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世界最高の最低賃金めぐり、スイスで国民投票【デモクラシーのゆくえ:欧州編】

木村正人在英国際ジャーナリスト

時給22スイスフラン(約2530円)は、果たして最低賃金と言えるのか? スイスは18日の国民投票で国民にこう問いかける。スイスにはこれまで法定の最低賃金制度が設けられていなかったが、可決されれば文句なしに世界最高の最低賃金になる。

日経新聞が経済協力開発機構(OECD)のデータベースなどをもとに作成した世界各国の最低賃金(時給)は次の通りだ。

オーストラリア 1530円

フランス    1260円

カナダ      936円

日本       749円

米国       740円

安倍晋三首相の経済政策アベノミクスで円安が進み、日本の最低賃金は他の国に比べて実質的にはかなり下がっている。

筆者が暮らす英国では今年10月から最低賃金が19ペンス上がって6.5ポンドになる。今日の為替レートは1ポンド=170.7円なので約1109円。

それほど悪くないが、2012年1月の為替レート同117.8円で計算すると約765円。当時、英国の最低賃金は日本とそれほど変わらなかったわけだ。

しんぶん赤旗によると、今月15日、ファストフード産業の最低賃金を引き上げる声を広げようと「ファストフード世界同時アクション」が世界30カ国余で実施された。

米国の労働組合が最低賃金を時給15ドル(約1522円)に引き上げるよう呼びかけたものだ。日本でも日本共産党系の全労連が行動を起こしたが、最低賃金の引き上げは今や世界の潮流だ。

ドイツでは昨年11月、社会民主党(SPD)と連立を組んだメルケル首相が最低賃金の導入を約束。15年から全国一律に時給8.5ユーロの最低賃金を実施する。

失業率が改善している米国では今年1月の一般教書演説でオバマ大統領が7.25ドルの時給を10.1ドルに約4割引き上げると表明。民主党が州議会の過半数を握るニューヨークやカリフォルニアなど7州はすでに最低賃金引き上げを決めた。

財政再建を促進してきた英保守党のオズボーン財務相も今年1月、最低賃金の11%引き上げを支持した。

中国も社会格差を縮めるため、15年までに最低賃金を都市労働者の平均給与の40%レベルに引き上げる所得分配計画を昨年2月に承認している。

日本でも安倍首相が景気の好循環を起こすため、春闘で「企業収益の拡大を賃金上昇につなげてほしい」と異例の要請を行っている。

日本では07年以降、まじめに働いて最低賃金を稼ぐより生活保護を受けた方が得という逆転現象を解消するため、最低賃金が引き上げられてきた。昨年の改定で北海道を除いて逆転現象は解消されたという。

世界中で最低賃金の引き上げが、どうしてこれだけ注目を集めるのか。まず、グローバル経済がもたらした格差拡大が背景にある。

スイスでは大手製薬会社トップの年俸が1570万スイスフラン(約18億円)にものぼり、同じ会社で最低の報酬で働く社員の年収の266倍。1980年代まで同じ企業内の給与格差は40倍以内に収まっていた。

米国ではトップ1%が富の35.4%を独占し、次の19%が53.5%を支配しているそうだ。

民間の競争原理を成長のエンジンにしようという新自由主義と、ベルリンの壁崩壊によるグローバル経済の発展で、先進国と途上国の差は縮まったが、貧富の格差は広がった。

世界金融危機で金融機関に公的資金を投入。庶民は増税、年金、教育費削減など緊縮財政を強いられたのに、金融機関トップは高額報酬を維持するという矛盾が浮き彫りになった。

資本主義の構造変化もある。

従業員の給与を引き上げ、購買力を増した往時の米自動車メーカー、フォードに比べ、米アップルは企業利益の最大化のため生産拠点を低賃金国に移転する。

ソーシャルメディア企業フェースブックの企業価値はフォードをはるかに上回るが、生み出す雇用は格段に少ない。

所得を通じた富の再配分が機能しなくなり、政府にその役割が求められる。しかし、金融危機で財政赤字が膨らみ、財政も出動できず、社会保障を増やすわけにはいかない。

そこで注目を集めているのが「最低賃金引き上げ」という裏技なのだ。

これまでは最低賃金を引き上げることは労働市場のメカニズムを損ない、企業は競争力維持のため生産拠点の海外移転を加速させ、合理化を進め、結局は雇用を減少させると考えられてきた。

しかし、企業は生産性向上に見合った報酬を労働者に支払っていないことが多く、最低賃金を引き上げても雇用に与える影響は大きくないという研究が報告されるようになった。

製造業の割合が小さい先進国の場合、サービス産業が拡大。ホテルやレストランなどの施設や人は海外に移転できないため、最低賃金を引き上げても雇用の減少にはつながらないという考え方もある。

日本の「失われた20年」を振り返れば、賃金を抑えるため非正規雇用を増やした結果、労働者は技術や技能を向上できないワーキングプア問題が固定化してしまった。

昨年3月、スイスは国民投票で、株主総会が毎年、企業幹部の報酬を決定するという高額報酬制度反対イニシアチブを賛成67.9%、反対32.1%で可決した。

しかし、11月の国民投票では、同じ企業内の給与格差を12倍以内に抑える「1:12イニシアチブ」を賛成34.7%、反対65.3%で否決している。大企業や人材がスイスから脱出し、税収減につながることを懸念したためだ。

スイスではヌーシャテル州やジュラ州で賃下げ競争を防ぐため最低賃金が導入されている。

スイスの家賃や食費など生活コストは世界で一、二を争うほど高いことでも有名だ。しかし、世界最高となる最低賃金の導入にはさすがに慎重な声が多く、事前の世論調査では64%が反対している。

スイスの約2530円はともかく、日本のデフレ脱却が確実なら、最低賃金はインフレ率を上回るように引き上げていった方が良いように思える。あなたは「最低賃金引き上げ」派、それとも「国際競争力」重視派?

(つづく)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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