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樋口尚文の千夜千本 第68夜「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
出演の塚本晋也監督と東宝スタジオのゴジラ像(撮影=樋口尚文)

「第二の戦後」が生んだ「国難」としてのゴジラ

さまざまな解釈を呼ぶキーワードづくしの『新世紀エヴァンゲリオン』ワールドを築いた庵野秀明は、この『ゴジラ』新作にもひじょうに気になる刻印をしている。それは題名『シン・ゴジラ』の”シン”だ。今作を観ている間、ずっとそれは何なのだろうと考えていた。単純にハリウッド版を受けて立って新たな境地を見せようという気合の”新”なのか、ハードな味わいの”辛”なのか。およそ1時間を過ぎたあたりで、これはやはり”真”なのだろうな、といっても樋口真嗣監督のそれではなくて、”真性”、”真髄”などと使う時の”真”では?という気がしてきた(中国での公開題には何の躊躇もなく”真”の字が使われているが!)。

その理由はまた後で書くとして、本作は東京湾で謎の生物らしきものが発見され、最初は無視をきめこんでいた政府がこの「巨大不明生物」の上陸と被害拡大に慌てふためき、ついに都心部で自衛隊の武力行使が行われるか否か・・・というところまでが序盤である。ゴジラが徐々に姿を見せるまでの特撮映像は臨場感があって素晴らしいが、あえて分量は控えられている。そのあたりの長いタメは第一作『ゴジラ』と同様なのだが、と言ってもわれわれはゴジラの形状にはさんざ親しんでいるので、それを勿体つけて見せてもしかたがない。そこで本作では、登場のしかたにユニークなひねりがあってそこは観てのお愉しみである。私は思わず「何だこれは!」と爆笑したが、やがて第一作への敬虔なオマージュとしてゴジラは「聖地」の品川・八ツ山橋に堂々出現、すわ戦闘開始かということになる。

そんなひねりを加えつつ、しかしこの序盤の大半を占めるのは、官邸内の率直な若手エリートである長谷川博己と竹野内豊、思わぬ事態に動揺と不安を隠せない総理の大杉漣ほか閣僚たちとの間の有事シミュレーション的な合議の迂回逡巡のプロセスで、こうしたディスカッションは全篇にわたって本作の軸となる。この有事の分析鎮圧にまつわる政界の描写といえば『皇帝のいない八月』が恰好のお手本だが、あの山本薩夫的な諧謔よりは『エヴァ』のネルフ首脳部やゼーレのシリアスな表現に近く、テンポはかなりきびきびしているが、映画全体のタッチはけっこう深刻である。そして、本作がこうしてシリアスにならざるを得ない理由も、だんだんとわかってくる。

ちなみに、この官邸内の政治家、官僚、識者といった面々のおびただしいキャスティングはなかなか凝っていて、そんな中でもお楽しみはベテラン映画監督たちのワンポイント起用だ。使えない御用学者という設定で犬童一心、緒方明、原一男の監督各位が登場という個所には笑ったが、塚本晋也監督に至ってはマニアックで頑なな学者の風貌で、ワンポイントどころか後半ずっと印象的に客演していた。さらに、なんと庵野が思い入れる『激動の昭和史 沖縄決戦』の岡本喜八監督もここぞというところで天上から召喚される。この画面には不在の謎の学者は、最愛の妻を放射能で失った悲嘆(『春と修羅』の”永訣の朝”を愛読しているらしい)から途方もない科学の企てを構想し、それが後半においては大きな展開上の鍵となってゆく。この姿なきキーマンは、『エヴァ』で亡き愛妻ユイへの思いから人類補完計画に走る碇ゲンドウさながらであり、『ゴジラ』第一作の科学の幸福と不幸を一身に背負った芹沢博士にも通ずる存在でもある。あるいは、『機動警察パトレイバー the Movie』で冒頭に自殺を遂げながら物語に君臨し続ける天才プログラマー、帆場暎一のことも思い出す。

