原発事故から5年――福島で変わったこと、変わらないこと

現在の1号機外観 撮影:幸田大地 写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

2016年3月2日、私は福島第一原発4号機の内部に入った。使用済み燃料プールの水は青かった。

現在の4号機使用済み燃料プールの様子 撮影:幸田大地 写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝
現在の4号機使用済み燃料プールの様子 撮影:幸田大地 写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

そんな簡単な事実さえ、私は知らなかった。社会は自分の知らない分野の専門家たちによって、なんとか回っているのだ。「福島第一原発の中でももっともリスクが高い」と言われた4号機からは、2014年に、無事にすべての燃料が取り出された。

4号機からの燃料の取り出しは、この事故以来、大きく変わったことのひとつと言えるのではないだろうか。しかし、1号機は燃料の取り出しをする前の、ガレキ撤去に手を付ける前の、カバーの解体が始まったばかりだ。変わっていないことも、まだまだある。

福島第一原発の事故から5年が経過しようとしている。

2016年3月、ニュース個人のオーサーとして、私はヤフーへの福島第一原発視察の案内を受けた。原発内部の取材とあわせて、福島に暮らす人たちや、廃炉作業など、福島は今、どうなっているのかを取材したいと思った。

しかし、私は東日本大震災も、福島第一原発も、これまで取材経験がない。そんな私が伝えられることはなんだろう。考えあぐねた結果、実際に見て、聞き、自分の考えを記すことにした。

5年というのは、何もきっかけがなくても、何かが変わるには十分な時間だ。当然、事故のあった福島では、場所も、人も、その生活も大きく変わってしまっていた。一方で、変わっていないこと、もしかしたら変われないことも、やはりたくさんある。

富岡町の旧富岡駅ホームから:変わった風景

富岡町の旧富岡駅ホームから 撮影:朽木誠一郎
富岡町の旧富岡駅ホームから 撮影:朽木誠一郎

富岡町の旧富岡駅ホームから見える風景は、大きく変わった。

富岡町の沿岸部の仮置き場を埋め尽くしていた黒い袋(除染廃棄物を入れたフレコンバッグ)は、一時よりかなり減った印象だ。空撮写真ではおもちゃのブロックのようなフレコンバッグも、実際に近づいてみると大きく感じる。サイズはだいたい1立方メートルほどだろうか。

2015年9月末時点で、約915万5000袋のフレコンバッグが、県内にある約11万4700箇所の仮置き場や、除染現場の保管場所に置かれている。しかし、大熊町・双葉町に建設中の中間貯蔵施設への搬入は、まだ試験輸送の段階だ。

中間貯蔵施設には、2016年2月17日時点で約3万7000立方メートルの廃棄物が搬入された。環境省は4月から15万立方メートルのフレコンバックを中間貯蔵施設に搬入する計画をスタートする。

福島原発事故 積み上がる除染廃棄物 - 毎日新聞

<中間貯蔵>除染廃棄物1年で3.7万立方m - 河北新報

1立方メートルが1袋の換算で、15万袋のフレコンバッグが搬入されたとして、残りは約900万袋だ。これを中間貯蔵施設に運びきれても、福島県外などで検討されている最終処分場がどこになるかも、最終処分にかかる期間も、効果のほども、はっきりしたことはわからない。

県外最終処分に向けた取組み - 環境省 中間貯蔵施設情報サイト

復興計画は30~40年という長期スパンで議論されることが多い。当事者意識がない限り、そのざっくりとした数字によって、それ以上は思考を停止してしまうのではないか。最終処分場は、自分の住む街にできるかもしれないのに。

富岡町は福島県の太平洋沿岸の中央に位置する。JRの常磐線が運行していた富岡駅の駅舎は津波により大破した。以前ホームだった場所からの視界は、一度は無数の黒い袋で閉ざされ、現在は雑草の向こうにまた海を望める。駅舎は新設され、2018年には運行が再開される見通しだ。

JR常磐線の全線開通に向けた見通し等について

ホームだった場所に立ち、ふと視線を落とすと、雑草の合間にサビついた線路があった。一度でも変わってしまったことは、もう元には戻らないのだ。

風評被害と農業:変わらない農家の思い

いわき市にオープンした農業の複合施設『ワンダーファーム』 撮影:朽木誠一郎
いわき市にオープンした農業の複合施設『ワンダーファーム』 撮影:朽木誠一郎

「風評被害」は、事故以前の福島にはなかったものだ。

今ではニュースなどで取り上げられる機会もすっかり減ったように感じる。スーパーで福島県産の野菜を見かけても、特に安いわけではない。しかし、依然として風評被害は「ある」と、いわき市で「ファーム白石」を営む農家の白石長利さんは言う。

