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近所のおばさんがジェンダー・ポリスになる時

治部れんげ東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授、ジャーナリスト

近所の小学校で運動会をやっていたので見に行きました。保育園のお友達や、そのお兄さん・お姉さんに会って子ども達はご機嫌。赤組・白組に分かれて点数を競うのが大人っぽい。

いつも公園で遊んでもらうお姉さんたちの雄姿を見て、2歳の娘も一生懸命に応援しました。微笑ましく眺めていた私が「?」と思ったのは、行進曲演奏と応援歌披露のあたり。指揮者、真ん中の列の太鼓係、応援団長、旗振り役(赤白各2名ずつ)全部、男の子だったのです。

こういう役回りはどうやって決めるんだっけ…と自分の小学生時代を思い出してみたけれど、どうにも解せない。例えば声が大きい方がいいとか、太鼓や旗を持つには体が大きい方がいい、という具合にアサインメントの条件を考えることはできる。でもこの学校の生徒をざっと眺める限り、体つきは女の子もけっこう立派だ。いや、女の子の方が体格がいい子が多い。団長の男の子より背が高かったり、声が大きそうな女の子はたくさんいる。

やはり学校現場にジェンダー意識が欠如しているのではないか。もし、団長だの旗振り役だのを、先生が決めているとしたら、男の子ばかり選ばれるのが問題なのは言うまでもない。仮に本人の希望に基づいて決めているとしたら、女の子がそういう目立つ役割を希望しないような環境に問題がある。

年を追うごとに、男女の違いは「本人の希望」によって正当化されるようになる。例えば高偏差値の大学を見ると、文学部以外は大抵、男子学生のほうが多い。この事実を指摘されたら、大学側はこう答えるだろう。「入試の結果は性別によらず公平である。そもそも女子の受験者が少ないのだ」と。高校の頃を振り返れば「理系コース」に女子が少なかったことは「当たり前」だった。もちろん社会に出てもそういう傾向は続き「女性は管理職になりたがらない。出世を望まない」という声が、進歩主義者からも保守主義者からも聞こえてくる。

そう。大人になってからでは遅いのだ。年を取るに従って、差があることを「当たり前」と考える人は増えるし、そもそも「それで幸せだからいいじゃないか」と考える人だって出てくる。

だからこそ「本人の希望」とか「もって生まれた何たらかんたら」で固定化される前に、初等教育の段階で、女の子にも男の子と同じように機会が与えられなくてはいけない。もし、彼女たちがそれを希望しないように見えるなら、そこには何か大人が作ったおかしなインセンティブ構造がある。

今、6歳の息子は保育園の年長組でクラスは男女半々である。鉄棒も自転車も、お絵描きも、はっきり言って女の子の方が上手い。この子達が自分の持っている能力をちゃんと発揮できるような環境をつくることは、次世代に対する大人の責任だ。

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授、ジャーナリスト

1997年一橋大学法学部卒業後、日経BP社で16年間、経済誌記者。2006年~07年ミシガン大学フルブライト客員研究員。2014年からフリージャーナリスト。2018年一橋大学大学院経営学修士。2021年4月より現職。内閣府男女共同参画計画実行・監視専門調査会委員、国際女性会議WAW!国内アドバイザー、東京都男女平等参画審議会委員、豊島区男女共同参画推進会議会長など男女平等関係の公職多数。著書に『稼ぐ妻 育てる夫』(勁草書房)、『炎上しない企業情報発信』(日本経済新聞出版)、『「男女格差後進国」の衝撃』(小学館新書)、『ジェンダーで見るヒットドラマ』(光文社新書)などがある。

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