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【神保哲生さんに聞く日本の政治とメディア】 「つぶす」発言の以前にある問題とは (下)

小林恭子ジャーナリスト

日本初のニュース専門インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム]を主宰するビデオ・ジャーナリスト神保哲生氏に、最近の政治によるメディアへの圧力、日本の政治メディアの現状について外国特派員クラブで聞いた(取材日は7月7日)。

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「特権」という弱点をたくさん持つメディア

ー日本の政権とメディアの関係をどう見るか。

これまで日本の歴代の政権はメディアの特権を容認し、メディアとの良好な関係を維持することで、共存を図ってきた。ロッキード事件やリクルート事件など、時折、政権中枢のスキャンダルが大きく弾け、メディアも「政府との良好な関係」などと言っていられない事態が起きることはあったが、私から見ると政権とメディアの関係は、表面的にジャブの応酬はあっても、底流では深く良好な関係が続いていた。

しかし、安倍政権が、第一次政権の時にメディア対策を甘く見たことで、大きな痛手を受けた。懐柔したつもりでも、メディアはいざ支持率が下がったり、政権に逆風が吹き始めると、ものすごい勢いで攻勢に出てくることを、安倍政権は身をもって思い知った。少なくとも第一次安倍政権で首相を精神的に追い詰めた主要因の一つが、メディアの攻勢だったと見ていいだろう。

安倍政権は1回目の失敗から多くを学んだ。その中の重要なものが、メディアは一瞬たりとも心を許せば、そこにつけ込んで来る、いざメディアにつけ込まれると、押し返すことが難しいということだった。そこでメディア対策を厳しくやることが必要だと痛感した。

ただし、そこでいうメディア対策というのは、欧米で盛んに行われているような、PR企業のノウハウを駆使した、いわゆるパブリック・リレーションではない。一応、PR会社や代理店を使ったメディア対策は行っているようだが、日本ではそれよりももっと有効で手っ取り早いメディア対策がある。それが、メディアに直接圧力をかける方法だ。日本ではメディアが「特権」と言う名の弱点をたくさん持っているために、それがとても有効になる。

政権は実際に圧力などかける必要はない。先ほども言ったが、実際に報道機関に圧力をかけて報道の内容に介入するのは、憲法で表現の自由が保障されている日本では容易ではない。

しかし、メディアが政府が認めてくれる数々の特権に依存する限り、間接的な圧力で十分だし、それが有効となる。要するに「特権」の蛇口をちょっと閉める素振りを見せれば、メディアは少なくとも経営レベルではたちまち狼狽する。

ー今回の「つぶす」発言がそうかもしれない。

まさにそうだ。

実際につぶすことなどできるはずがないが、それを口にするだけで、日本では一定の効果が期待できる。そこが問題だ。

「つぶす」発言には、メディア問題とは性格を異にしながらも同根の問題がある。なぜ自民党や政権が経団連に頼めば、経団連がそれを無視できないと考えるかといえば、政府が経団連に対して影響力を行使できる立場にあるからだ。

数々の許認可や、法人税減税、消費税増税の際の税率軽減、TPP、派遣法の改正等々、経団連加盟の企業は政権のさじ加減一つで、自分たちの利益が大きく左右される立場にいる。加盟企業には旧来型の古い産業構造下にある企業が多いので、それをどこまで政府が守ってくれるかによって、大きく利益が左右されやすい。

アクセスの見返りに、好意的な報道を引き出そうとする政府

また、メディアの特権としては先にあげた三大特権の他にも、アクセスの問題がある。

これは記者クラブ問題と近接している問題ではあるが、政府は特定のメディアに対して「Preferred Access」(優先的アクセス)や、「 Privileged Access」(特権的アクセス)を認めることの見返りに、政権に好意的な報道を引き出す力を持っている。総理の単独インタビューはもとより、政権が持っている情報には報道機関にとっては価値の高い情報が無数にある。それを材料に、メディアに好意的な報道をさせることは容易だ。

特に日本では、そもそも記者クラブ体制の下で、大手メディアは最初から優先的アクセスや特権的アクセスを得ている。つまり、最初から政権に対して脆弱な立場に身を置いているということだ。