序盤のこういった純正「怪獣映画」らしいシズルの導入部を経て、さらに中盤まで待ちに待って(!)漸くにして総理から自衛隊の武力鎮圧が許可される、という展開が非常にいい。私は映画内の刑事が犯人に、自衛隊が怪獣に、あまりにも安易に弾を撃つのがずっと不満であったので、本作が「怪獣映画」ながらここまでえんえんと武力攻撃が許されない(!)というのはわが意を得たりの快挙だった。もっとも「怪獣映画」の至宝『ガメラ 大怪獣空中決戦』も二十余年前にして専守防衛の観点で自衛隊は怪獣に武力攻撃できないという画期的なリアリズムを採っていた訳ではあるが、本作の大杉漣の総理はとにかく慎重なうえにも慎重に臆しながら、閣僚と対策チームにさんざん念を押されたあげくに、苦渋の判断で武力攻撃を許可するのである。

そして、おいしい特撮のカタルシスを暫しおあずけにしてタメにタメた後、晴れて自衛隊は自慢の兵器の数々を動員して堰を切ったような攻撃を開始する。自衛隊の演習の協力を仰いだ攻撃シーンは本多猪四郎監督時代からの『ゴジラ』映画のお家芸なれど、この無駄なく短時間で強烈な作戦行動に出るリアリズムは過去作品未踏のものだろう。バカな特撮映画は、こういう見せ場をだらだらと見せる訳だが、本作ではとことん待たせたあげくにかなり簡潔だ。実際の戦争はこういう計算のもとに一気に遂行されるものだ、という臨場感を漂わせつつ、見事な画角とVFXで痺れさせる中盤の見せ場である。

こうした徹底したリアリズムの積み重ねにあって、一点、真ん中にいるゴジラという存在だけがその枠を超える。つまり、この途方もない武力攻撃を受けたゴジラは、生物なのにミサイルの集中攻撃さえ通用しない。そもそもここでゴジラが死んだら話は終わってしまう訳だし、予告でも「ミサイルでも死なないのか!」と言っているぐらいだから、観客にとってこれはもう定番の出来事である。だが、今回特筆すべきは、ここでゴジラが死なない事はお約束の範疇なれど、本作にあってはその「不死身」の重みが旧作とはずいぶん違うということだ。つまり、ここに至るまで作品が描写のリアルさに徹底執着してきたおかげで、この不死身さは映画内では「あり得ない飛躍した虚構」というよりも「あり得ない事が起こってしまった現実」というふうに見える。庵野秀明にとって、この一点が大事だったのだと思う。庵野は、この「あり得ないこと」を本気で畏怖してもらうために、ここまでリアリズムを貫徹して外堀を埋めた、と言ってもいいかもしれない。要は、ここからが本番なのである。

すなわち、ここをもって『シン・ゴジラ』は、エキサイティングな「怪獣映画」からシリアスな「国難映画」に転ずる。つまり、この中盤の展開をもって、本作は『ゴジラ』シリーズというよりも、にわかに『日本沈没』(それも政治家、官僚、学者が主役だった昭和版のほう)の再来という感じに見えてくるのだった。一国の存亡を左右するほど想定外で危険に満ちた存在を前に、為政者たちは余りにもなす術がない。今や『日本沈没』で熱く国民を救おうとした丹波哲郎や藤岡弘、のような昭和の「カミカゼ」な人びとはおらず、この期に及んで意志なき風見鶏な政治家が手を拱くばかりだ。

あまつさえ70年代の『日本沈没』の頃には国土消滅はあくまでフィクションであったけれども、3.11以降はそれがリアルと化した。このたびのゴジラは、そのマグマで爛れたような形状も相俟ってアンコントロールな原子炉のごときイメージであり、平和ぼけした日本には実は人間が制御できない絶対的脅威が存在し、まさかの国家滅亡さえあるかもしれないと戦慄した、あの〈魔の刻〉をいやが上にも思い出させる。ここに踏み込む意図あらばこそ、庵野の構えは(表現はしたたかに愉しく遊戯的でありつつも)ごく深刻・・・いや真摯なものである。ここにおいて本作は、はっきりとしたメッセージのある娯楽映画となった。

