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お父さん、ボカロ小説って知ってます? 映画『脳漿炸裂ガール』を生んだ10代女子に人気の「物語×音楽」

飯田一史ライター
(写真:ロイター/アフロ)

実写映画『脳漿炸裂ガール』が2015年7月25日から公開になりました。

あらすじはのちほど紹介しますが、この作品は、ヤマハが開発した音声合成技術「ボーカロイド」(代表的なソフトウェアに初音ミクなどがある)を使ってつくられた楽曲を原案とした小説(いわゆる「ボカロ小説」)を原作としています。

この「ボカロ小説」は女子小中高生を中心に一定の人気を誇るジャンルになっています。

ここでは「ボカロ小説ってなんぞや」ということを、「なんか娘がミクとか好きみたいだけどよくわかんねえ」と思っているお父様方向けに紹介してみようと思います。

初めて聞いたひとにとっては「『ボカロ曲を原案にした小説を映画化した』とか言われても、なんのこっちゃ」と思うようなややこしい話でしょうが、簡単に言えば

「曲を元にして小説が作られ、それが実写映画化された」ということです。

で、その曲は「ボーカロイドを使っている」。

「ということは、映画のキービジュアルに映ってる二人の女の子のうち、右側にいるツインテールが初音ミクってこと?」と思うかもしれませんが、違います

『脳漿炸裂ガール』には、初音ミクや鏡音リン・レン、GUMIやIAといった、キャラクターとしてのボーカロイドは登場しません。

初めて聞いたひとには、ますますわけがわかりませんよね。

わけがわかるようになるには、ここまでに至るボカロ小説史をひもといていく必要があります。

■初音ミクブームからsupercellへ――ボカロキャラから作家へ(1)

商業出版におけるボカロ小説は、mothy(悪ノP)が2008年にニコニコ動画に投稿した人気楽曲「悪ノ召使」「悪ノ娘」をもとに、悪ノP自身の手で書かれ、PHP研究所から2010年に刊行された『悪ノ娘 黄のクロアデュール』が事実上のはじまりとなっています。

(なお、Yahoo!ニュース個人の仕様上、YouTubeの埋め込みはできますがニコ動の動画の埋め込みはできないようなので、YouTubeに公式動画がない場合、楽曲のリンクは基本的に貼りません。気になったら検索して聴いていただければ幸いです)

前年2007年は初音ミク元年です。

クリプトン・フューチャー・メディアが発売したこのソフトウェアが何なのかの説明はさすがにここではしませんが、2006年にサービスをスタートしたニコニコ動画を中心に、初音ミクでつくられた楽曲は発売してすぐに流行しはじめました。

最初期にはボカロのこと自体や、初音ミクとP(プロデューサーの意。作曲者のこと)やファンとの関係を自己言及的に描いた作品が多く、「ミクを使った遊び」としての側面が強いものでした。

その後supercellという独自の個性をもった「作家」が現れます。お遊び的なものを超えて、ミク以上にsupercellというクリエイターの才能が強く打ち出された一連の楽曲が人気になりました。

悪ノP以前に「ボカロの二次創作」の域を超えたオリジナリティの強いキャラ付けと高い物語性をもった曲といえば、supercellの「メルト」や「ブラックロック★シューター」をあげざるをえないでしょう。

彼がいたからこそ、悪ノPらが、ボカロを使いつつも独自の味付けを強烈に施しながら展開する「物語音楽」を受け入れる素地ができていたのかもしれません。

(このあたりの初期ミクブームなどをミクの開発・発売元であるクリプトン・フューチャーメディア寄りでボカロについてまとめた書籍に柴那典『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』がありますので、このへんはさらっと流します)

■ボカロ小説の誕生と形式の確立

そして2008年。

中世風ファンタジーの世界観のなかで、鏡音リン・レンなどのボーカロイドをモデルにしたキャラクターたちが遭遇する、起承転結のある悲劇――悪ノPの曲が、熱狂的なファンを生みました。