「でも、正体がわからない。完全に売れなくなるのであればわかりますが、安い値段であれば売れるんです。農家には賠償金が支払われているため、バイヤーに買い叩かれても取り引きに応じてしまう。その差額がどこに、どのように渡っているのかは、農家にはわかりません」

農地の復旧は進んでいる。2015年に農林水産省が発表したデータによれば、福島県の津波被災農地全体5,460haのうち、ガレキなどの撤去により、2014年度までに1,630haと、約30%が営農を再開している。

しかし、2014年時点で避難指示区域に当たる農地が2,120haあり、こちらは避難指示が解除されなければ営農再開の見込みは立たない。農業が大きな打撃を受けた東北地方の中で、福島の農地の復旧が宮城・岩手よりも遅れている理由のひとつだ。

農業・農村の復興マスタープラン概要 平成27年7月3日版

暗いニュースばかりではない。2016年2月24日、いわき市に複合型農業テーマパーク『ワンダーファーム』がオープンした。地元農家と連携し、レストランで野菜料理を味わったり、野菜の収穫を体験したりできる。白石さんはこの運営スタッフだ。

ワンダーファーム - 公式サイト

白石さんは、原発事故をきっかけに「これまで生産者と消費者の壁を作ってきたのは、生産者かもしれない」と思うようになった。「福島の野菜に厳しい目が向く今、私たち生産者はできるだけ情報を開示し、消費者に選ばれる努力をしなければならない」ためだ。

そこで、白石さんはFacebookなどのソーシャルでも情報発信をするようになった。そのおかげか、ワンダーファームの立ち上がりは順調だそうだ。「安全安心で、美味しい野菜を作るという思いは、事故以前から今も変わらないものです。変わったのは、それをいかに伝えるか」

一方、農地の復旧が遅れているのには、もともと後継者が不足しており、事故をきっかけに廃業する農家もいる、という事情がある。2015年の福島県の農業人口は初めて10万人を割り込み、約3万人減の約7万7,000人となった。

農業人口初の10万人割れ 原発事故で離農加速 避難区域除く県内 - 福島民報

ワンダーファームに関わる農家はその内の80~90人だ。希望の芽は出ているが、実るのはもっと先かもしれない。

原発事故と共存する住民:変わらない産業構造

帰宅困難区域の入り口 撮影:朽木誠一郎
帰宅困難区域の入り口 撮影:朽木誠一郎

住民は福島の変化をどのように受け止めているのだろうか。

原発事故により浪江町から避難生活を送り、元東京電力社員として地域住民に福島第一原発の実情を伝える取り組みをする吉川彰浩さん(一般社団法人AFW代表)は、「今も昔も、この地域は原発を中心に回っている」と言う。

一般社団法人AFW

「逃げなければ命に関わるという、最悪の時期は過ぎました。そして、廃炉への取り組みが進む現在、福島第一原発は既に、地域最大の雇用を生み出しています。地域は原発事故からの廃炉と共生していかなければなりません」

しかし「放射能汚染というイメージがある中で、人が住む町を作るというのは想像以上に大変です」と吉川さん。復興は人がいないと成り立たないが、「放射能汚染が明日なくなっても、原発事故により社会の原発へのイメージ変わった現状では、夢を描ける場所ではない」のだ。

例えば、2015年9月に避難指示が解除された楢葉町は、住民の帰還が進んでいない。2015年の国勢調査では、人口は震災前の7,700人から87.3%減し、976人となっている。国勢調査上の人口には復興事業者も含まれるため、元来住民はさらに少ない。

国勢調査 福島県、震災前から人口11万人減 4町でゼロ - 毎日新聞

「もともと原発が主力の地域で、観光や一次産業に力を入れずとも生活が成り立っていました。今も除染や廃炉に関わる方が、給料が良い現実があり、この地域で生計を保つには、それらを選択するしかない状況が続いています」

現在、福島県ではイノベーション・コースト構想として、廃炉をテーマにした復興が計画されている。国際廃炉研究開発拠点を置き、廃炉や除染の技術を国内外に打ち出す方針だ。

ふくしま復興ステーション - イノベーションコースト構想

だが「これでは廃炉後の福島に何も残らないのでは」と吉川さん。廃炉だけでなく「次世代に地域を引き継ぐ」という観点がなければ、本当の意味での復興はない。「そもそも、復興を目標にしていてはダメなんです、もともと産業が乏しかった状態に戻るだけなのですから」

「事故前まで、なんとなく暮らして、なんとなく幸せだと思っていました。それは私だけでなく、地域もそうだったと思います。その地域が持つ強みを見つけ、成長させようという意識が足りていなかったのです」

