Yahoo!ニュース

樋口尚文の千夜千本 第87夜「ラ・ラ・ランド」(デミアン・チャゼル監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:REX FEATURES/アフロ)

青春は、褒められ過ぎる春に似て

『セッション』に続くデミアン・チャゼル監督の力作『ラ・ラ・ランド』をとても愉しく観た。この監督の最大の特徴は「旗幟鮮明」ということに尽きるだろう。だからこそ、映画をあまり観なれていない観客をはじめ、ちょっとした見巧者も、このやりたいことの明快さには圧倒され、魅惑される。なにしろ今時は洋画も邦画もマーケティング的なことをあれこれ気にしてごちゃごちゃと要素を盛り込み過ぎる傾向があるから、この潔い「旗幟鮮明」ぶりは、ただでさえ目をひくことだろう。『セッション』の時もまるでそうだった。だが私は、自分が『セッション』を観る前に、あまりにむきになって誉める人が多かったのに往生して、本レビューの第31夜『セッション』評であえてちょっとシニカルなことを書いた。

それを少々抜粋すると「とてもよく出来た、しかも刺激性が強くて味が濃くわかりやすい映画なので、こういうのはちょっとした映画ファンにもとっつきやすいのだろうなとは思ったものの、正直言ってそんなに大向うを唸らせる映画でもないような気がした」「もちろんよくよく考えて構成されている映画なので特に文句はないし、もしもこんな小粒の辛い映画が何の評判も呼ばずにひっそりと公開されたら声高にその存在を喧伝したかもしれないが、巷間に渦巻く毀誉褒貶の饒舌の熱量にふれた後にあっては、特段偏愛の対象にしたいとは思わない映画である。決定的にそう思うのは、本作が作り手の青写真どおりにきっちり計算ずくで仕上げられていて、時として映画が生きもののように独り歩きして壊れたり、膨らんだりするスリリングな魅力が感じられなかったからだ」・・・というふうに、あまりに観客が持ち上げ過ぎているのに辟易して、「いやいくらなんでもそこまでは・・」とクールダウンさせる評を書いていた訳だが、今読むとちょっと過剰な風評のせいで作品が割を食っているようでもあり、いささか申し訳ない気もする。

とはいえ、このたび『ラ・ラ・ランド』を観ても、上記の『セッション』を観た時の感想とそんなに大きく更新されない感じなのだが、ただ私は『セッション』を観た時分にはうかつにもあることへの留意を忘れていた気がする。それは『セッション』を撮った頃のデミアン・チャゼルがまだ二十代後半で、今現在とて31歳になったばかりということだ。私は映画はさまざまな世代や性別や境遇のために存在すると思うし、撮る側も観る側も年齢を経るに連れて主義も嗜好も「変節」してゆくことに何も疑いを感じない。だから、デミアン・チャゼルのように、もはや自分の息子みたいな世代には、そういう迷いなき「若さの映画」が存在することを何も悪いとは思わない。『セッション』も『ラ・ラ・ランド』も、その若さゆえの「旗幟鮮明」さが眩しく、燦然と輝く映画である。これだけ好きなこと、信じていることを、衒いもなくまっすぐにやれてしまうのは、言うまでもなく若さの特権である。だが、それもこれらがデミアン・チャゼルのヨワイの作品であるがゆえのことであって、もし五十代も半ばくらいの監督がこんなことをやっていたら「旗幟鮮明」というより「狙いすました」という感じになってしまうであろう。今の日本映画の寵児(?)とされる監督にその好例があるのだが、飛び火っぽい言及もどうかと思うので本題に戻そう。

そんなことで『ラ・ラ・ランド』は巷間に喧伝されるジャック・ドゥミから鈴木清順(これはリップサービスとも言われるが『東京流れ者』のタイトルを記者会見で語ってくれただけでも快哉である)に至る絢爛たる本歌取りとエディット感覚によって、そして主演のライアン・ゴズリングとエマ・ストーン(私は前田敦子さんの若き視点によって本作に至るエマ・ストーンの魅力の系譜を教えられ、なるほどと思った)の機嫌よき演技に対する好感によって、ひじょうに愉しく観て損はない作品になっている。ただくり返し言うように、それはこの映画を「作家の青春」の映画として観た場合において、である。この監督のオヤジほどのヨワイに到達した自分には、この若さゆえの「旗幟鮮明」の爽快さとともに、それと引き換えに失った映画の玄妙さも自ずと気になってしまう。だからといって「若さ」の可能性と限界をシニカルに語ってかかる力作を貶めるものではないが、ありていに言えばこういう「作家の青春」の映画にふれていると、一方でやっぱり自らのヨワイに相応な玄妙な映画を観たい欲求がふつふつと湧いてくるのであった。映画には、もっともっとさまざまな相貌がある訳なので。

ゆくりなくも最近『家族の肖像』や『麦秋』のような玄妙なる、惑える作品を新作のように美しいリマスター版でたて続けに観たこともあって、若さと確信に満ちた『ラ・ラ・ランド』を「こういう作品もあって然るべき」とは思いこそすれ、「稀代の傑作」と大はしゃぎする気には到底なれない。でもそのかわり、この才気の横溢した若い作家の行く末を愉しみに、静かに追いかけたいとは思う。実際、作家の「若さ」と「旗幟鮮明ぶり」にばかり眩惑されるファンは、意外に作家と長いつきあいに至らないものだ。あんなに『地獄の黙示録』で天才扱いしてコッポラに熱狂したファンでも『胡蝶の夢』には付いて来ない。あんなに『汚れた血』を微熱とともに語ったレオス・カラックスのファンも、『ホーリー・モーターズ』となると無いことにしてしまう。あんなに『スワロウテイル』に騒いだ岩井俊二フリークも、『ヴァンパイア』からは目をそらす。不自然に「旬」のものにされているグザヴィエ・ドランの将来も、ちょっとアヤシイものだ。

それはあたかもホウレイ線が出来たらアイドルとは見做さない、という感覚に近いもので、作家の若々しい「旗幟鮮明ぶり」に盛り上がるファンは往々にして作家のヨワイ相応の「変節」に伴走しようとはしない(というか、むしろ「変節」を許容しない)。だから、せめていい歳したオヤジの私は『ラ・ラ・ランド』をなるべく静かに眺めながら、才気ある作者の「変節」を細く長く見ていようと思う。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

樋口尚文の最近の記事