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ウェイド・ボックスの背番号「26」が永久欠番に。敏腕代理人が見守った顧客第1号の長い旅路と終着駅。

一村順子フリーランス・スポーツライター
フェンウェイパーク5月26日。記念式典でのスピーチで涙するボックス氏

メジャー通算3010安打を放ち、“安打製造機”と呼ばれたウェイド・ボッグス元内野手(57)のレッドソックス時代の背番号「26」が永久欠番となり、5月26日、本拠地フェンウェイパークで記念式典が行われた。全球団で永久欠番に指定されているジャッキー・ロビンソンの「42」と、8つの永久欠番が掲げられている右翼デッキ席に「26」が仲間入り。覆っていた赤い布が取り除かれると、ファンは総立ちで祝福。ボッグス氏は「永久欠番は最後に残された(パズルの)ピース。野球人としての長い旅路が今日、ようやく終わって、私は故郷(ホーム)に帰ってきました」とスピーチ。式典には86年のア・リーグ優勝メンバーらが参列。同年に最愛の母スーさんを交通事故で失ったボッグス氏は「天国の母が今ここに居たら」と涙を流した。

大観衆の中で、しみじみと喜びを噛み締めていたのが、プロ入り以来の代理人を務めてきたアラン・ニーロ氏(65)=オクタゴン野球部門最高責任者だ。

アラン・ニーロ代理人
アラン・ニーロ代理人

「自分が長年サポートしてきた選手の背番号が永久欠番になって感無量です。エージェント冥利に尽きる。今日は特別な日。私にとって彼は、最初のクライアント。メジャーで長く仕事をするきっかけになった選手です」

05年に野球殿堂入りを果たしたボッグス氏を始め、ランディー・ジョンソン氏(2015年=ダイアモンドバックス)、マイク・ピアザ(今年=メッツ)と、3人の殿堂入りを顧客に持つ敏腕代理人にとって、ボッグス氏は顧客第1号だった。まだ、代理人制度が確立していなかった時代。ボストンからほど近いロードアイランド州で生まれ育ち、地元でファイナンシャル・プランナーとして金融畑にいたニーロ氏は、大学のレスリング部のコーチと同時に、故障して障害を負った選手のサポートなどを行うようになる。そして、76年にレ軍にドラフト指名された若き日のボッグス選手が、同州ポータケットの3Aに昇格した際、ファイナンシャルアドバイザーとして知り合った。当時、大リーグの選手会が代理人交渉制度の権利を勝ち取った時代背景もあり、ボッグス氏の要請に応えて代理人としてのキャリアをスタートさせる。

「じゃあ、そのまま僕の代理人になってよ、という感じで頼まれたのがきっかけ。振り返ると、とても遠くにまで来た気がします。会社を立ち上げて35年が過ぎ、沢山の縁がありました。いい人間は、いい人間を選ぶ。そうやって人間関係を築いてきたことが誇りです」

81年にエージェント会社CSMGを設立。現在は全米屈指の大手スポーツエージェンシー、オクタゴンの野球統括部門の最高責任者で、20人の代理人のトップに立ち、200人の顧客を持つ。日本を始め、台湾、韓国などアジア球界とのパイプも強く、ヤクルトのバレンティンら同代理人が日本球界に送った選手は約100人に上る。

「最近の代理人業界は、更に難しいビジネスになっています。昔は球団がドラフトに指名してから選手と契約していたが、今では、世界中の有望選手は14歳で代理人と契約を結ぶ時代。クレージーですね。しかも、マイナーリーグにやってくるプロ選手のうち、実際に大リーガーになれるのは、わずか3%。97%の選手が大リーガーになれずに去っていく。タフな業界なんです」

引退後もボックス氏の代理人として、永久欠番の決定では球団との橋渡し役を行うなど、”最後のピース”をはめる作業を手助けしたニーロ代理人。顧客第1号が輝かしいキャリアを積み上げ、永久欠番の名誉を受ける姿を見守った。私が最初にニーロ氏と出会ったのは、在阪スポーツ紙で日本のプロ野球を担当していた90年代。普段は大勢の若い代理人に指示を与え、大きな交渉をまとめ上げる辣腕が、この日ばかりは、息子の卒業式に参列した父親のように柔和な笑顔をたたえていたのが印象的だった。

フリーランス・スポーツライター

89年産經新聞社入社。サンケイスポーツ運動部に所属。五輪種目、テニス、ラグビーなど一般スポーツを担当後、96年から大リーグ、プロ野球を担当する。日本人大リーガーや阪神、オリックスなどを取材。2001年から拠点を米国に移し、05年フリーランスに転向。ボストン近郊在住。メジャーリーグの現場から、徒然なるままにホットな話題をお届けします。

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