また、吉川さんは震災後に初めて地域の文化や歴史を知り、それを引き継ぐことが重要だと思うようになった。「地元を愛する気持ちがないわけではありませんでした。地域には、それを誇れるだけのポテンシャルがあります。それを掘り起こし、いかに共有していくかが課題です」

産業を創出・育成し、文化や歴史を継承するというのは、ひとりの力が及ぶような問題ではない。その解決に必要なのは、地域住民それぞれの変化なのかもしれない。

東電社員の声:変わる福島第一原発

2018年までに返還される予定のJビレッジ 撮影:朽木誠一郎
2018年までに返還される予定のJビレッジ 撮影:朽木誠一郎

この5年で、作業員の労働環境は大きく変化した。

「福島第一原発」 劣悪とされてきた環境はどう変わったのか - Yahoo!ニュース個人

福島)第一原発構内にコンビニ開店 作業員らでにぎわう - 朝日新聞

原発内部の一部は、2016年3月現在、防護服なし(マスクと手袋は着用)で移動できるほど線量が低くなった。一方、原発の建屋周辺(冒頭の画像)は未だ線量が高い。福島第一原発内は、決して安全ではない。しかし、日常生活が成立しつつある。

今回、福島第一原発内の取材に対応した、東京電力原子力・立地本部長代理の白井功さんにお話を伺った。白井さんは事故以前、福島第一原発・第二原発で10年以上勤務していた。白井さんは事故直後から福島と東京を行き来し、取材対応などに当たっている。

「電力は本来、公益産業です。電力事業を志す者はほとんど、人の役に立ちたいと思って入職しています。事故により、逆に、人の迷惑になってしまった。それが申し訳ないです」どのような思いで普段の仕事に取り組んでいるか聞くと、白井さんはそう答えた。

「申し訳ない」というのは、どのような意味で、ですか? 深く考えたわけではない、何の気なしの質問だった。白井さんの動きが止まり、柔和だった表情がこわばった。会議室ではしばらく沈黙が続いた。

白井さんが口を開いた。「この地域で自分自身、10年以上生活して、お世話になった人たちがたくさんいる。その人たちに迷惑をかけた。直接会って何か言おうとしても、いるべき所にいるべき人がいないんです。それなのに、いないはずの自分がいる。この状況が申し訳ないです」

「だから私は、自分なりにできることを果たして、この地域が危険だから近寄らない、と言われないようにしなければなりません。大熊(町)にも双葉(町)にも帰還してもらえるように。役に立っているとはもう言われなくても」時折、嗚咽を漏らし、振り絞るように言った。

好むと好まざるとに関わらず、少なく見てもあと数十年は、福島に原発があることは変わらない。変わらないことを前にして、私たちはどのような態度をとればいいのか。

福島で変わったこと、変わらないこと

復興とは元に戻ることではないと、ここまで取材をして思った。一度変わってしまったものは、もう元には戻らないからだ。それらを新しくイチから、あるいはマイナスから作り直すような、多大な物理的・精神的コストがかかることだ。

同時に、人は社会とのつながりなしに生きられないとも思った。最終処分場は福島県外に建設されるかもしれないし、福島県産の野菜は東京のスーパーに並ぶ。住民は次世代に地域を引き継ぐ試みを始め、東京電力は社会に対して責任を果たさなければならない。

福島第一原発の事故により、変わらなかったものは結局、このような人と社会との関係だ。そして、社会を構成するのはまた、人である。つまり、人と人とはもたれ合いながら生きている。

そんな相手が倒れてしまったときは、それが誰であれ、手を差し伸べるべきではないか。たくさんのもたれ合いによって成り立つ社会が、思わぬところから崩れてしまわないように。

いわき駅から徒歩数分の場所にある「夜明け市場」 撮影:朽木誠一郎
いわき駅から徒歩数分の場所にある「夜明け市場」 撮影:朽木誠一郎

いわき市には事故後、「夜明け市場」という、復興支援がテーマの飲食店街ができた。

全部で14の店舗と、コワーキングスペースもある。取材後に、夜明け市場で一件の飲み屋に入った。店のママは最近のいわき市の様子について「(事故なんて)何にもなかったみたいになった」と言う。

夜明け市場・飲食店街

「ここらには50年以上ある店もある。地元のネギもさ、美味しいでしょう?」しかし、先客だった常連の中年男性は、福島第一原発で勤務する作業員だ。妻子のいる埼玉県から単身赴任をしている。

「事故がなければ、おれはここにいないよ」と文句を言う常連客に「いつも来ているから、わからなくなっちゃった」と店のママは笑う。人は変化を受け容れることができるのだ、何にもなかったみたいに。