はたして手のつけようのないこの脅威をどうにか制御するために、日本を震撼させる或る解決策(観てのお楽しみ)が提示されるのだが、旧世代の為政者たちが絶望的にダメであり続けるなか、長谷川博己をリーダーとする対策チームの生き残りはなんとか悪しき旧弊を突破しながら、新たな作戦行動を編み出そうとする。以後『エヴァ』の作戦シーンを彷彿とさせるタッチで描かれるのは、あのネルフの若く潔い担い手たちにも似たゴジラ対策チームの断固諦めないさまである。『エヴァ』シリーズでは、オトナたちの仕組んだ(時として非情で、腐ってもいる)安定と保身の原理を、若さにまかせた倫理観と使命感で突破せんとする次世代がエモーショナルに描かれたが、『シン・ゴジラ』の人物描写はずばりその越境と見ていいだろう。ここから大団円までは、『ゴジラ』というよりはくっきり『エヴァ』色の強い独特な熱さと速度で押してゆく。

ちなみに、こうして苦いメッセージ含みの戯画を経てなだれこむ最後の作戦行動は、どこかあの超強敵の使徒を国家一丸となって撃破する『エヴァ』第六話にも通ずる熱さとリアルさのつるべ打ちであった。そもそも東宝特撮映画では建機や電力を総動員した怪獣掃討の作戦準備の工事をリアルに描くのが定番でもあったので、庵野がこれらの影響(栄養?)を自家薬籠中のものとしたのがこの第六話の某作戦だったのかもしれない。それに勝るとも劣らず、今回の作戦描写の山場は、特撮ファンを大いに唸らせるであろうアイディアとオマージュ弾けるイメージの連打で、よくもまあこんなことを思いつくものだと痛快このうえない(今どき3.1chであの曲やあの曲が流れるという、涙なしにはすまない音楽の趣向も含めて)。おまけにこの作戦の戦闘指揮所が置かれる場所が北の丸公園の科学技術館の屋上だというのも、思わずクスッとさせられる。なぜならここは庵野が傑作『エヴァンゲリヲン新劇場版:破』でサントラまで引用して愛を表明する映画『太陽を盗んだ男』のラストでジュリーと文太が取っ組み合う、あの決闘の「聖地」ではないか!

いったいここを指令の拠点としてどんな奇想天外な作戦が展開されるのか、そこはむろん観てのお愉しみにしたいので詳しくは語らないが、あれやこれやの男子の好物アイテムが総がかりでゴジラに挑むなんて夢の饗宴バトルを誰が予想しよう(私の脳内では「どんどんでてこい はたらくくるま」の唄がループしていたが、なんたる奇抜で通快なアイディア!・・・作者世代のバイブルである『新幹線大爆破』の浜松駅周りのシュノーケルカメラ使用の名場面を想起させるカットもあり)。そして、この「聖地」に放射能防護服をまとった長谷川博己らが立ちはだかり、ゴジラの発する飯塚定雄的光線を背景にしつつ毅然とその動静に刮目する『宇宙大戦争』的なカットが余りにも閃きに満ちている(このクールな美学的カットは本作中で最も好きかもしれない)。かくして、巨大で太刀打ちできないヤマタノオロチに酒を呑ませて退治するがごとき作戦をもって、『日本沈没』的形勢にあえいでいた対策チームは一転『日本誕生』の喇叭を鳴らすのであった!

