関東大震災と金融恐慌
9月1日は防災の日、昔は震災記念日と呼ばれていた気がする。つまり、1923年9月1日に発生した関東大震災における遭難死者を追弔し、記念する日である。現在ではこの教訓を生かして防災について考える日となっている。今回はこの関東大震災による金融市場への影響について振り返ってみたい。
1923年9月1日に発生した関東大震災によって、関東地方の企業は壊滅的な打撃を受け、損害を受けた企業は震災前に振り出した手形を決済することができず、それを抱えた市中銀行も資金繰りに支障をきたすようになった。政府はこのためモラトリアムを出して、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限を1か月間猶予した。
9月29日には震災手形割引損失補償令が出され、震災地を支払地とする手形や震災地に営業所を有していた商工業者を債務者とする手形等(震災手形)については、特別に日銀による再割引、つまり、銀行がもっている震災手形を日銀に買い取らせた。これに伴い日銀が損害を受けた場合は政府が補償することになったのである。
時が経ち1927年1月、政府は日銀をはじめとする銀行の損失を補償するための国債を発行したうえで、震災手形の整理を進めることとし、震災手形二法が議会に提出された。しかし、震災手形の振出が鈴木商店に、また所持が台湾銀行に集中していたことから、政府資金による特定企業の救済につながるとして、議会での審議は紛糾した。
この審議の過程で、3月14日に片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と発言してしまったのである。同行はこの日、資金融通が可能となり実際には破綻は免れていた。しかし、この片岡蔵相の発言により、一般預金者の不安が増長され、東京渡辺銀行やその関連銀行のあかぢ貯蓄銀行が取付に合い、休業に追い込まれ、その後他の銀行にも取付が波及したのである。
政府は事態を収束するため、4月22日から2日間銀行を臨時休業させることとしたほか、3週間のモラトリアム(支払猶予)を公布した。この間、日銀は正規の手続きによらない特別融通などの緊急貸出を実施した。預金者の不安心理を一掃することを目的に、現金を銀行の窓口に高く積み上げるという単純ながらも有効な手段が取られた。この際に短期間に大量の日銀券が市中銀行に対する預金者からの預金払戻し請求などに応じるために発行されたことから、銀行券の印刷が間に合わず、やむなく裏面が白紙の200円の高額紙幣が発行された。これらの措置の結果、金融恐慌はようやく鎮静化したのである。
この金融恐慌が引き金となり、取引の安全性を図るため、コール市場参加銀行がコール協定を締結し、国債担保を原則とすることや長期物取引の禁止を申し合わせた。このため、有担保取引の原則が市場ルールとして定着していった。金融恐慌の発端のひとつとして、特殊銀行が無担保コールを市場で盛んに調達したことが指摘されており、その反省によってコール市場でも有担保取引が主流となったのである。