日頃からメディアは自らを律し、政府や政府から受ける特権に依存しない経営体質を構築しておかなければならない。平時に政権から特権を頂戴していると、いざというときに、政権がちょっと特権の蛇口を閉じる素振りを見せただけで、メディアは白旗をあげなければならなくなってしまう。特権に依存した経営体質を持つメディアが特権を失えば、たちまち干上がってしまうからだ。

安倍政権の特徴は、過去の政権は、メディアが政府から多くの特権を受けていることは当然知っていたが、政権にとってはむしろメディアと共存する方が得策だと考えて、あえてそこにはちょっかいを出さないようにしてきた。メディアと全面戦争となれば政権も無傷ではいられない可能性が高いし、大手メディアが総力を挙げて共同戦線を張れば、政権の一つや二つは飛んでもおかしくない。

どんな政権でもメディア利権に手をつければ、メディア全体を敵に回すことになる。政権にとっては何もいいことはない。しかし、逆に、一つ一つのメディアは意外に脆いことを、今回、安倍政権は見抜いたようだ。

つまり、例えば記者クラブ制度を廃止すると言えば、メディアは総力をあげて抵抗してくるだろう。それは再販についても、クロスオーナーシップについても然りだ。

しかし、例えば、優先的に総理に単独インタビューする機会を与えるとか、TPPに関するインサイド情報をリークするなど、メディアにとって大きな価値のある餌を眼前に吊せば、個々のメディアは意外と簡単に落ち、競って政権に好意的な報道しようとすることが、今回ばれてしまった。

ーでも、これをきっかけに、新聞や放送のメディアが、権力に委縮せずに批判する下地が理論的にはできたのでは?

理論的にはそうだが、なかなかそうはいきそうにない。日本の既存メディアは政府に対して弱点が多すぎる。要するに特権を多く持っていて、インターネット時代を迎え、既存のメディアはこれまで以上にそうした特権を手放すのが難しくなっているのだ。

これは他の国にも言えることだが、新聞とテレビの2大オールドメディアはいろいろな意味でネット時代に対応できていない。特に日本のメディアは享受している特権が大きいために、より競争の厳しいネットにフルに参入して競争することが難しい。

そもそも特権によって護られてきた既存のメディアは人件費を含めコスト構造が極端に高いので、基本的な競争力がない。しかし、仮に競争力があったとしても、既存のメディア市場で大きな利益をあげてきた既存のメディアがネットにフル参入し、自由競争を前提とするために利益率がずっと低いネット市場でシェアを増やせば、それはより利益率が低い商品でより利益率の高い商品のシェアを食ってしまうことも意味する。自ら自分の尻尾を食っていく構造だが、ネットと既存メディアを対比した場合、尻尾を1センチ食べても、胴体の方は0.1ミリも延びない。ネットに力を入れれば入れるほど、特権的な儲かる商売を、自分から手放すというジレンマに陥ってしまう。

例えば、今テレビで見れる番組がすべてネットで見れるようになれば、番組を見る視聴者の絶対数は減らないどころか、むしろ増えるかもしれないが、テレビの視聴率の低下による広告費の減少分をネットで補填することは不可能なばかりか、その10分の1も回収できない。それほどネットが厳しい、というよりも、それほど既存のメディア市場は美味しい。

会見は開放されたが

記者クラブについては、これまで記者会見へのアクセスが記者クラブ加盟社に制限されていた問題が批判を受け、民主党政権で記者会見の多くが記者クラブ以外のメディアにも開放された。しかし、まだまだ問題は解決したわけではない。

記者会見は開放されたが、それは記者クラブ問題のほんの一部に過ぎない。例えば、記者クラブというのは、政府の庁舎の中に記者クラブの加盟社だけが使える部屋を無償で提供されている。記者クラブの加盟社はそこに記者を常駐させ、会見の他にもレク、懇談などに自由に参加している。しかし、記者クラブに加盟できない社の記者やフリーの記者は、予め時間が決まっている大臣会見には参加できるが、随時行われるレクや懇談には参加できない。大手メディアの友人らの話では、記者会見がオープンになってしまったので、デリケートな話は会見ではなく、懇談など外部の記者がいない場で話されることが多くなったという。

