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イスラム教徒の少年が学校でいじめ……無知と無関心が生む“抑圧された怒り”

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著者:jenn_jenn

憎悪と怒りと暴力の負のエネルギーが世界中に蔓延している。

後藤健二さんの事件をきっかけに、日本でも“新たな怒り“が生まれ、危うい発言をする人たちや、その意見に追従する人たち。 

テレビ番組では事件以来、学校に行くのを嫌がるようになったという、イスラム教徒の少年が映し出されていた。それだけじゃない。ある女子高生の、イスラム国とイスラム人を混同したtwitterが炎上する騒ぎもあった。

…………。

いつの時代も、怒りの陰に潜む無知と無関心が、新たな怒りを生む。

ーー「抑圧された怒り(inhibited anger)」だ。

抑圧された怒りは、社会構造が生み出す情動で、偏見、差別、格差などが怒りのタネとなる。ところが、やっかいなことに怒りのタネをまいた人は、それが偏見であるとか、差別だと気がつかない。

誰にだって「あんなこと言わなきゃよかった」とか、「あんな言い方しなきゃよかった」と、後悔した経験が一度くらいはあるはずだが、それは「言ってはいけないことを言ってしまった」という認識があってこそ。無自覚の価値観、無自覚の偏見は、ためらいのない無責任な言動となり、自分が怒りのタネまきの主と化す。無知や無関心が新たな偏見や差別を生んでいるのだ。

実際、私もそのタネが巻かれた瞬間に出くわした経験がある。それは遠い昔。小学校4年生の、ある週末の出来事だった。

住んでいたのはアラバマ州。アメリカの南部だ。当時、人種差別はもはや過去のものになりつつあった。“なりつつあった”とing形にしたのは、他でもない。差別はない、と誰もが公言しながらも、実際には“区別”という形で残っていたのだ。

例えば、私たち家族が住む地域はほとんどが白人で、黒人はいなかった。週末、家族で出かけるショッピングモールにも、日々買い物をするグロサリーストアにも、レジや棚卸しをする店員さん以外は、ほとんどが白人だった。私が通っていたエレメンタリースクールには、黒人の先生は何人かいた。だが、生徒はたった1人。黒人の少年がいただけだったのである。

彼は、子供たちの間ではとても人気者で、毎年行われるtrack meet(陸上競技大会)では、ヒーローだった。私もかけっこが速く、選手に選ばれていたので、彼と一緒に練習をしたり、スタートダッシュの仕方を教えてもらったりした。少なくとも子供たちの世界では、彼が肌の色の違いで区別されることはなかった。うん、なかった。そう記憶している。

ところがある日、事件が起きる。週末になると子どもたちはYMCAに集まり、バスケをしたり、フットボールをしたり、プールで泳いだりしていたのだが、その事件はプールではしゃいでいるときに起きた。

「ピピピピピ!! 全員プールから出なさい!」と突然、監視員が叫んだのだ。

何が起きたのか、まだ4年生だった私も、一緒に泳いでいた同級生たちも分からなかった。ただ、ただ、監視員に促されるままにプールサイドにあがったのだ。

とはいえ、所詮子供だ。プールサイドにあがった途端、友だちとキャッキャと走り回り、遊んでいた。「なんで出されたの?」と聞くことも、「突然、出されたこと」もすっかり忘れて。

だが、そのとき、はしゃいでいる私たちの横を、黒人の少年が監視員とともに去っていった光景だけは、しっかりと覚えている。

数日後、父から“事件の真相”を聞かされた。黒人と同じ水につかるのを嫌がる白人がいるのだ、

と。「肌の色が違っても、同じ人間なんだよ。薫だって、肌が黄色いっていじめられたら悲しいだろ?」 父はそんな風に、まだ小学生4年生だった私に差別がいかに人間の尊厳を傷つけるか、それがどんなに悲しいことかを教えてくれたのだ。

