Yahoo!ニュース

中国が香港に押し付けた「エセ民主主義」への怒り

木村正人在英国際ジャーナリスト

1997年の返還以来、最大の転換点

2017年の香港行政長官選挙から「1人1票」を認める一方で、候補者は親中派に限定するという「エセ民主主義」の押し付けに香港市民の怒りが燎原の火のように拡大している。

民主派や学生ら数万人が28日、香港中心部を占拠。これに対して警察隊が催涙ガスを80回以上使用、逮捕者は27、28の2日間で140人以上にのぼり、負傷者は40人を超えている。

29日も民主派や学生は香港政府周辺の幹線道路や繁華街で占拠を続けた。1997年、英国から155年ぶりに中国に主権が返還された香港は「1国2制度」を保ってきたが、最大の転換点を迎えている。

2012年の行政長官選挙で選挙委員1200人の過半数を獲得して初当選した親中派財界人の梁振英氏は閣僚や側近のスキャンダルが次々と発覚し、翌13年1月には辞任を求めるデモが起きている。

上の世代は不動産や工場に投資するなどして富を築いているのに対して、学生を中心とした若い世代は家賃の高騰に苦しみ、経済は巨大企業に支配されている。

「1人1票」という行政長官選挙の民主化が中国共産党によって制限されたことをきっかけに世代間格差に基づく不満が一気に燃え上がった格好だ。

中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は8月31日、中国の意をくむ1200人の「指名委員会」が候補者を選ぶと決定。これでは民主派が立候補できなくなり、「とても普通選挙とは言えない」と市民の怒りに火が着いた。

英国は道義的責任果たせるか

英国最後の香港総督を務めたオックスフォード大学のクリストファー・パッテン総長は英紙フィナンシャル・タイムズへの寄稿で「英国には発言する道義的責任がある」と強調した。

これに対して、人民日報系の環球時報は「英国の政治家による内政干渉だ。香港に干渉するな。中国は今や世界第2の経済大国だということを理解せよ」と猛反発している。

「中産階級なくして民主主義なし」と言われるが、中産階級が社会の多数派を占め、その期待が統治者のパフォーマンスを上回った場合、トルコやブラジルのように市民の抗議活動が起きる。香港も例外ではない。

中産階級がより公正な富の再配分を民主主義に求めるようになるからだ。

これに対して権威主義体制の中国は急激な民主主義への移行を望んでおらず、その折衷案が香港行政長官選挙の民主化で示した「エセ民主主義」だったのである。

リベラル民主主義は人類普遍のゴールか

フランシス・フクヤマ氏(筆者撮影)
フランシス・フクヤマ氏(筆者撮影)

冷戦終結後の1992年、『歴史の終わり』でリベラル民主主義の勝利を宣言したフランシス・フクヤマ氏が先日、ロンドンにあるシンクタンク、英王立国際問題研究所(チャタムハウス)で講演した。

新著『Political Order and Political Decay(仮訳、政治秩序と政治の衰退)』の発表を兼ねたもので、中国と米国の現状をわかりやすく説明した。

フクヤマ氏は、中国はイエス・キリストが生まれる前から近代国家を築いており、現在の中国共産主義体制と制度面で継続性があると指摘している。

トウ小平が死んだ後、中国の指導者は10年で交代することで権力の集中と独占を防いでいる。国家権力を制限する「法の支配」はないものの、統治を強化する「法による支配」や能力主義に基づく巨大な官僚機構を確立している。

これに対して、米国は大統領の権力に対する「チェック・アンド・バランス」が働き過ぎているため、政府予算も議会を通せない機能不全に陥り、「政治の衰退」を招いているという。

フクヤマ氏の新著『政治秩序と政治の衰退』
フクヤマ氏の新著『政治秩序と政治の衰退』

アングロサクソン系の米国や英国では民主主義の母体になる中産階級が危機にさらされている。

21世紀最大のクエスチョンは、米国の政治と経済が力強く復活し、リベラル民主主義が最終的に中国のような国家統制型システムに勝利できるのかどうかである。

ウクライナのオレンジ革命は挫折し、民主主義の腐敗はロシアの権威主義者、プーチン大統領の介入を招いた。シリアやイラクではイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」の台頭を招いている。国家の弱さや政府の不在が大きな原因になっている。

香港の民主化や台湾の民主主義は歴史の試金石

中国は民主主義がなくても極めて機能的なシステムを構築していることをわれわれはまず理解しなければならない。

フクヤマ氏は言う。

「もし今日、中国の中産階級の多くに『1人1票が必要ですか』と尋ねたら、彼らは絶対、ノーと答えるだろう。なぜなら1人1票は再配分を求めるポピュリストの圧力を解き放つからだ。それは中国の経済を破壊させる」

しかし、近い将来、中産階級が中国の多数派を占めれば、権威主義体制から過渡的措置として、例えば香港行政長官選挙の民主化案のような「エセ民主主義」に移行する可能性があるのかもしれない。

そうした意味では、香港の民主化運動や台湾の民主主義がどのように中国の権威主義的な圧力に抗していくのかは、21世紀を占う試金石となる。香港や台湾に権威主義的な支配が及べば、リベルラ民主主義の敗北を意味する。

中国共産党が経済成長を維持し続けることは、民主主義の原動力となる中産階級を拡大することにつながる。共産党体制が腐敗し、政治と経済が機能不全に陥れば、民主主義を求める声は必然的に高まるだろう。

一方、米国はICT(情報通信技術)を中心としたイノベーションをバネに経済の活力を取り戻す必要がある。強い統治機構を保ちながら、法の支配と民主主義の説明責任を果たしていくことが、民主主義の衰退を押しとどめる。

日本はどうか。少子高齢と人口減少による経済停滞に耐えながら、民主主義の健全性を保つことができるのか。日本は民族主義的なナショナリズムのワナにとらわれることなく、リベラル民主主義の勝利に貢献すべきだろう。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

木村正人の最近の記事