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北方領土「面積等分」「3・5島返還」の妄想

木村正人在英国際ジャーナリスト
フィオナ女史の共著『ミスター・プーチン』

4月末、ロシアを訪問した安倍晋三首相は約3時間20分にわたってプーチン大統領と会談し、北方領土交渉を再開して加速化させることで合意した。プーチン大統領は北方領土を等分の面積で分け合う「面積折半方式」をにおわせたと報道されたが、その真意は何か。共同声明に盛り込まれた「双方に受け入れ可能な」というメッセージの意味は? 1956年の日ソ共同宣言以来、平行線のまま暗礁に乗り上げている北方領土交渉は実際に動くのか。

首脳会談は成功か

かつて「外務省のラスプーチン」と呼ばれ、「4島一括返還」勢力を封じ込め「2島先行返還」を主導した異能の元外務省主任分析官、佐藤優(まさる)氏はWEBRONZAに「北方領土交渉の突破口になる人脈とは?」と題して寄稿した。

その中で、佐藤氏は、日本側は(1)日露関係の将来的可能性を示すこと(2)平和条約(北方領土)交渉の再スタート(3)プーチン大統領との個人的信頼関係の構築――といういずれの目標も達成されたので、「成功したと評価できる」と記している。

日本の主要紙社説は、2005年の小泉純一郎首相とプーチン大統領の首脳会談以来、事実上、停止していた領土交渉が再開されることを評価する一方で、北方領土問題は一朝一夕では解決しないとの厳しい見方を示した。

毎日新聞社説:日露首脳会談 領土は焦らず着実に

朝日新聞:日ロ領土交渉―再出発の土台はできた

産経新聞主張:北方領土2等分 「妄言」には惑わされるな

日経新聞:戦略的な視点で日ロの未来像を描こう

読売新聞社説:日露首脳会談 領土交渉に「魔法の杖」はない

「面積折半」の虚像

首脳会談のあと、日本メディアが一斉に日本政府関係者の話として、プーチン大統領は中ロ国境協定やノルウェーとの大陸棚確定を挙げ、領土問題の解決策として面積を半々に分け合う「面積折半方式」に言及したと報じた。

日ソ共同宣言で平和条約締結後に日本に引き渡すと明記された色丹(しこたん)島と歯舞(はぼまい)群島に加え、国後(くなしり)島、そして、択捉(えとろふ)島の西部を日本領とする「3・5島返還」の地図を掲載した大手新聞さえあった。

「面積折半方式」は、安倍首相同行筋が記者団にプーチン大統領との会談内容をリークしたとみられている。日本の外務省が掲げ続けてきた「4島の帰属確認」の基本方針をぼやかすため、日本国内向けに観測気球を上げたとの見方もある。

その甲斐あって、日経新聞のクイック投票では、4島一括返還を堅持は22.6%、2島返還プラス継続協議は34.8%。面積折半の3・5島返還は20.9%、3島返還は15.1%となった。「4島一括返還」論は徐々に影が薄くなっている。

果たして、交渉上手のプーチン大統領が国後に加えて択捉の一部まであきらめるという大胆過ぎる提案をするものだろうか。

ユーラシアをめぐる国境問題を専門にする北海道大学の岩下明裕教授は2004年の中ロ国境協定合意を事前に察知した数少ない研究者の1人だ。岩下教授は「面積折半方式」について非常に厳しい見方を示した。

ロンドンからの国際電話に対し、岩下教授は「ロシア語で『折半する』とか、『面積を半分に分ける』と表現するとは思えません。私の感覚では『ヒフティ・ヒフティ』という言い方をしている可能性が強いと思います。しかし、ヒフティ・ヒフティというのは面積を等分に分けることでは必ずしもありません」と強調した。

その上で、「プーチン大統領が安倍首相との会談で中国やノルウェーの事例を挙げた際、これらは第ニ次大戦に起因するものではないと言っている点に注意する必要があります」と指摘した。

中ロ国境協定当時、ロシア側は中ロで国境問題を解決したから日本とも領土問題を解決したいと言う一方で、戦争の結果、国境が動いた北方領土問題と戦争に起因しない中ロ国境の問題は異なるともクギを刺していた。

