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700億円の広報外交予算を「歴史戦争」の軍資金にしてはならないワケ

木村正人在英国際ジャーナリスト

フリージャーナリスト、後藤健二さんと、湯川遥菜さんがイスラム過激派組織「イスラム国」に殺害された事件は、日本の広報文化外交戦略の重要性を改めて浮き彫りにした。

日本政府は、ロンドンと米ロサンゼルス、ブラジルのサンパウロの3都市に「ジャパン・ハウス」(仮称)を設置する。新たに500億円を投ずる日本の戦略的対外発信とは、要するに日本の「ソフト・パワー」をフル活用することだ。

海外で日本の評判は少しずつ下がっている。とは言え、まだまだ上位に位置している。英BBCワールドサービス(国際放送)の調査では日本に対してポジティブな印象を持つ人の割合は2007年で54%、カナダと並んで首位だった。13年は51%で4位、14年は49%まで順位を下げている。

下のグラフは14年6月に発表された調査結果だ。

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14年調査では、中国で日本に対してネガティブな印象を持つ人が前年より16ポイント増えて90%、韓国でも12ポイント増えて79%。尖閣や竹島、旧日本軍慰安婦、首相の靖国神社参拝など領土問題や歴史問題が双方の国民感情を悪化させている。

日本の外務省が14年4月に発表した東南アジア諸国連合(ASEAN)7カ国での対日世論調査でも日本への信頼は非常に厚いことがわかる。日本との友好関係が重要と考える人の割合は実に96%にのぼっている。

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これだけ海外で日本の評判が良いのに、どうして外務省の広報文化予算を一気に500億円も増額したのか? 歴史問題や領土問題を中心とした中国や韓国の宣伝活動が活発に行われているのに対し、日本はあまりにおとなし過ぎるという批判が強くなってきたからだ。

「米国における対日世論調査」をみると、有識者の部で「アジアにおける最も重要な米国のパートナー」は中国と答える人が10年以降、日本と答える人よりも多くなってしまった。

サイバー空間や海洋での対立が鮮明になった14年調査では再び日本が58%と中国の24%を逆転したものの、同盟国・米国で中国が日本より重要なパートナーと考える有識者が多いのは由々しき事態である。

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日本のプレゼンスを増すためにはあらゆる交流を活発に行う必要があるのに、肝心の広報文化予算は減らされる一方。これではいかんと安倍晋三首相が戦略的対外発信を強化するため思い切って500億円を増額した。

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広報予算は「歴史戦争」の軍資金か

広報文化予算の増額は正しいが、問題は何を発信するかだ。一部保守派が主張するように旧日本軍慰安婦問題など中国や韓国との不毛な「歴史戦争」を戦うための軍資金にあてるつもりなら、惨憺たる結果を招いてしまう。

ソーシャルメディアの発達でパブリック・ディプロマシーはこれまで以上に大切になっている。真偽不明の情報がネット空間に氾濫し、異様な影響力を持つ中、政府が中心になって正しい情報発信を積極的に行っていくことは極めて重要だ。

ウクライナ危機ではロシアは外国語ニュースチャンネル、ロシア・トゥデイやネット空間を駆使して自分たちにとって都合の良いニュースや情報を流し続けた。北大西洋条約機構(NATO)へのサイバー攻撃も起きた。

ロシアや中国、北朝鮮のようにインターネットやメディアを操作できる権威主義国家や独裁国家に対して、自由と民主主義を掲げる国家は法の支配や人権、自由市場などが持つ普遍的な価値を繰り返し説くしかない。

日本もロシアや中国のようにNHK国際放送を使って同じようにやれというのは間違いである。それができなければ新型の国際放送をつくれというのは大きな誤りだ。日本は戦後70年、自由と民主主義を発展させてきた平和国家であることを忘れてはならない。