政府機関が特定の民間事業者のみに施設を提供し、同様のアクセスを希望する他の事業者への提供を拒むのは、行政の中立性から考えても問題は多いが、行政側も大手メディア側も、自らこの利権を手放そうとはしない。

記者クラブメディアにとっては、これは情報への優先的アクセスだし、行政側からすれば、特定のメディアに優先的アクセスを与えることで、メディア操縦をより容易にしてくれるシステムなため、両者にとってメリットがある。

行政とメディアがともに頬っかむりを決め込んでいる問題を解決するのは容易ではない。本気でこれを変えさせようと思えば、万全な体制を組んで裁判に訴えるほかないが、こっちもそんなことをやっているほど暇ではないし、そんな余裕もない。また、いきなり部屋をつかっていいという話になっても、すべての記者クラブにスタッフを常駐させるほどの人員もいない。

結局、記者クラブというクローズドで特殊なシステムが存在することを前提に日本のメディア市場の秩序が形成されているため、ある日いきなりこれが変わっても、すぐに対応はできない。だから、記者クラブ制度のような、明らかに不当な、そして公共の利益に反する不公正な仕組みがいつまでも温存されてしまっているのは、日本にとって不幸なことだと思う。

統治権力に対する警戒心の欠如

ー外から見ると日本の政治メディアは権力と仲良くやっているように見える。礼儀正しい。それはシステムのせいなのか、それとも何か別の理由があるのか。

もちろん、直接的にはシステムの問題だ。しかし、システムには元々、それを裏付ける社会の意思が存在する。社会の意思に反したシステムはいつまでも存在し続けることはできない。そこにはなぜそのようなシステムになっているのか、そしてなぜそれが容認されているのかという根源的な問題がある。それは単にシステムのせいではなくて、メディアを構成しているメディア関係者も、政治家や官僚も、そして市民社会全体としても、近代社会がどのような前提の上に成り立っていて、それがどのように回っていくことが健全なことなのかという基本的な問いに対する理解とコミットメントが欠けていると言うしかない。

ただし、単純にこれを民度が低いとか、未熟だと言って、切り捨ててしまうのは間違っている。これは善し悪しの問題ではなくて、西洋と日本の考え方の違いだ、という主張もよく耳にする。

ただ、そこには決定的に欠けているものが2つあると思う。

1つは、統治権力に対する警戒心の欠如、もう一つはそれと表裏一体の関係にあるが、主権者意識の欠如だ。

日本は戦前、当時の統治権力の暴走によって戦争に引きずり込まれ、全国民が塗炭の苦しみを味わった。それは日本のすべての人によって今でも共有されていると思うし、そう思いたいが、それは統治権力の暴走に対する警戒心という形ではなく、反戦とか戦争アレルギーといった形で日本人のDNAに刻み込まれてしまったように見える。

つまり、統治権力の監視を怠った、あるいはそれに失敗したことの帰結としてあの戦争があったので、これからも統治権力の一挙手一投足は常に監視を怠ってはいけないという形での教訓ではなく、とにかく戦争につながるような政策を一切許さないという形でそれが残った。それは大変貴重な記憶ではあるが、結果的に戦争と直結しない統治権力の暴走については、日本人は総じて警戒心が弱いように見える。

それは欧米のように、統治権力が暴走した結果、戦争を凌ぐ大虐殺や民族浄化のような残忍なことが国内で行われた経験がないため、いわゆる「悲劇の共有」が足りないことに原因があると説明されることが多い。

また、今日の日本の民主主義は多くの血を流した市民革命によって得たものではなく、戦争に負けた結果、進駐してきたアメリカのGHQによって憲法ともども、棚ぼた式に上から与えられたものであることに問題があるという指摘もある。

どちらの学説がより説得力があるかは各人の判断に任せるとしても、日本では、統治権力というものは不断の監視を行わないと、簡単に暴走するものであり、いざ暴走が始まったら、市民の力でこれを抑えることは難しいという考えが広く共有されているとは言えない。そのような悲劇を経験したことがないということは、民族としては素晴らしいことだが、それが近代民主主義の下では弱点になっているのも事実ではないか。

