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樋口尚文の千夜千本 第88夜【追悼】鈴木清順

樋口尚文映画評論家、映画監督。
遺作『オペレッタ狸御殿』記者会見時の鈴木清順監督。

撮影所に「潜伏」しつづけた「狂人」のアナーキーな華

鈴木清順監督を最後にお見かけしたのは、ちょうど4年前の築地本願寺での大島渚監督の葬儀の時であった。参列された清順監督は、本当に私の真ん前で車イスで読経を聴いておられた。ふとふらちな私は清順監督のキテレツなテレビ映画『木乃伊の恋』でずっとポクポク木魚が鳴るラップみたいな読経が続くのを思い出し、内容はやはりキテレツ過ぎて忘れたが清順監督の〈清順あほだら経〉という随想の題名の記憶がそこにクロスして、そういえば清順映画はどこか監督固有のふざけたお経を聴かされているようだったなあという感慨をもった。

日活時代のプログラム・ピクチャー群など、一応神妙にアクション物、任侠物、青春物、ミステリー物などの物語を読み聞かせるようでいて、よくよく聞いているととんでもない事をいけしゃあしゃあとやっている。そこに気づいた(清順さんの洒落がわかる)お客は一瞬あっけにとられ、にやりと笑いを催すことになる。しかつめらしいシネフィルはそれを「清順美学」と持ち上げたが、清順映画の醍醐味はこの粋と悪戯でかぶいてみせる〈あほだら経〉的な愉快さ、ばかばかしさであったことだろう。実際、もしかすると鈴木清順としてはあれだけ奇異なる作品を手がけながら終生変わった娯楽映画、もっと言えば見世物映画を撮っているつもりだったかもしれない(アートフィルムではなく)。

諸作で馬脚をあらわしていたこの遊びっぷりも、傑作『殺しの烙印』では遂に日活が堪忍できなくなって(なにしろ宍戸錠扮する殺し屋はパロマの炊飯器から出る飯炊きの湯気にエクスタシーを感じ、娯楽映画の鉄則に反して主人公なのに最後は虫けらのように消されてしまう)解雇騒ぎに至るが、これとて会社側が清順監督を不当にクビにしたと憤る前に、そもそもこんな「粋人」ならぬ「狂人」をよくもまあ採用し、よくもまあ十余年も自由に映画を作らせていたものだと感心が先立つ。清順監督は戦後間もない時期に大変な倍率をかいくぐって松竹に採用され、のち日活に転じ娯楽映画の監督となった。本物の「狂人」こそ、見るからにそんなふうではないということか。

そして清順監督は1956年の監督デビュー作『港の乾杯 勝利をわが手に』から問題となった1967年の『殺しの烙印』までのほぼ十年の間に四十作にも及ぶプログラム・ピクチャーを休みなく量産し、そこには傑作『けんかえれじい』や話題作『肉体の門』をはじめキワモノ的なアクションやスリラーまで実に幅広い作品をこなしているが、特段作家然と作品を選んでいるふしもない。「狂人」は何食わぬ顔で企業内監督として「潜伏」しつつ、プロデューサーから降りてきたシナリオはおおかた引き受け、その細部に自分なりの遊びをしのばすことに余念がなかった。

まんまと上々の「職人」監督と目されていた清順監督は、あまり話題にもならないが、あの松本清張の社会派推理小説だって映画化している。その1958年公開の『影なき声』は、確かにストーリーの表層だけ追えば何ら会社から文句のつかなさそうな、普通のミステリーだ。だが、いったんその映像感覚に刮目すれば、明らかに常人とは違う視野やパルスの持ち主が撮っている感じで、清順作品の題名よろしくやんわりと「すべてが狂ってる」のだ。それゆえにあらゆる清張原作の映画化作品とは全く異質な手ざわりの奇異なる作品が産み落とされたのだが、映画というものは筋書きレベル以外の感覚的な領域ではどうこうと言いにくいものなので、「狂人」の悪戯は実に十余年にわたり放牧されていた。

