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樋口尚文の千夜千本 第59夜「マジカル・ガール」(カルロス・ベルムト監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

想い出の小箱を、低温でエディットする才覚

『マジカル・ガール』を観ながら、あまりにも趣味や波長がシンクロしまくるので、てっきり同世代の監督かと思いきや(劇中に引用される日本のサブカルチャーのテイストがわれわれの世代になじみ深いものだった事もあり)なんと未知なるスペインの新鋭カルロス・ベルムト監督は1980年生まれの若手作家であった。だが、実はこの監督が自らの濃いオマージュの小箱をすべて過去のものとして並列で引用できる若い世代であることが、『マジカル・ガール』に理想的なオリジナリティをもたらしているのかもしれない。

だからこそ、冒頭の長山洋子のデビュー曲「春はSA・RA・SA・RA」も架空の日本の美少女アニメ「魔法少女ユキコ」も、狙いに狙う感じでもなく、ぬきさしならない雰囲気の基本設定として自然に描かれる。最近観ていておやと思ったジャパニーズ・カルチャーの引用といえば、ドラッグに溺れるニューヨークの若者たちの傷ましい生態を描いた米仏合作『神様なんかくそくらえ』でえんえんと冨田勲の「月の光」所収の有名なシンセ楽曲が流れるのだが、これはちょっと作者が「なんとなく」の無防備さで冨田を引用するので、なるほどというオリジナリティを醸すには至らなかった。この「なんとなく」の対極にある、たとえば『キル・ビル』などでのタランティーノの手口だと、逆に熱烈な『修羅雪姫』や制服美少女アニメの引用も奇妙な東洋趣味のキッチュとして浮いてしまう。この両者は、ジャパニーズ・カルチャーに「なんとなく」興味を持った若者ゆえの薄さと、「思い入れ過多な」伴走者であるオヤジ世代ゆえの濃さとの対比を感じさせる。

このいずれもが薄すぎ、濃すぎで作品をいいあんばいで実らせるに至らないのだが、『マジカル・ガール』におけるジャパニーズ・カルチャーの扱いは、監督がそれにハマりつつもサンプリングの数々を自在にエディットできる世代ゆえの洗練があって、ちゃんといわく言い難いオリジナルで無国籍的な意匠となって作品を彩るのであった。カルロス・ベルムト監督は、勅使河原宏、寺山修司、水木しげるに浅川マキが好きでゴールデン街をこよなく愛するという(いったいどうしてそうなったの?という感じだが)日本通というよりかなり特殊な日本偏愛者であるもようだが、それにしてはその引用の手際のストイックさが、この監督をよくいるディレッタントからいきいきした作家へと線引きしている。

その自らの日本趣味へのクールな処理は、一事が万事で作品全体の構成作劇すべてに絶妙の「寸止め感」を担保していて、その間合いが実に心憎い。「魔法少女ユキコ」にあこがれる難病で余命いくばくもない美少女アリシアに翻弄されて(いや、当事者はそんなに翻弄されている気もなくて、ただ愛情をそそいでいるつもりであるのがまたコワいのだが)、周囲の人びとは着々と負のスパイラルにまきこまれてゆく。その際、限定された登場人物たちの背負う状況は、決して饒舌ではないがごく印象的なかたちで語られるのだが、この人物の横顔を語り過ぎず、でも冷淡でもなく、「もうちょっと知りたいところだが」「それは何となくわかりはするが、しかし何なのだろう」というレベルで「寸止め」しつつ観客の思考を誘発しつづける演出が絶妙である(あのいくぶんサイコな人妻バルバラがあのトカゲ印の魔窟でいったい何をされているのか?!なんて、ついついダークな想像をめぐらせてしまうではないか)。俳優たちも、いちいちほどよくミステリアスで、ほどよくなじみやすく、ひじょうにいいところを突いたラインなのであった。

そんな際立った面白さと知的な引力の横溢する『マジカル・ガール』だが、あの衝撃的かつ含み多きラストで流れる、まさかの美輪明宏作詞・作曲、冨田勲編曲の「黒蜥蜴の唄」は、以前から大好きでしょっちゅう聴いている曲でもあったので「これはやられたな」と思ったのだが、そこでふとあらぬ連想に走った。この曲が主題歌であった深作欣二監督、丸山明宏(まだ美輪ではない)主演の松竹映画『黒蜥蜴』は1968年のお盆に封切られたのだが、これと二本立てで公開されたのは佐藤肇監督のSF怪奇映画『吸血鬼ゴケミドロ』だった。『吸血鬼ゴケミドロ』はそれこそタランティーノが『キル・ビル』でそっくりに場面再現してまでオマージュを捧げる斯界の傑作だが、この作品で何をもさておいてトラウマになるのは、吸血鬼役のシャンソン歌手・高英男の額がパックリ割れていることである。『マジカル・ガール』の主婦バルバラは、いきなり鏡に顔をぶつけて自ら額をパックリ割って、その異様な容貌が本作ならではの印象的なアイコンとなっている。

この額割りも余りに発作的な唐突さで、もちろん孤独な主婦バルバラのサイコ性の表現としてちゃんと物語に落ちてはいるのだが、しかし大団円に丸山明宏が流れるに及んで、よもやこれも併映作の高英男の額パックリが原点ではあるまいかと、1968年にこの恐るべき二本立てを目撃して戦慄したオジサンは想像をたくましくしたのであった。だが、いかに日本マニアであっても『黒蜥蜴』と『吸血鬼ゴケミドロ』が1968年の極東の国で二本立てであったことを1980年生まれのカルロス・ベルムトがさすがに知る由もないから、これはオジサンの考えすぎであろう。その趣味は濃いがマニアな「考えすぎ」からクールに離脱しているところがこの監督の最大のよさなのであるのだが、この黒蜥蜴と額パックリをめぐる恐るべき符合について、いつかゴールデン街のラ・ジュテなどで彼に耳打ちしてあげたいものである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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