悪ノ作品は1曲1曲が物語調であるだけでなく、楽曲間にそのリンクが示されており、解釈の余地のある謎が残されたのです。

この時期には悪ノP自身もさまざまな解釈に対して「これが正解だ」と語ることを避けたことから、考察や二次創作をするファンが絶えることはありませんでした。

小説化のきっかけをつくったのは、現在に至るまでボカロ関連書籍の企画・編集を多数手がけるスタジオ・ハードデラックスでした。

はじめは悪ノPによる一連の物語を絵本にしないかと提案したそうですが、悪ノP自身が筆を執ると言ったことから、『悪ノ娘』は小説として企画されることになります。

初音ミク登場以降、局地的なブームだったとはいえ、一般的に認知されたとは言いがたかったボーカロイドを使った曲を小説にする――それもボーカロイド自体を扱ったものではなく、Pのオリジナル色の強い楽曲を長編小説化した本。などというものは、ニコ動の動向などよく知らない出版社の企画の意思決定者/決裁者(中高年層)を説得するのはおそろしく骨が折れたはずです。

PHP研究所から『悪ノ娘』は刊行されましたが、「Peace」「Hapiness」「Prosperity」を企業理念とする会社で「悪」というネガティブな響きをもつタイトルの企画を通すのは、なおさら大変な社内折衝が必要だったようです。

イノベーションというものは、こうやって始まるわけですね。

・困難を乗り越え発売された『悪ノ娘 黄のクロアデュール』は、予想以上に版を重ねました

曲が物語的であり、かつナゾがたくさんあったために、「こことここのつながりってどうなっているんだろう」「ここでこのキャラは何を考えていたのか」といったことを、ファンは知りたかった。そしてP自身が小説というかたちでひとつの答えを書いた。それは読みたいですよね。

ちなみにボカロ小説は『悪ノ娘』以降、現在に至るまで、一貫してほぼ10代女子から支持されています。これはニコ動でランキング上位に入るようなボカロ曲(再生数など人気ベースで見たメインストリームのボカロ楽曲)は、ミクがネギを振っていた最初期を除けば、ほとんど中高生女子が(再生回数ベースで言えば)コアユーザーだからです。

実はいわゆる少女小説/女子向けライトノベルレーベルの多くは、いまや読者の平均年齢が低くて20代、高いと40代という状態にあり、10代向け、それもローティーンやミドルティーンが買う小説ジャンルが「発見」されたことは、出版業界的には、とても意味のあるものだったと思います。

さて、その後もPHPは、悪ノPの「悪ノ娘」「悪ノ召使」とともに「鏡音三大悲劇」と呼ばれた、猫ロ眠@囚人Pの「囚人」「紙飛行機」、「soundless voice」「proof of life」をつくったひとしずくPの「秘蜜」、あるいは卒業ソングとして全国的な運動にまで発展したhalyosy「桜ノ雨」などを小説化します。

こうして、ボカロ小説の形式は確立されたのです。

P自身が書くこともあれば、Pはあくまで原案者として関わり、プロの作家がノベライズすることもありました。

ボカロ楽曲の流行は、2000年代後半にはミクや鏡音リン・レンといったボーカロイドを一種のスターシステムとして使った二次創作としてのボカロ曲が主流でした。

ゆえに、まずはこの時期の人気曲が小説化されていきます。

つまり初期のボカロ小説は、

ミクやリン・レンなどを「キャラクターとして好き」なボーカロイドファンと、

それぞれのPが作り出す楽曲のファンの

両方に支えられたものであったと言えます。

■もはや「ボカロ小説」ではない何かの誕生――ボカロキャラから作家へ(2)

こうした流れをある意味では加速し、ある意味では変えた作品が、KCG文庫から刊行されたじん(自然の敵P)『カゲロウデイズ』です。

2009年ころから、ボカロ楽曲シーンでは、キャラクターとしてのボーカロイドを前面に出さず、あくまで歌手/楽器として用い、Pオリジナルのキャラクターを使った物語風のMVも目立つようになっていました(ただし「ビバハピ」に代表されるMitchie M作品のように、ミクさんのかわいさを押し出したタイプの作品がなくなったわけではありません。同じ「ボカロ」でくくられているけれどもやっていることは別々の試みが、並走していると見た方が正確です)。

