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「麻生さんが不良に殴られたら殴り返す?」安保法制と違憲と“悪の陳腐化”

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著作者: Nathan Heeney

今からちょうど一年前のことを、覚えているだろうか?

権力は、権力をもたらす――。その瞬間をまざまざと見せつけられた、アノ会見のことを……。

「僕にまかせなよ。僕が決めるから。キミたちもそのほうが幸せになれるよ。だって、キミたちのことを、いちばん考えているのは僕なんだよ。キミたちが危険な目にさらされないように、僕がちゃんと考えて、判断して決めるから。何も心配しなくて大丈夫だよ」

「だって、キミたちを守っている“武器”(=憲法)は、かなり旧式のやつで、使いものにならない。そのことがわからないのかな? いかなる事態にあっても、国民の命と平和な暮らしは守り抜いていくからさ」

一年前、政府は「目的は手段を正当化する」といわんばかりに、正面から憲法改定の議論をすることなく、閣議決定という姑息な方法で集団的自衛権容認を決定。そのとき安倍首相が行った記者会見は、まさにこんな内容だった。

「一部の権力をもった人が暴走して、強い立場にいる人の言いなりに、弱い立場の人たちがならなくていいようにするために憲法が存在する」と、小学校で教わったにも関わらず、それが皮肉にも権力によって空洞化したのだ。

これは権力の占有化を意味し、絶対的な権力は人を無力化し、無力化した人は、考えることを自ら放棄する。考える葦であるはずの人間から“思考の嵐”が失われてたときの恐さが、一昨年話題になった映画、「ハンナ・アーレント」で知ることが出来る。

「彼は反論した。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。ただただ、人間であることを拒絶した者なのです」

「彼は、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではない。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

これは映画の中で、アーレントが学生たちへの講義の中で語った一節である。

“彼”とは、アドルフ・アイヒマン。ナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担ったとして、逮捕された人物である。

哲学者であり、大学の教授でもあったハンナ・アーレントは、その裁判を傍聴し、アイヒマンの証言を聞くうちに、

「彼は私たちとなんら変わりない、“平凡な人間”ではないか?」

と考えるようになる。

アーレントは裁判レポートを、ザ・ニューヨーカー(1925年創刊の米国の雑誌)に執筆し、世界中から大非難を浴びた。

「アイヒマンは、残虐な殺人鬼ではなく、ヒトラーの命令どおりに動いただけ」と、アイヒマン擁護と受け止められる記事を書き、ユダヤ人指導者がナチスに協力していたという新たな事実も記したことで、苦楽を共にしてきたユダヤ人の友人からも、絶交を言い渡されたのである。

アーレントは、アイヒマンが、当時置かれていた状況、彼の心の動き、彼の行動……。それらを、自分の頭で、何度も何度も考え続けた。「残虐な殺人鬼」と世間に評された男を、擁護ではなく、理解しようと、必死で考え抜いた。

そして、「悪の陳腐さ(the Banality of Evil)」という言葉で、自分の考えを他者に訴えることを恐れず、どんなに批判されても、何をされても、尚、考え、発信し続けた。

絶対的権力による無力化。無力化による、思考停止。

考える葦であるはずの人間が、考えるのを止めたとき、悪が生まれる。そう説いたのである。

“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではない。善悪を区別する能力である――。

ドキリと胸に刺さる、この一言。この地味な映画が、一昨年公開されて以来、ミドル世代を中心に大人気を博したのも、 

「自分も考えることを、止めているのではないか?」

と、アーレントの言葉に耳を傾けながら、自分に問いかけた人が多かったのではあるまいか。かくいう私も、映画を観終わったあとに、「絶対に自分はアイヒマンにならない」と言い切れない自分に、恐怖を抱いた一人である。

権力のある人=ヒエラルキーの高い人に対し、自分の意見を言うのは難しい。と同時に、「どうせ言っても、何も変わらない」とか、「言われたことだけやっておけばいい」と思考するのを放棄してしまうことがある。それが常態化したとき、私たちも“アイヒマン”になっていくのだ。

人間の感情とは、実に不思議なもので、「そんなことあり得ないでしょ?」ということが平気で起きる。その状況に置かれ、実際に体験した人でしかわかりえない感情が、勝手に湧き立つことがある。

特に、「権力」という魔物は、人の感情をひどく惑わす。なぜって、人間には、「権力に溺れる欲」もあれば、「権力にすり寄る欲」もあるからだ。

権力には、権威、影響力、勢力、支配などなど、複数の類似概念と、複数の意味があるが、一般的に私たちは、ヒエラルキーの高い人、社会的地位の高い人、そういう人を、権力者と、無意識にみなす。

そして、社会的に地位の高い人に好まれるような態度を取ってしまったり、相手が「偉い人=権力のある人」と分かった途端、へつらい、おもねる輩も山ほどいる。

会社でも、「権力がある」と見なされている上司に、すり寄る部下はいるし、どんなにいい人であっても、権力のない上司は、無能とみなされてしまうことだってある。

「自分にも、利益がもたらされるかも」――。そう期待するのだ。

権力にマイナスのイメージがあるにもかかわらず、人は権力を好む。人は権力を嫌うくせに、権力にむらがる。人間って、つくづく勝手な動物なのだ。

一方、“権力者”は自分がいつも中心になるから、人の話を聞かなくなる。相手の意思を聞いちゃいないから、自分の欲求の押し付けを、ちっとも悪いと思わない。

次第に、“権力者”が法律となり、判断すべてが、“権力者”に委ねられ、人々は「考える」という、極めてめんどくさい作業と、「力のある人に意見する」という勇気のいる行動を、自ら放棄し、アイヒマンと化す。

そして、そんなアイヒマンたちの決断の先で傷つくのは、いつの時代も権力をもたない“フツーの人々”であることを、忘れてはならない。

「え? 違憲? そんな意見問題な〜し」、「だって麻生さんがを守ってくれて、その麻生さんが殴られたら、一緒に僕も戦わなきゃでしょ?」ーーって?

こんなお粗末な説明、恥ずかしくて国外には絶対に漏らすな!と、バリアを張りたくなるようなオンエアを堂々とする権力者たち。

……思考の嵐は止められた…………。これって私の考え過ぎ?

健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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