場合、「手持ちの時計」の存在意義はあるのだろうか。

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「グラフ化してみる」「さぐる」ジャーナブロガー 検証・解説者

ニュースサイト「ガベージニュース」管理人。3級ファイナンシャル・プランニング技能士(国家資格)。経済・社会情勢分野を中心に、官公庁発表情報をはじめ多彩な情報を多視点から俯瞰、グラフ化、さらには複数要件を組み合わせ・照らし合わせ、社会の鼓動を聴ける解説を行っています。過去の経歴を元に、軍事や歴史、携帯電話を中心としたデジタル系にも領域を広げることもあります。

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