『シン・ゴジラ』がなぜ希望になるかを「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査平成25年度」から考える
先日、「村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』」という記事を書き、結論としては「『シン・ゴジラ』は希望なんですよ!」ということを書いたのだが、なぜ同作が観たひとにとって、とくに日本の若者にとって「希望」になるのかについて、少し書いておこうと思う(この記事だけ独立して読んでもらって大丈夫です)。
■日本の若者が将来に対して「希望」を抱いている率は低い
日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、韓国の満13~29歳の若者を対象にした「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査 平成25年度」を分析した、政治・国際関係研究者の鈴木賢志『日本の若者はなぜ希望を持てないのか』を引こう(同調査のサマリーはこちら)。
日本の中学・高校生における「自分の将来に希望があるか」についての「希望あり」の度合いは他の国々に比べてもっとも低い(74%。他国は最低86%、最高96%)。
そして日本では、高校を卒業したあとさらにぐっと下がる(58%。他国は最低81%、最高90%)。
日本では18歳を超えると「希望なし」の若者が4割を超える。
なお「希望」には具体的な「目標としての希望」(個別的希望)と、未来に対するもっと漠然とした「総合的希望」のふたつがあり、どちらも「個人の心の問題」であるにとどまらず、「個人を取り巻く社会」と密接に関係したものである。
鈴木の研究によれば、高い希望につながるとされているものはひとつではない。
たとえば家庭内に争いがない、また親の愛情が十分に感じられるなど家庭生活に満足していること、仲の良い友人が多く、人生のパートナーがいることがある。
そして日本の若者が「希望を持てない」理由もいくつかあるが、私の文脈で重要な点は以下である。
■「自分の行動で社会が少しは変えられる」と思っていないと、希望を持てない
「私の参加により、変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」という意見についてどう考えるかという質問に対し、日本の若者は「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という回答が七カ国中で最も少ないのだ。
「どちらかといえばそう思わない」「そう思わない」を合わせた割合は63%。
そしてこの回答の結果と、総合的希望が持てるか持てないかの間に、他国をはるかに上回る強い相関関係が認められた。
日本では、自分の参加によって社会が少しでも変えられると思っている若者と、そうは思っていない若者との間で、希望の持ち方に大きなギャップがあった(変えられると思っている若者の希望度がずっと高い)。
将来について希望を持っている若者はくじけにくく、チャレンジ精神が旺盛である。
将来に希望を持てない若者は、やる気が出ないと感じることが多く、うまくいくかわからないことにチャレンジしない。
そうした傾向があった。
つまり「自分の参加が社会を変えていける」と思えるようにし、無力感を解消することが、若者の将来についての希望を高めることになるだろう、と鈴木は結ぶ。
■なぜ『シン・ゴジラ』が「希望」になるのか
村上龍をはじめとする多くの震災後文学が「希望」を示すものになりそこねていた理由は、主体的に「社会を変える」存在を描いてこなかった点にある。
受苦する存在、被災者に寄り添う人、テロリストなどを中心に書いてきたのだ。それだけでは足らなかったのだ。
『シン・ゴジラ』は3・11以降、原発事故に対して死ぬ覚悟で処した福一の現場と自衛隊をモデルに、状況をキャスティングし、未曾有の大災害に際して、政治家、専門家集団、自衛隊など、物事を主体的に動かす側を描いた。
それによって震災後文学が提示できなかった「希望」、自分たちの力で社会を変える存在を、リアリティをもって示したのだ。
ちなみに、どんなものが社会における成功要因であると考えるかについて、日本人は「個人の努力」を挙げ、他国では「学歴」「身分・家柄・親の地位」「個人の才能」を挙げる若者が多い。
『シン・ゴジラ』はさまざまなひとたちの「個人の努力」の集積が、事態に対するブレイクスルーをもたらしていた。それも、日本人に納得のいくものだったろう。
そんなわけで、同作への多くのひとの熱狂は、そのまま日本の「希望」になったと僕は思う。
補足おわり!