それも、2007~8年によく見られた近未来SFやファンタジーではなく、現代が舞台のものです。

小説も楽曲の流行の変遷を追うように、じんが自身のオリジナルキャラクターを使って紡ぐループもの「カゲロウプロジェクト」の一環として小説が2012年6月に発売され、オリコンウィークリーチャートで1位を獲得。

2011年8月に投稿された「カゲロウデイズ」以降、謎がちりばめられたカゲプロに熱心なファンがついていたこと。

同時期に発売された1stアルバム『メカクシティデイズ』がやはりオリコン2位となったこと。

価格の安い文庫で発売され爆発的なセールスをあげたことなどが重なり、大きな注目をあつめました。

繰り返しますが、じんの作品には、彼の使っている初音ミクやIAといったボーカロイドがキャラクターとして登場するわけではありません。

じんはミクやIAを楽器として使っているにすぎず、カゲプロにはじんがつくったオリジナルキャラしか出てきません。

つまりボカロ小説=「ボーカロイドが出てくる小説」では必ずしもなく、

「ボカロを使った曲を原作にした小説」=ボカロ小説になったわけです。

カゲプロ以降、終焉ノ栞プロジェクトやLast Note.『ミカグラ学園組曲』、Honey Works『告白予行演習』、そして実写映画化されたれるりり『脳漿炸裂ガール』など、Pオリジナルのキャラ(またはノベライズ作家が考えたオリジナルキャラクター)を使い、もはや作中にボーカロイドは出てこない小説も、次々にベストセラーとなりました。

これらの小説は「ボカロのキャラとしての人気に寄りかかった二次創作のムーブメント」ではなく、

「PとPがつくりだしたキャラクターが主役の、あたらしい音楽×物語のかたち」であったわけです。

※なお、小説『カゲロウデイズ』は版元であるエンターブレインおよびじんの所属事務所1st placeは公式見解では「ボカロ小説ブームとは一線を画したファーストコンテンツ」「動画サイトで人気を博した楽曲をもとに生まれたオリジナル小説」であり、いわゆる「ボカロ小説」としては売り出してもいなければ、そのように取り扱われることを好ましく思ってもいないようです。

■ボカロ小説に影響を与えたもの――ボカロ小説・前史

ちょっとここで、歴史を遡ってみましょう。

さきほどボカロ小説の前史的存在としてsupercellを挙げましたが、その外に目を向けると、「物語音楽」という意味での先駆にはSound Horizonがいます(クラシックや70年代プログレにも物語音楽はありますが、時代が違いすぎるので割愛します)。

悪ノP作品とは物語の残酷さと伏線/楽曲間のつながりの仕掛けの巧みさには相通じるものがあるからか、悪ノPファンとサンホラのファンは一部重なっていたようです。

また、2009年に登場したwowakaやハチ以降、ロキノン系(「ロッキング・オン・ジャパン」に登場するようなロックバンド)からの影響が如実なPが目立つようになりました。

物語+音楽という点ではバンプ・オブ・チキン、独特の厨二的な語感とエロスと“和”っぽい雰囲気(オリエンタリズム)という点では椎名林檎/東京事変などからの影響が、あちこちで見られます。

「ボカロ小説」と言うからには、小説家からの影響はどうでしょうか?

デッドボールP、スズム、sezuは星新一からの影響を公言しています。

数分の楽曲で物語を表現するさいに、ショートショートをお手本にしたのは興味ぶかいことです(ただし、みな性も暴力も時事ネタも扱っている点では星新一っぽくないのですが)。

また、猫ロ眠@囚人Pは西尾維新から、スズムは山田悠介や『王様ゲーム』に代表されるデスゲームものから、「てにをは」は京極夏彦からの影響がみられます。悪ノPは日本の児童文学の父と言われる小川未明作品を元に曲を作ってもいます(渋い!)。

うたたPと組んでいる鳥居羊のようにそもそもプロ作家がボカロの作詞家/ボカロ小説家になった場合は別ですが、Pのインタビューを読んでも意外とSFやミステリ、ラノベ作家の名前は気軽には挙がってきません。