鈴木清順のこうした秘かなる戯作の試みは60年代に入るとやや度を越していったものの、『野獣の青春』『関東無宿』『刺青一代』『東京流れ者』などの目覚ましい脱線と飛躍ぶりは辛うじて細部に留まっていた。ところが異色の極みとも言うべき『殺しの烙印』で、清順監督の遊戯精神は乗りに乗って、かなりやんちゃに全篇に行き渡り、遂に日活社長の逆鱗にふれることとなった。この時の一方的な解雇通告は清順監督の日活提訴、原告を支援する名だたる映画人の集う「鈴木清順問題共闘会議」の結成など、映画界を揺るがす「事件」に発展した。だが私としては、むしろここに至るまで、日活が十余年にわたってこの「狂人」を順調に起用して奇篇の数々を撮らせ続けていた、ということのほうが驚きである。それは、まさにこの清順監督の十余年が、そのまま日本映画の産業としてのピークと、その地すべり的凋落の時期に相当することに由来するだろう。邦画興行の絶頂期の撮影所には、こんな危うい「狂人」が企業内に紛れ込む余裕があったというわけである。

だが、60年代も後半になるとテレビの普及やレジャーの多様化によって邦画各社の不振はいよいよ深刻なものとなり、「狂人」のしたたかな「潜伏」も暴かれるはめになった。やがて弱体化した日活とは和解で決着するも、こんなに映画業界を騒がせた異才を好んで使う映画会社もおらず、清順監督が返り咲くのは実に『殺しの烙印』から十年後、1977年に松竹で配給された『悲愁物語』を待たねばならなかった。当時期待を膨らませてこれを封切館に観に行った私は茫然とした。マスコミの寵児となった女子プロゴルファーが大衆のエゴに翻弄されるアクチュアルな寓話(なのか?!)を装いながら、このキテレツぶりには何の反省の色もない。

こんな既成の映画興行の枠組みにはどうにもおさまりが悪い(ことがバレてしまった)「狂人」監督に、絶妙な形で活躍の舞台を与えたのが劇団天象儀館の荒戸源次郎で、通常の映画館ならぬドーム型のテント劇場を町の一角に仮設して映画ごと巡業する「シネマ・プラセット」を発想、自らプロデュースした清順監督『ツィゴイネルワイゼン』の公開拠点としたのだった。折しも60年代のアングラ文化は吹き飛んだ1980年代初頭、この伝説の異才の入魂の作品を産直のドーム上映で観る、という枠組みは、アングラをファッショナブルに再興する感じがあって物見高い映画ファンが詰めかけた(生前の原田芳雄さんから直接伺ったのだが、初日に公開した版の桜の画が気に入らず、そこから監督と原田さんと数人でせっせと信州に桜を撮りに行って改訂したという、まさかのアングラな進化を遂げたのが今観られる版なのだそうだ)。この撮影所的制約から解放されて「狂人」ぶりをぞんぶんに披歴した清順作品にふれて、長く撮影所で常人と「間違われた男」であったこの異才の幸福と不幸を改めて思ったわけだが、かといって「シネマ・プラセット」はこの監督を企業からはみ出したアートの人だと窮屈に囲い込んでいないところがよかった。

つまり、清順監督はありていに言えば「芸術監督」なれど、その作風は粋で人を食った諧謔と絢爛たるフェイクの美、風狂の華に彩られた宏量なもので、あたかも見世物小屋のような「シネマ・プラセット」は、こうしたいわゆるアートな権威や重量を嫌う清順調に絶妙に似つかわしい公開スタイルだったのだ。幾度観たかもしれぬ『ツィゴイネルワイゼン』だが、後の『陽炎座』なども含めて、やはり「シネマ・プラセット」で観た体験があまりにも印象深く比類ない。このアートをあくまで愉しく見ようという千載一遇の「場」にありついて、清順監督はいかにも機嫌よく「狂人」の戯作を連打したのであった。それにしてもなぜこれほどまでの「狂人」を慕って多くの映画人が嬉々と振り回され(しかもスタッフも共闘会議のメンバーもほとんどが鬼籍に入るなか飄々と生き延び)、なぜこれほどまでにキテレツな作品を作る自由が許されていたのか、こうしてみると謎は深まるばかりである。深甚なる畏怖とともに、合掌。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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