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故郷の島に「バレンティン・ストリート」ができる!

本郷陽一『RONSPO』編集長

バレンティンは、オランダ国籍だが、生まれ育ったのは、カリブ海に浮かぶキュラソー島である。面積が448万平方キロメートルしかなく、人口15万人弱の小さな島だ。多くのユダヤ人にビザを発給してナチスの迫害から助けたことで知られる日本国領事・杉原千畝は、当時、このキュラソー島行きの「日本国通過ビザ」を発行していた。キュラソー島と日本人は意外な関係がある。

オランダ領だが、場所は、ベネズエラから、わずか60キロの沖合。そのラテンの血が、バレンティンに天性の能力をさずけたことは間違いない。他のラテン系の島と同様、この島でも、野球が、まるで国技のように盛んだそうだ。その遠くキュラソー島が、バレンティンの年間最多ホームランの日本記録更新に沸き返っている。かつてバレンティン一家が、暮らしていた街に、なんと「バレンティン・ストリート」ができるというのだ。

私が編集参加しているWEBサイトのアスリートジャーナルアスリートジャーナルの単独インタビューに、来日している母親のアスリットさんが明らかにしたものだ。

アメリカでも、往年の名選手の名前を、ストリートに名付ける風習があるが、メジャーの記録ではなく、日本のプロ野球記録を記念して、さっそくストリートとして名付けるのは異例だろう。バレンティン・ママも「神に感謝したい、ココ(バレンティンのことを母はこう呼んでいる)を応援してくれている優しい日本人のファンの方々に感謝したい。ぜひ、キュラソー島に来ることがあれば、バレンティン・ストリートを歩いて欲しい」と、感激していた。

アスリットさんによれば、バレンティンが15歳の時にひとつの転機があったという。 家庭の事情で、一家でオランダのアムステルダムに移住せねばならなくなったのだ。バレンティンは、ソフトボールの審判免許を持っているほど野球好きでスポーツウーマンだった母の影響を受けて、他の兄弟はサッカーはしていたのにもかかわらず、5歳から野球を始め、12歳で地元のリトルりーグのチームでプレーしていた。だが、野球が、マイナースポーツとして見られているオランダのアムステルダムに行けば、本格的な野球のできるチームがあるのかどうかもわからない。バレンティンの「将来、プロ野球選手になりたい」という夢は断たれる。

母は、「ここに残らねば、プロに行けない!」と決断、離れ離れの生活となるが、バレンティンに島に残るべきだと告げたという。

「ココも納得してくれたわ。結果、メジャーのスカウトに見初められ、アメリカに渡ったの。別々の暮らしを後悔することは一度もなかった」

バレンティンは母がオランダに去った翌年にシアトルマリナーズと契約を果たした。

もし母が、バレンティンの野球人としての将来よりも、一緒に暮らすことを優先していれば、彼が日本の野球界の歴史に名を残すことはなかっただろう。

『RONSPO』編集長

サンケイスポーツの記者としてスポーツの現場を歩きアマスポーツ、プロ野球、MLBなどを担当。その後、角川書店でスポーツ雑誌「スポーツ・ヤア!」の編集長を務めた。現在は不定期のスポーツ雑誌&WEBの「論スポ」の編集長、書籍のプロデュース&編集及び、自ら書籍も執筆。著書に「実現の条件―本田圭佑のルーツとは」(東邦出版)、「白球の約束―高校野球監督となった元プロ野球選手―」(角川書店)。

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