作風が既存の小説と異なるから年長世代から「わからん」と言われている面もありますが、このあたりの、先行世代へのリスペクトをさほど積極的にアピールしないところに、「小説」(文芸)としてのボカロ小説がいささかナメられる原因がある気がしないでもありません。

てにをはは、あの辻真先にもちょっと誉められていたのに、作中でアガサ・クリスティーの某作のネタバレをしてしまったためにミステリファンから袋だたきにあってしまいました。ミステリ界の暗黙のルールを知らない若い作家であろうと大人げなくディスる、ジャンル小説のファンも(気持ちはわかりますが)ちょっとどうかと思うのですけれども……。

■カゲプロブーム以降――作家からボカロキャラへの揺り戻し?

さて、そろそろ話を戻しましょう。

カゲプロ登場以後は、どうなったでしょうか。

ボカロ自体がゲーム実況などに押されてニコ動のランキング上位にのぼることが減っていきました。

また、有望なPはメジャーデビューしたり、アニソンやアイドル、ゲームミュージックなどへの楽曲提供に転じるなど、いずれにしてもニコ動に楽曲を投稿する頻度も減るなど、いくつかの要因が重なり、ボカロ自体、一時期よりは落ち着いてきました(YouTubeや音楽アプリをはじめ、ニコ動以外でも聴けるようになって拡散しただけ、という意見もありますが、少なくともニコ動上では「ブーム」は終わり、「ジャンル」として安定した状態にあるとは思います)。

ボカロ小説も、「出せば売れる」バブリーな状態は、すぐに終わってしまいました。

本来、悪ノPやじんのような「ミュージシャンなのに、キャラクターや物語も作れる」人間は例外的な存在です。たとえ作曲者以外に物語を作れる人間を用意して組むにしても、そもそも物語性のある楽曲をつくり、小説連動でしかけを作ること自体が難しい。

したがって、大半の「Pオリジナルキャラクター」は、ミクをはじめとする「ボーカロイドキャラクター」よりも訴求力が弱いものにとどまりました。

「人気の曲を小説にすれば売れる」と誤解したところから、粗製濫造気味になったことも否めません。

今では基本的には「新しい曲よりも、再生数が多かった時代の昔の曲を小説化したほうが売れる」「ボーカロイドをキャラクターとして登場させた小説の方が、オリジナルキャラものの小説よりも売れる」状態になっています(一部例外はありますが)。

2015年夏段階では、ボカロ小説も「ブーム」は終わり、女子中高生向けの小説「ジャンル」として定着した、と言えるでしょう。

(ちなみにポプラ社は小学生向けのボカロ小説を展開しており、初音ミクや鏡音リン・レンのキャラクターとしてのかわいさを前面に打ち出した内容で、下は小学生中学年~高学年からボカロ小説のマーケットは存在しています)

そんななか、2015年4月からTVアニメ『ミカグラ学園組曲』が、7月に実写映画『脳漿炸裂ガール』が公開になりました。

いずれもボーカロイドキャラクターの二次創作ではなく、Pオリジナルキャラクター(『脳漿』のほうは正確には楽曲には名前のついたキャラクターは登場せず、ノベライズした吉田恵里香――今回の映画の脚本も手がけています――がつくったキャラクター)ものです。

ちなみに映画『脳漿』は、成績優秀者しか入れないお嬢様高校に中学生活のすべてを勉強に捧げて入学した非コミュで貧乏な一般人・市井ハナが、ひょんなことからその学園の中でもトップクラスの白リボン(普通は赤リボン)の集団とともに、「金の卵」を選ぶ「就職試験」と称したデスゲームに巻きこまれ、出題される難問に必死で答え、同級生たちが次々と無残に散っていくなか、勝ち残っていくという物語です。

これは小説版のストーリーとおおむね同じです。中高生に人気の山田悠介作品を研究してつくられた感がありますが、それで事実ヒットしたのだから、これは作家と編集者の戦略勝ちでしょう。ニコ動で400万回近く、YouTubeで約846万回再生されている原曲の圧倒的人気あってのことであることは、言うまでもありません。