岩下教授は「中ロは国境問題、ロシアとノルウェーとは排他的経済水域(EEZ)の問題、日ロの北方領土問題とではニュアンスが違います。ロシアは色丹、歯舞の2島返還でヒフティ・ヒフティだと思っています。ヒフティ・ヒフティ方式は04~05年当時から言われていることで新味はありません」と話した。

プーチンの法則

プーチン大統領の立場について確認しておこう。1990年代、日ロ米3カ国で行われた北方領土問題の解決策を提言する研究会に参加し、米国家情報会議のロシア担当だった米ワシントンのブルッキングス研究所のフィオナ・ヒル女史に国際電話をかけた。

最近、共著『ミスター・プーチン』を出版したヒル女史は「プーチン大統領の立場は法的に一貫しています。1956年の日ソ共同宣言に法的に準拠して進めようという立場です」と語る。

「中国やノルウェーとの問題は双方が妥協し、どちらも面目を失いませんでした。これがヒフティ・ヒフティです。ただ、日ソ共同宣言以来、日本は4島の帰属確認を掲げており、国後、択捉も含まれるとロシアは面目を失います」

「一方、国後、択捉をあきらめるとなると日本が多くの面目を失うことになります」とフィオナ女史は暗礁に乗り上げたままになっている現状を説明した。

日ソ共同宣言について、岩下教授は「宣言や声明はいろいろありますが、日ソ共同宣言は日ソ双方の議会が批准しているという意味で、名前は共同宣言でも事実上、条約に近いものがあります。法的な意味合いが他の宣言や声明と違います」と解説する。

岩下教授によると、「日ソ共同宣言には平和条約締結後に歯舞、色丹を引き渡すと書かれています。しかし、主権がどちらにあるのか、いつどのような形で引き渡すのか記されておらず、それはその後の交渉によるというのがロシア側の立場です。歯舞、色丹を引き渡すとしても無条件ではないのです」という。

さらに、「平和条約を結ぶというのは、国後、択捉はまったくロシアのものであり続けるということとセットです」と指摘した。

「魔法の杖はない」

日ロ首脳会談の成果について、フィオナ女史は「日ロ間は平和条約が結ばれていなくても関係は正常化し、エネルギー開発も進んでいます。そんな状況下で安倍首相やプーチン大統領のようなタイプの政治首脳が領土問題で譲歩するとは思えません」と分析する。

さらに、「安倍首相について私の分析は間違っているかもしれませんが、プーチン大統領は大きな戦略的な目的がない限り領土問題や国境問題で譲歩しないことは明らかです」と言い切った。

安倍首相は共同記者会見で領土交渉について「一気に解決する魔法の杖はない」と発言した。岩下教授は「両首脳の間に密約などないと思います。領土問題ということでは今回の首脳会談を評価しません」と切り捨てた。

その上で、「共同声明の『双方に受け入れ可能な』解決案という表現はこれまで何度も言われ続けてきたものです。一方で、日ロ関係の構築という意味では画期的だと思います」と語り、

「要するに、領土問題にかかわりなく、日ロは経済や政治などで全面的に協力するということを事実上表明したに等しいと思うからです」と説明した。

「双方に受け入れ可能な」という表現は、外務省ホームページの「日ソ・日ロ間の平和条約締結交渉」で確認すると、05年以降、計13回の会談で使用されていた。プーチン大統領は北方領土問題で微動だにしていないことがうかがえる。

日ロ首脳会談は(1)05年以降、止まっていた北方領土交渉を再開する(2)安倍首相とプーチン大統領の個人的な関係をつくるということでは「成功」なのかもしれない。

しかし、約7年半の「空白」という不正常な状態に比べて良くなったという意味でしかない。

岩下教授は「これが北方領土問題の解決に資するというとまったく定かではありません。日本側が立場を変えたとは思えないので、結局、これまでと同じことが繰り返されるのではないかというのが私の考えです」と語った。

国後訪問の理由

2度にわたってロシアのメドベージェフ前大統領が国後島訪問を強行した理由について、フィオナ女史は「日本向けというより、領土問題や国境問題でロシアは決して譲歩しないという中国向けのメッセージだったと思います」と語り、

「国後島を訪問して日本を刺激しても、大きな対立要因にはならないと計算したのでしょう。ロシアは北方領土について無関心ではなく、関心を持っているという東京向けのメッセージも込められていたと思います」と分析した。

