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女王様はフェロモンで奴隷男を操縦する

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
photo by Masahiko Ishida

鋤鼻器とフェロモン

前回は、フェロモンには人口調整機能もあり、カイコガには驚異的なフェロモン探知能力が備わっているという話を紹介しました。カイコガの受容体がわかってから、そのフェロモン遺伝子は受容体だけじゃなく嗅覚の受容体(BmOR2)でも働いていることがわかりました(*1、東京大学農学生命科学研究科の中川龍郎らの論文)。同じように、アリの警報フェロモンも脳の嗅覚系で受信しているし、ショウジョウバエでも専用の嗅覚チャネルで性的なフェロモンを感じている(*2、オーストリアの分子病理学研究所の研究者による論文)。

フェロモンは単純なにおい物質じゃないことも多いんですが、当たり前のようですけど嗅覚系の器官でも受信してるんですね。

これが脊椎動物になると、昆虫よりはちょっと複雑になる。

基本的にフェロモンの役割は、ある特定の行動を即座に引き起こす「リリーサー効果」と内分泌系などの生理的な機能に作用する「プライマー効果」の二つに分けられます。

昆虫のフェロモンは、すぐに影響を与えるリリーサー効果が多い。一方、脊椎動物のフェロモンは複雑で、生理的に作用するプライマー効果の影響も大きいんですね。

昆虫ではフェロモンは触覚で受診していましたが、脊椎動物のフェロモンは、鋤鼻器(じょびき。ヤコブソン器官とも)というところで識別しています。この鋤鼻器ってのは、唇の奥のほうにある。

鋤鼻器は、ソデフリンのアカハライモリにもあるし、マウスにもあります。ほ乳類もほとんどが持ってる。

でも、アジアやアフリカにいる旧世界ザルと人間を含む霊長類、アザラシやクジラ、ジュゴンなんかでは、鋤鼻器は子どもの頃だけあって大人になるとなくなるか、最初から退化してなくなってるか、あっても機能が疑わしい痕跡程度に残ってるくらいなんですね。

水中で暮らすほ乳類に鋤鼻器がないのはわかりますが、どうして旧世界ザルや人間では退化したり機能が失われていたりするんでしょうか。

鋤鼻器のある生物では、においやフェロモンを受けてからの神経回路が、本能や情動といった生物の基本的な機能と関係のある脳の部分につながっていることがわかっています。

鋤鼻器がない生物では嗅覚系で代替してるのかもしれないし、昆虫のように嗅覚系と共通の脳の回路を使っているのかもしれません。鋤鼻器がないからといって、フェロモン物質がなかったり、それを感じる体の機能がないということにはならないと考えられているんですね。

フェロモンは行動をコントロールする

じゃ、フェロモンが生理的に作用するというのは、いったいどういうことなんでしょう。

たとえば、マウスの場合、フェロモンのいろんな影響がわかってます。

メスのマウスは、研究所などで集団で飼育していると発情が不安定で遅くなったりするんですが、そうしたメスの群にオスを入れると発情が規則的になり、発情周期も同調してきます。これを「ホイットン効果(Whitten effect)」と言います(*3、ホイットン効果についての論文)。これはオスの尿の中にあるフェロモンで、メスのホルモン分泌が刺激されるためだと考えられてるんですね。

このホイットン効果については人間でも研究されていて、女子学生寮で共同生活をしている女性の集団では生理の周期が同調すること(ドミトリー効果)があるようです。人間でも、内分泌系のフェロモンが出ているということでしょうか。

また、妊娠したメスのマウスに、お腹の子の父親以外のオスのフェロモンを嗅がせると妊娠の進行が止まり、死産になってしまうこともあり、これを「ブルース効果(Bruce effect)」と言います(*4、ブルース効果についての論文)。

この理由については、交尾相手のオスからの妊娠の保証のようなものだとか、父親以外のオスの遺伝子を獲得するための戦術だとか、いろいろ考えられますが、フェロモンが子孫繁栄にも影響を与えるわけです。

さらに、フェロモンはいろんなことをする。マウスの尿に含まれるタンパク質がフェロモンになって、オスのマウスの攻撃行動を引き起こしたり(*5、米国ハーバード大学Department of Cell Biologyの論文)、オスの涙腺から出る涙が不揮発性のフェロモンになり、メスのマウスを発情させたりすることもわかってきました(*6、東京大学大学院農学生命科学研究科の東原和成教授グループによる論文)。

あと、このオスのマウスの涙を受容するメスの遺伝子は、どうも免疫の多様性に関係した遺伝子の近くにある。Vol.2の連載で紹介したように、人間の女性も自分と異なった免疫系を持つ男性に性的に惹かれるということがわかっています。ほ乳類のオスの涙には、何か特殊な機能があるんですね。

涙については男性でも作用するようで、どうも女性の涙には男性のテストステロンを減少させる効果があるらしい(*7、イスラエルのワイツマン科学研究所の研究者らによる論文)。テストステロンは男性ホルモンで、攻撃性や積極性をもたらします。男が女の涙に弱いというのは本当のようです。

「女王様」フェロモンとは

一方、フェロモンを受ける鋤鼻器も何かの働きをしています。

たとえば、マウスの鋤鼻器を切除すると、いろんな異常行動をするようになる。性行動や攻撃行動をしなくなったり、この先の連載でも紹介するつもりですが、鋤鼻器を切除されたメスのマウスがオスのような行動をしたりするんですね(*8、米国ハーバード大学ハワード・ヒューズ医学研究所の研究者らによる論文)。

ところで、こんなふうにフェロモンが、生殖行動や仲間とのコミュニケーションに使われているのは間違いないんですが、社会的な生物では組織を運営していくための「強制力」として機能する場合があります。