また映画版は、R指定にならないように、つまり楽曲や小説のファン層である中学生でも観に行けるように暴力表現や倫理性に気をつかったつくりになっていました。導入部分こそ理不尽なデスゲームですし、悪役側は相当口が悪いのですが、「悪いことをしたやつは痛い目にあう」という因果応報な、道徳的な内容です。

私が映画観で観たときには親子連れもけっこういましたが、教育実習生とヤっちゃったことがバレてしまう女の子の存在以外は、最終的には親が観ても許容できるもの、親と観ても気まずくならないものではないでしょうか(セックスシーンどころか性的なシーンはほぼまったくありません)。

『ミカグラ』や『脳漿』の映像化が商業的に大成功すればジャンルとしてもういちど弾みがついたとは思います。

……しかし今のところはどちらかと言えば固定ファン向けの作品であって、ふたたび「ブーム」にするほどまでの爆発力はないようです。もっとも本来、ひとつの作品や作家にそんなことを負わせるのはまったくの筋違いなのですが、仮にそういう言い方をすれば、そうなります。

ただ実は、起爆剤となりうる隠し球がないわけではありません。

『千本桜』や悪ノシリーズのような、ボーカロイドキャラクターの二次創作ものは、いくら楽曲や小説で人気があっても、映像化されていません。これはおそらくは初音ミクなどのライツを握っているクリプトンなどの意向だと推測されています。ボーカロイドをキャラクターとして使って(二次創作として)小説にするまではOKだけれども、アニメや映画での映像化はNGだと。

たしかに、アニメや映画にした場合、ミクやリン・レンの二次創作であるキャラクターの声はどうするんだ、ボカロの声素材を提供した声優や歌手にやってもらうのか、という問題があります。

また、本来はボーカロイドキャラクターの二次創作なのに全国放送されてしまったら、あたかもそれがボーカロイドキャラクターの「公式見解」であるように誤解するひとも少なくないだろう、といった問題もあります。

そもそも「映像化することによって小説やDVD、関連商品を売り伸ばす」というビジネスモデル自体、出版社や映像業界にはなじみがありますが、音楽業界的な発想ではないでしょう。特定のボカロ小説が売れようが売れまいが、映像になろうがなるまいが、音楽文化/音楽ビジネス的にどれだけ関係があるんだ、うちの長期的な売り方やブランディングにどんな意味があるのか、とボカロメーカーが考えても不思議ではありません。

あるいは、2014年春に『メカクシティデイズ』というタイトルでアニメ化されたカゲプロは、アニメの出来がかんばしくなかったこともあって、(固定ファンは根強くいますが)残念ながらブームが失速していったことを思えば、そういうリスクもある。というか映像化は、ヒットしようがコケようが、どのみちブームの「ピーク」をつくってしまうものです。放映や公開が終わって以降は「映像化された時が最盛期だったよね」感が出てしまいます。そういうヤマタニ、人気の極端な満ち引きをつくることを避けたいという気持ちも、わかります。

ボーカロイドを自社IP、自社発のキャラクター/楽器として大事に売りたいボカロメーカー側と、ボカロを使った曲ではあるけれども自分の世界観を表現したものとして売りたいミュージシャン側(+小説を一気に売り伸ばしたい出版社側)で、思惑の違いが生まれてしまう場合もある。

というか、こうした背景もあってこそ、ボカロメーカーに対してしがらみが生じない、Pオリジナルキャラで曲をつくって(「キャラクター」としてではなく単に「楽器」としてボカロを使って)、小説化を皮切りにメディアミックスをめざそう、という動きも一部に出てきたわけです。

したがって「ボーカロイドキャラクターの二次創作楽曲を原作にしたアニメや映画」が実現するかといえば現時点では難しいように思われます。ただたとえば『千本桜』のアニメが観たいファンは少なくないはずです。ユーザーのことだけを考えれば、あるいはボカロジャンルにもういちどブームとしての火を付けるには、やってみてもいいのでは、と個人的には思っています。