子供だった私が、どこまで父の言っていることや、事件の重さを理解していたのか定かではない。でも、父から話を聞いたあとに、黒人の少年と距離を置くクラスメートがいると感じる瞬間があった。そして、そういうクラスメートは、決まって私にも冷たかった。いや、ひょっとすると私に対しても、偏見に満ちた言葉を放つことがあったのかもしれない。

が、幸いにも、私は英語を完全に理解していなかった。それが逆に良かった。だって、彼らが放つ言葉が分かってしまったら、私の中に、怒りのタネが生まれたかもしれないわけで。そうしたら、今の私とは違う河合薫が出来上がった――。そう思えてならないのである。

どんなにがんばったところで、抜け出すことができない社会。どんなに能力を発揮したところで、国籍、宗教、肌の色、学歴、性別などの属性が壁となり、認めてもらえない社会。そんな慢性的なストレスの雨にさらされた人々は、不安、恐怖、絶望、悲しみなどのネガティブな感情に疲弊する。

ところが、そのネガティブな感情の根っこに抑圧された怒りが隠れていることは、本人ですら気付かない。

なので、ある人は怒る前に、生きる力を失い無気力になり、ある人は怒る前に、生きる意味を失い死を選ぶ。また、ある人は自分のネガティブな感情を、他者に悟られないように無理をして振る舞う。

そして、この抑圧された怒りを秘めた人々が群衆になったとき、怒りのマグマが一気に爆発し、暴力的で、残虐な行為として発散される。

怒りは暴力的な快感をもたらし、ネガティブな生きる力を増幅させる。

暴力的な快感とか、ネガティブな生きる力だなんて妙な表現だが、暴力は人間を興奮させ、「オレは生きてるんだ!」と快感をもたらすのである。

「生きてる!」躍動感と、「怒りの発散」の爽快感にハイジャックされた心には、道徳心や倫理観のかけらもない。世間の常識や理屈が全く通じなくなり、自らを正当化するための、頑固で勝手で暴力的な思考が、行動を支配する。

残虐で、卑劣な行為を平然と行うイスラム国の勢力が拡大した背景にも、この“抑圧された怒り”があるとする専門家は少なくない。テロや政治には、私はど素人だ。だが、抑圧された怒りを抱いている人たちにとって、モンスターたちが発するメッセージは、極めて魅力的だったに違いない。ここにいけば、この人たちを信じれば、この不愉快な感情と離れられる――。人間誰もが持ち合わせている弱さに、モンスターたちはつけ込んだ。

もちろん彼らがやっていることは極めて卑劣で、残虐で、決して許すことなどできない。だが、社会から排除された人たちの“抑圧された怒り”の存在を知っておく必要はあると思う。なぜ、その怒りが生まれたのか? いかなる社会構造が、その怒りのタネになったか? ということをだ。

怒りの芽を摘み取らない限り、悲劇は繰り返される。そして、何よりも私たち自身も、怒りのタネをまく側に決してなってはならない。

そのためには相手を、「知る」ことを大事にしなくてはならない。「理解できない!許せない!」と切り捨てるのではなく、相手が誰であれ、相手を“知る”ことから向き合わなくてならない。きれいごとを思われるかもしれない。確かにきれいごとだ。

だが、無関心や無知が、無自覚な差別を生む。まずは、知る。それしかない。

どんな人であれ、悲しいことは悲しいし、うれしいことはうれしいし、愛おしいものは愛おしい。そのことを1人でも多くの人が忘れなければ、無自覚の差別を少しなりとも減らせるのではないか。少なくとは、私はそう信じたいし、そうあって欲しいと願っている。

最後に。どういうわけか、いまだに私はアラバマで通っていたときのエレメンタリースクールの夢を見ることがある。が、不思議なことに登場人物は日本人とアメリカ人が入り乱れる。なぜか、ダイアンというアラバマ時代の親友を、夢では「由美ちゃん」と日本の親友の名前で呼んでいたりするのだ。この夢の状況をどう解釈したらいいのか、いま1つわからない。だが、たぶん、私の中では、国籍も、肌の色も、言葉も一切関係なく、大好きだったダイアンは、大好きな由美ちゃんにどこか似ているのだと思う。

健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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