それが、官僚機構の中にも、また大手メディアの中にも、下手に市民に政治参加などをさせるよりも、エリートに任せておいた方が国はうまく回るし、その方が大きな間違いはないという、エリート主義=愚民観が少なからずあるように思う。

専門家に任せておいた方が特定の国家目的の達成のためには効率的かもしれない。しかし、その命題はそもそも大前提が逆立ちしている。

国民は国家目的を達成するための道具ではなく、政府は国民の幸福実現のためのツールとして存在する、だから国民はしっかりと政府を操縦しなければならない、という大前提が共有されていないと、国家運営のような難しい仕事は偉い人に任せておいた方がいい、というような他力本願が支配的になってしまう。

メディアの世界にもそのような考え方が根底にあるように思う。つまり、国家運営は官僚などの偉い人に委せ、何を報じ何を報じないかは、われわれエリート記者の判断に任せておいた方がいいのだという、考え方だ。

だから、大手メディアに所属していない、得体の知れない報道機関の記者やフリーランスの記者などは、自分たちが長らく聖域として護ってきた政治や行政の世界に入ってこない方が、日本のためだくらいに思っているのではないか。

「偉い人にまかせておけば万事うまくいく」の罠

ーそのような状況は、ジャーナリズムにとって悪いことだろか?

どういう社会を望むかが個々人の価値観によるのと同じように、どういうジャーナリズムを好ましいと考えるかも、個々人の価値観に依存する。しかし、現在の日本のジャーナリズムのシステムにどんな問題が存在するかは明らかだ。

「偉い人にまかせておけば万事うまくいく」というような「エリート主義+他力本願=おまかせ主義」を肯定してしまうと、すべてが内輪で完結してしまい、外部からの監視を受けないために、癒着や腐敗が横行することが避けられない。メディアについても、その体質がメデイア全体の堕落につながっていることはまちがいない。

大手報道機関に所属する記者の誰もが、特定の大手報道機関が政府情報に特権的なアクセスを持ち、彼らが何がどう報じられるべきかを判断し、国民はそれをありがたく受け取ればいいと考えているとは思わないが、残念ながらこれまでの日本のジャーナリズムのシステムはそのような考え方を前提としたシステムになっていると言わざるを得ない。

もし大手メディアの記者たちにそれだけの使命感があるのであれば、それはそれで結構なことだが、それでは競争も起きないために記者の能力は上がらないし、記者クラブ固有の横並びの報道が続くことになる。恐らく、結果的に誰も幸せにならない。

また、今日、そうした特殊な温室の中で温々とやってきた既存のメディアの記者たちが、突如インターネットの登場によって市場競争に晒されると、実はジャーナリストとしての基本的な競争力が欠如していることが露呈してしまっている。

記者クラブの記者たちを見ていると、日頃から本当の意味での競争を経験していないので、どうすれば他社と差別化ができるのかとか、どのような取材・報道をすれば独自の視点を提供できるかといった、ジャーナリズムの最も基本的な素養が身についていない記者が多いことに驚かされる。

そうしたノウハウは、日夜、市場競争に晒されているあらゆる産業分野では大昔から当たり前のように要求されてきた能力だったが、ことメディアについてはあまりに寡占度が高いために、そのような基本的な競争力が備わっていなくても、これまでは通用したかもしれない。

インターネットによって既存メディアの寡占の前提だった伝送路が開放され、メディアが普通の産業として競争していかなければならなくなった。

既存のメディアにとっては受難の時代だと思うし、これまでジャーナリズム機能を一手に担ってきた既存のメディアが弱体化すれば、一時的にはジャーナリズムの力も低下するかもしれない。

しかし、このメディア革命が結果的に市民社会にとっていいものだったと言えるかどうかは、一重にこれからの私たちの出方にかかっているのだと思う。ただ、どっちにしても一つはっきりしていることは、時計の針を後ろに戻すことはできないということだ。

(取材:東京の外国特派員クラブにて。)

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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