日本最大のソフト・パワー

戦後70年の平和の歩みが日本最大のソフト・パワーだ。「ソフト・パワーは非常に大事です。日本はソフト・パワーのアセット(資産)をいろいろ持っているが、世界に十分知られていません」と語るのは元駐カナダ日本大使で対外発信に詳しい沼田貞昭氏だ。沼田氏は日本英語交流連盟の会長を務め、日本のさまざまな意見を英語で世界に発信している。

「対外発信と言っても発信するだけで相手が聞かなければ意味がありません。相手の声を聴くセンシティビティー(繊細さ)が必要です。発信の中身については現地のニーズに合わせてやっていくことが大切です。親日派、知日派を育てるのも在外公館の人脈、知見を活かすことです」

米ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、軍事力や経済力で他国に無理強いする力が「ハード・パワー」、これに対して価値観や文化、政策の力で相手を動かす力が「ソフト・パワー」と定義する。パブリック・ディプロマシーはその国のソフト・パワーを普及させる手段だ。

ロシアや中国流のプロパガンダは日本にはなじまない

ロシアや中国流のプロパガンダは日本のパブリック・ディプロマシーにはなじまない。

前出の沼田氏は「ジャパン・ハウスは単なるハコモノではなく、そこに行けば日本のことがわかるというワンストップサービスにしていかなければなりません」という。

政府と民間、地方自治体が一体となってオールジャパンで発信していくモデルは「BBCの国際放送が英政府とは適度な距離を取りながらニュースを発信し、国際的な信用を得ていることが参考になります」と指摘する。

政府からの圧力にさらされているのはBBCとて例外ではない。しかし、政府の広報・宣伝機関に過ぎないとみなされてしまうと、国内の視聴者だけでなく、海外からは見向きもされなくなってしまう。

BBC国際放送の秘密

BBC国際放送は不偏不党、客観性のジャーナリズムを掲げている。普遍的な価値にこだわることで国境を越えてトランスナショナルな視聴者を獲得する。キレイ事のように聞こえるかもしれないが、それが英国のパブリック・ディプロマシーとなり、引いては英国の国益に資すると考えている。

下の2つのグラフはBBCワールドサービスの13/14年のレビューだ。信頼(上)も影響力(下)もBBCが断トツで高い。

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BBC国際放送にはこんなエピソードがある。1982年のフォークランド紛争の際、中南米の放送局は報道内容をBBCに依拠し、アルゼンチンの放送局でさえBBCスタッフからインタビューしたというエピソードが残っている。

ロシア・トゥデイやCCTV(中国中央テレビ局)はロシアや中国の言い分を伝えているだけで、客観的な報道は誰も期待していない。日本はジャパン・ハウスに誰からも相手にされないロシア・トゥデイやCCTVのようなプロパガンダを期待しているのだろうか。

「スシ」「マンガ」、「慰安婦」では中韓に勝てない

今、水面下で海外の研究者に旧日本軍慰安婦をめぐる記述の訂正を求める動きが進んでいる。旧日本軍慰安婦問題で朝日新聞が一部誤報を認めたからと言って同じ手法が世界に通じると思っているとしたら、とんでもないしっぺ返しに合う。

安倍政権が公報文化外交戦略の中心に据える「正しい日本の姿」とはいったい何なのか。中国や韓国の「反日宣伝」に対抗するのが狙いだとしたら、激変する国際情勢の大局観を欠いたものだ。

「海のシルクロード」「陸のシルクロード」を掲げ、世界の物流を一変させようとしている中国。米国、欧州連合(EU)、インドに続いて中国ともFTA(自由貿易協定)を結んだ韓国。彼らにとって「反日宣伝」は小局でしかない。

これに対して、日本のセールスポイントは「スシ」「マンガ」「コスプレ」だけなのか。ましてや広報文化外交戦略が旧日本軍慰安婦問題の記述訂正にこだわるなら、700億円も使って日本のマイナスイメージを増幅させるだけだ。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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