なんか、身につまされるというか、嫌な話で恐縮ですが、社会的な生物の利他的な行動をフェロモンで強制していることもあるというわけ(*9、英国サセックス大学の研究者らによる論文)。これはフェロモンを使ったマインドコントロールです。

たとえば、社会的な昆虫では、女王バチが働きバチをフェロモンでコントロールして働かせたり(*10、英国ニューキャッスル大学の研究者らによる論文)、ハチの幼虫が自分を世話させるためにフェロモンを出しているらしい(*11、フランスの国立農学研究所の研究者らによる論文)。

もっと嫌なことに、これは昆虫に限らず社会的ほ乳類でも可能性が疑われています。社会的ほ乳類といえば人間ですけど、研究者が言ってるのはアフリカにいるハダカデバネズミについて。

ハダカデバネズミはアリのように穴を掘って土の中で暮らしてるんですが、一頭の女王ネズミと数頭のオス以外はワーカーと呼ばれる働きネズミと巣を守る兵隊ネズミです。

で、ワーカーたち働きネズミと兵隊ネズミは、不妊になっていて子供を産めません。自分では子孫を残せず、ただ女王とオスネズミのために働いている。

じゃ、どうして生殖機能がなくなってるのか。いろんな説があります。

たとえば、生まれてからワーカーの鋤鼻器の発育が不完全になるからとか(*12、米国スリッパリーロック大学の研究者らによる論文)、女王ネズミが出すフェロモンが作用しているかもしれないとも言われている(*13、米国マサチューセッツ大学の研究者らによる論文)。

鋤鼻器の発育不全について述べている研究者は、旧世界ザルや霊長類なんかで鋤鼻器が失われていることとの関係を考えてるし、女王ネズミのフェロモン説の研究者は、穴の中で暮らしてるから尻を向けないとわからない尿じゃなくて、涙腺なんかの顔からフェロモンが出てるんじゃないかと言ってたりする。

前者の仮説から想像すると、人間集団の支配・被支配には、ひょっとするとフェロモンが関係しているかもしれません。

フェロモンって、なんか怖いですね。カルト教団の洗脳みたいだ。

そういえば、前回紹介したうちの事務所のにおいフェチ男も、水商売のおねえさんのフェロモンにコントロールされてるのかもしれません。

(*1:Nakagawa,T., Sakurai, T., Nishioka, T., and Touhara, K. "Insect sex-pheromone signals mediated by specific combinations of olfactory receptors", Science 307, 1638-1642 (2005)

(*2:Amina Kurtovic, Alexandre Widmer & Barry J. Dickson, "A single class of olfactory neurons mediates behavioural responses to a Drosophila sex pheromone", Nature 446, 542-546 (29 March 2007)

(*3:Whitten. WK, "Modification of the oestrous cycle of the mouse by external stimuli associated with the male." J Endocrinol 13, 3994-404. 1956

(*4:Bruce. HM, "An exteroceptive block to pregnancy in the mouse." Nature, 184, 105, 1959

(*5:Pablo Chamero, Tobias F. Marton, Darren W. Logan, Kelly Flanagan, Jason R. Cruz, Alan Saghatelian, Benjamin F. Cravatt & Lisa Stowers, "Identification of protein pheromones that promote aggressive behaviour", Nature 450, 899-902 (6 December 2007)

(*6:Sachiko Haga, Tatsuya Hattori, Toru Sato, Koji Sato, Soichiro Matsuda, Reiko Kobayakawa, Hitoshi Sakano, Yoshihiro Yoshihara, Takefumi Kikusui and Kazushige Touhara, "The male mouse pheromone ESP1 enhances female sexual receptive behavior through a specific vomeronasal receptor", Nature 466, 118-122 (01 July 2010)

(*7:Shani Gelstein, Yaara Yeshurun, Liron Rozenkrantz, Sagit Shushan, Idan Frumin, Yehudah Roth and Noam Sobel ,"Human Tears Contain a Chemosignal", Science 14 January 2011: Vol. 331 no. 6014 pp. 226-230 DOI: 10.1126/science.1198331

(*8:Tali Kimchi, Jennings Xu & Catherine Dulac, "A functional circuit underlying male sexual behaviour in the female mouse brain", Nature 448 , 1009-1014 (30 August 2007)

(*9:Francis L.W. Ratnieks and Tom Wenseleers, "Altruism in insect societies and beyond: voluntary or enforced?", Trends in ecology & evolution, 2008 Jan;23(1):45-52. Epub 2007 Dec 20.

(*10:Geraldine A. Wright, "Bee Pheromones: Signal or Agent of Manipulation?", Current Biology, Volume 19, Issue 14, R547-R548, 28 July 2009

(*11:Alban Maisonnasse, Jean-Christophe Lenoir, Dominique Beslay, Didier Crauser, Yves Le Conte, "E-β-Ocimene, a Volatile Brood Pheromone Involved in Social Regulation in the Honey Bee Colony (Apis mellifera)", PLoS ONE 5(10): e13531. doi:10.1371/journal.pone.0013531; Published: October 21, 2010

(*12:Smith TD, Bhatnagar KP, Dennis JC, Morrison EE, Park TJ., "Growth-deficient vomeronasal organs in the naked mole-rat (Heterocephalus glaber).", Brain Research. 2007 Feb 9;1132(1):78-83. Epub 2006 Dec 26.

(*13:Melissa M. Holmes, Bruce D. Goldman, Sharry L. Goldman, Marianne L. Seney and Nancy G. Forger, "Neuroendocrinology and Sexual Differentiation in Eusocial Mammals", Frontiers in Neuroendocrinology, Volume 30, Issue 4, October 2009, Pages 519-533

※タイトルを変更しました 2015/04/18

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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