と、最後に庵野は観客の観たいものを突沸的に披露するのだが、こんな特撮カタルシスの糖衣にくるんで全篇で訴えかけようとしているのは、3.11以後の人間が制御できぬ〈神の火〉(奇しくもgodzillaのスペルもgodを含むし、シン=神かも知れない)と対峙したニッポン人がいかに無責任で無策であったか、そして今もって本当にわれわれは大丈夫なのかという問いかけだろう。生前の本多猪四郎監督に「最初の『ゴジラ』は今で言う反核のメッセージを訴えるために作ったのですか」と尋ねたら、「そんなテーマ先にありきで、それを語るために作ったのではありません」と言われて驚いたことがある。しかしよくよく考えると、本多監督が当時そんな気持ちであったことは自然と理解できる。すなわち、昭和二十九年時点ではまだ戦争も原爆も克明な上にも克明な記憶である訳で、ゴジラが「核実験が生んだ怪獣」という設定である以上、不可避的に作品は素朴な「怪獣映画」ならぬ、反戦・反核の意識を含んだ深刻な「国難映画」たらざるを得なかったに違いない。だからこそ、本多監督は娯楽映画の名職人としての矜持から、娯楽が砂糖のように貴重だった戦後の時代に、そんなシリアスな「国難映画」をあたう限り豊饒な特撮スペクタクル映画の側に牽引して、観客たちを心底愉しませようとしたのであろう(そこまでやったのに目ききの映画評論家からは原爆批判が辛気臭く娯楽になっていないと言われた始末である)。

だが、映画や音楽にメッセージ性は求められず、微温湯的で無為な娯楽作ばかりが居並ぶ現在、庵野は『ゴジラ』映画を撮るにあたって本多監督とは同じゴールに別の角度からアプローチせざるを得ない。つまり、今丸腰で『ゴジラ』映画を撮れば、せいぜい凝った「怪獣映画」という娯楽の域を出ないだろうし、今時の観客はそれ以上のものも求めていないかもしれない。しかし、3.11以後の「第二の戦後」を経た庵野は、どうしてもそれでは済まされなかったはずだ。庵野に限っては、表現をテーマやメッセージに追従させるのは大きな抵抗があるだろうし、いくらでも特撮やアニメのファンを喜ばせ得る娯楽的な表現の語彙を装備している訳だから、気を許して単なる娯楽作としての「怪獣映画」を作るのはそれこそ容易で愉快なことだろう。だが、3.11の痛覚を通過してしまった以上、庵野はこれを「国難映画」に敷衍して旧世代の倨傲と怠慢を叩き(終盤にその老獪さ、油断ならない感じにもふれつつ)、新世代に槍をもてと警鐘を鳴らすほかなかったのではないか。

また、こうしてアプローチの入り口こそ逆になっても、庵野秀明と本多猪四郎の目指す地点はまさに同じであって、豊かな娯楽的表現からなる「国難映画」というありかたにおいて、第一作『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』はひじょうによく似ている。そしてその元祖、本多『ゴジラ』のエッセンスを現在的な仕様でルネッサンスせんとするかに見える点で、『シン・ゴジラ』は『真・ゴジラ』ではないかと思われてならない。言わば『ゴジラ』の”真髄”をつぐもの、ということだが、そういえばゴジラの形状は後年子ども向けの人気キャラクターとしてコミカルに擬人化されていったが、元祖ゴジラの原型はグロテスクで手も小さく、自然物としての異物感が満載で、『シン・ゴジラ』はその本来の造型の意図を再現しようとしたふしがある。

また、本作には直近のハリウッド版『ゴジラ』のような巨大さを煽る仰角のショットや『クローバーフィールド』のように臨場感を狙ったPOV的なショットなども応用されつつ、第一作『ゴジラ』の基調となった東京の遠景にゴジラがゆっくりと進みゆくロングショットがとても大事にされている感じが嬉しかった(そのさまをたびたび文章で「能楽師のよう」とたとえてきた私としては今回のゴジラの所作を野村萬斎が担当したというのは、わが意を得たりであった!)。『シン・ゴジラ』のゴジラは、第一作のそれと同様に、引きの文明(都市)の画を台風のごとく漸進的に横断してゆく。「怪獣は台風のようにただ通り過ぎるのを待つしかない、畏怖すべき自然物である」というのは、本多猪四郎、実相寺昭雄といった特撮映画の師たちが異口同音に語った言葉である。そんなゴジラという存在への畏敬に満ちたまなざしに満ちた本作はおおむね強烈な庵野カラーに染め上げられている印象だが、樋口真嗣監督と尾上克郎准監督による特撮映像の数々はそんじょそこらのハリウッド的VFXには追随できないセンスと切れ味に大いに感電させられた。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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