日本、ロシア、中国の三角関係について、フィオナ女史は「中国の習近平国家主席がロシアを訪れ、続いて安倍首相もロシアを訪問しました。ロシアは東アジア、アジア・太平洋地域の主要プレーヤーではありませんが、プレーヤーの1人であることは間違いありません。しかも、どういう立場を取るのかはっきりしません」と語る。

そして、「アジアで日本と中国、ロシアは孤立しているというのはいい過ぎでしょうが、かなり難しい立場に置かれているという意味で似た者同士といえるかもしれません」と分析し、

「中国は南シナ海や東シナ海で一段と領有権の主張を強めるでしょう。これに対して、日本もさらに強く出るはずです。中国と日本の関係が難しくなる中、ロシアはどちらの側につくとも決めず、中国とも日本とも良好な関係をつくろうとしています」と指摘した。

交渉の入り口

岩下教授は北方領土交渉について「今は入り口にも立っていません。日本が4島の帰属確認からスタートしようとする限り、ロシアは譲らないと思います。国後、択捉の主権を日本が主張するのは論拠がないというのがロシアの立場です」と説明する。

「日ソ共同宣言で、ソ連は歯舞、色丹を引き渡す決議をしただけでも大変な思いをしたのに、日本は途中から国後、択捉の話を持ちだしたと思っています。この構造は今も変わっていません。問題は、日本が4島でなくてもいいというスタンスに踏み込めるかどうかでしょう」

「歯舞、色丹も無条件で引き渡すわけではないのに、国後までとなると極めて難しい。プーチン大統領が譲歩するとしても、ロシアの主権下で特別の便宜を図ってやる、共同利用は考えてやってもいい、ただ、主権はロシアだということでしょう」と岩下教授は締めくくった。

フィオナ女史は「ロシアのラブロフ外相はノルウェーとの大陸棚確定をまとめた前向きで温厚な外交官です。もし、安倍首相が北方領土問題を解決したいと思うのなら、政治的なスポットライトを当てずに、一つ一つ問題を解決していくことでしょう」と語り、

「プーチン大統領は2島と2島の解決を意味しているのだと思いますが、交渉の舞台裏で、ロシアが国後、択捉の主権を持ちながら、双方が両島で共同開発を進めるなどの工夫がこらされる余地は残っていると思います。このアイデアは90年代の日ロ米の報告書にも含まれています」

フィオナ女史の予測も岩下教授のそれとほぼ同じだった。

「底地権」と「借地権」に分離

「3島返還」や「3・5島返還」は一体、どこから出てきた話なのだろうか。日本メディアの一部が異様に前のめりになっているのが気がかりだ。ロシアの思惑はどうみても変わっていない。北方領土はロシアにとって、多大な犠牲を払った第二次大戦の戦利品なのだ。返すとしても日ソ共同宣言で合意した歯舞、色丹だけとみるのが適切だろう。

モスクワ国際大学のアレクサンダー・ルキン副学長からインタビューしたとき、ルキン副学長が4島の「底地権」と「借地権」を分け、「底地権(主権)」について歯舞、色丹は日本、国後、択捉はロシアに帰属、日本の「借地権(共同開発権)」を国後、択捉で認める可能性はあるとメッセージを送ってきているように聞こえて仕方なかった。ルキン副学長も相当な事情通といわれている。

フィオナ女史と岩下教授の解説で、日本メディアの見出しに踊った「3島返還」「3・5島返還」は幻想というより日本の妄想に過ぎないことがはっきりしてきた。日本語で「引き分け」と言って、安倍首相をモスクワに誘い出したプーチン大統領の心理戦、情報戦はすでに大勝利を収めている。

英国の対ソ・ロシア外交を見ていると、外務省や情報機関がじっと観察を続けて情報を集積し、それをもとに首相や外相が時機を見て、電光石火のごとくパッと動く。1984年、当時のサッチャー英首相は側近のハウ外相の進言を受け入れ、ゴルバチョフ・ソ連議会外交委員長(後に大統領)を招請した。英外務省がチェルネンコ書記長の後釜はゴルバチョフと判断していたからだ。この会談が冷戦終結にどれだけ役立ったかはあえてここで繰り返す必要はないだろう。

日本では「3・5島返還」の妄想に勝手に酔い、国内世論を翻弄している。こんな調子で、非主流の階層からKGB(ソ連国家保安委員会)を生き抜き、権力の座に登り詰めたプーチン大統領とまともに対抗できるのだろうか。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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