■物語×音楽の「意味のあるメディアミックス」文化としてのボカロ小説

ちょっと商売の話に傾きすぎたので、心を清めて文化的な話をして文章をしめたいと思います。

断っておけば、ボーカロイド文化は非常に多様な側面を持っており、私がここまで書いてきたものは、ひとつの見方にすぎません。

ミクやリン、レンが歌うライブイベントとして人気の『マジカルミライ』はこんど日本武道館で開催されますし、また、音楽文化として観た場合には、動員数や再生数や部数といった数字には必ずしも還元できない別の豊かさが日々育まれていることも強調しておかなければなりません。

私の視点はあくまで「小説サイドから観たボカロ文化」という特殊ケースであり、ここまでは主に商業的な面から見てきましたし、ここからはもう少し文化的な面を見ていきます。

ボカロ小説は、Pが投稿したMV(ミュージックビデオ)を繰り返し観てから読まないと、十分に楽しめないようにできています。

小説の作中に、楽曲から拾ってきた要素や、楽曲のナゾを解くヒントがちりばめられているからです。

曲を聴かずに小説を読んでも「何これ?」と思うような作りになっていることが多いし、その方がファンのうけはいい。

逆に言うとこれは、MV(ミュージックビデオ)によって小説体験の豊かさを、小説によってMVの鑑賞体験の豊かさを増すという、相互補完的な新しいエンタメの手法なのだと言えます。

脳の中では、言語や物語を扱うときに活性化する領域と、音楽を聴くと活性化する領域は別だと言われています。

つまり物語を音楽に載せれば両方が刺激でき、時間あたりの密度を濃くできるわけです。

TVドラマ『glee』や映画『レ・ミゼラブル』『アナと雪の女王』のように歌と物語が不可分に絡むエンタメの流行は、世界的な潮流です。

日本でもアニメ『マクロスフロンティア』や『うたのプリンスさまっ』、『ラブライブ!』を挙げれば十分でしょう。

ボカロPと同時代・同世代の物語音楽といえば、たとえばロックジャンルではSEKAI NO OWARIやamazarashiらが存在します。

手元のスマホやタブレットからYouTubeやHulu、ニコ動に常時接続できる時代に、物語音楽が力を持つのは必然だと思うのです。

ボカロ楽曲の物語化/ボカロ小説の刊行も、こういう大きな流れに位置づけて見たほうがよく、10代女子向けの局地的な人気として軽んじるべきではありません。

ボカロ小説は「物語×音楽」という潮流のなかでも、本来、独自の可能性を持ったものでした。

リスナーは物語性の高い曲を聴いてあれこれ想像し、実際に小説を読むと驚きや発見があり、曲の聞こえ方や解釈が変わる。ただの曲、ただの小説よりも、濃密な時間を与えてくれる。こんな独自のエンタメ体験を追求しているジャンルは、ほかには目立って見当たりません。

ボカロ小説は、MVと小説を連動させた「意味のあるメディアミックス体験」の方法論を開拓したものでした。

映画『脳漿炸裂ガール』は、それをさらに映像化したものとして、初めて実写映画化したものとして、新たな可能性が探求されてしかるべき場でした(少なくとも私はそう期待していました)。興行成績がどうであれ、この実写映画単体で、すぐさま成功したとか失敗したとか、簡単に結論づけてしまっては、非常にもったいないと思います。

ボカロ小説およびその映像化は、単に「ネットのCGM発で小説ができてヒットしたので映像化されました」といったこととは違う、文化的に新しいエンターテインメント体験として、もっと長い目で見て試行錯誤を(失敗もおそれずチャレンジを)くりかえしていってほしいですし、その過程で、商業的にも文化的にもあたらしいなにかが生まれることを、切に願っています。

……などと、こんなことを力説すると娘さんから確実にドン引きされますので、気をつけてください。

娘さんといっしょに映画『脳漿炸裂ガール』を観に行ったとしてですね、

「クライマックスで教会が舞台になって羽根が飛び散るなか銃を向け合うってあれ、ジョン・ウーへのオマージュだよね」とか

「最後に『意志のない状態を彼女たちは望んでいた』とか言うけど、あれは伊藤計劃の『ハーモニー』オマージュかな? どっちの作品も百合っぽいし」

といっためんどくさいことを言うと確実にウザがられますのでご注意ください。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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