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ここがおかしい原子力安全規制

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

またもや原子力規制委員会の科学の名のもとの非科学についてですが、どうも、この問題、一般の方々の理解を得にくいようですね。はっきりいって、全く関心を引かない。一方、専門家の間では、原子力規制委員会の活動を疑問視する向きが多いようですが、表立った批判の声としては、あまり聞こえてこないようです。一体、どこがおかしいのか。

誰も止めない原子力規制委員会の暴走

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原子力規制委員会がしていることは、どう考えてもおかしい。間違っていると思います。原子力施設の下に活断層があるかどうかの議論など、全く非科学的で不毛です。そもそも活断層の定義自体が定まらず、一定の定義に従っても、活断層かどうかの科学的で客観的な判定などできないからです。にもかかわらず、強引に活断層の存在を認定することで、事実上の廃炉決定を行い、原子力政策に重大な影響を与えるなどということは、方法の不当さもさることながら、行政組織のあり方としても、大いに疑問です。田中委員長が安倍総理大臣よりも偉いはずはないのですから。

本来の原子力規制委員会の機能は、活断層の判定などという非科学的な議論を行うことではなく、当該破砕帯の上に原子力施設を設置せしめた場合において、建築工学と原子力工学の現在の技術水準に照らして、仮に活断層であるとの可能性も考慮したうえで、危険を許容範囲に制御するために、いかなる施設設置基準を定めたらよいのかを検討することです。ところが、現在の原子力規制委員会は、この本来の機能を全く無視して暴走しているのです。

しかし、どこをみても、公然たる批判はないようです。誰も暴走を止めようとしない。なぜでしょうか。おそらくは、議論が狭く専門的にすぎることが一つの理由だと思われるのですが、ならば、専門家の間で、専門家同士の議論として、原子力規制委員会の審議方法についての活発な論議がありそうですが、そうでもないようです。

活断層を「創造」する原子力規制委員会

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そのなかで、電力を含むエネルギー業界の分野の有力な専門誌「月刊エネルギーフォーラム」が、3月号で、「活断層を「創造」する原子力規制委への疑問」という特集を組んでいるのは目を引きます。

この特集には、私も、「原子力発電の安全対策費用は誰が負担すべきか」という論考を寄稿しています。私の論考の結論は、原子力安全対策費は、電気料金を通じて、もしくは税金の投入というかたちで、国民負担とすべきであり、まかり間違っても、原子力事業者の負担にはなし得ないというものです。科学的に正当な安全対策費ならば、電気の原価ですし、原子力政策の転換に基づく規制強化ならば、国民の政治的選択として、国費の投入が行われるのが筋だからです。

私の論理からいえば、原子力規制委員会の主張により、原子力発電所が廃炉に追い込まれるようなことになれば、その早期廃炉費用(もちろん巨額です)は、国民負担となるはずであり、そのような重大な帰結を招く決定が、原子力規制委員会において勝手になされていいはずはない、ということになります。

なぜ、原子力規制委員会の決定が事実上の政治決定になってしまうかというと、中立性・客観性・科学性を標榜(実態は擬制にすぎない)する原子力規制委員会の決定を政府が覆すことなど、国民世論の反応を考えれば、政治的に不可能であることは明瞭だからです。

陰湿な圧力のもとでの自由な言論の封殺

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しかし、こうした業界の専門誌の議論というだけで、安全性よりも業界利益を優先する立場に立っているとの偏見を受けやすいですね。専門家の人も、敢えて原子力事業者寄りとみられる発言をしたくないのが実情でしょう。

原子力については、原子力発電所の設置安全基準だけでなく、放射線と健康被害との関係に関しても、専門家同士の科学的な議論ができる言論的状況にはないのです。ある種の世論の陰湿な圧力があるのでしょう。言論の自由こそが民主主義の生命線であることを考えると、これは危険なことです。

政府も政治家も、原子力事業者寄りに見做されることは政治状況的に好ましくないとの判断で、風向きに敏感な風見鶏を決め込んでいるのでしょう。このような低俗な大衆迎合政治の行き着くところ、如何なる悲劇が待ち受けていることか、私は、非常に心配です。

今の言論の状況といいますか、世論の動向は、利益のあるものの発言を、自己利益誘導の非科学的な偏った意見と見做すわけですから、原子力事業者が何をいっても無駄です。原子力規制委員会も、最初から原子力事業者の発言の科学的中立性を認めようとしません。中立性どころか、信憑性についてすら、最初から疑念をもって臨んでいるようです。

学会から有力な批判が起きない理由も、ここに関係があると思われます。狭い学会のなかで、原子力事業者の地位は圧倒的に大きなものがあります。原子力関連の学会の専門家であれば、共同研究や委託研究等を通じて、原子力事業者と何らかの関係をもっていても、少しも不思議ではありません。むしろ自然でしょう。ところが、こうした学者は、原子力事業者の利害関係者ということで、原子力事業者と同等の扱いになってしまうようです。

結果として、原子力規制委員会も含め、科学や中立的立場の名のもとに発言できるのは、原子力事業者とは一切関係のない人たちだけということになってしまう。こういう人は、決して学会の多数や平均を代表するものではないと思われます。はたして、このように偏った層に属する人たちの発言だけで、科学的で中立的な議論ができるのでしょうか。まさに、科学の名のもとの非科学、中立性の名のもとの偏向ではないでしょうか。

「原子力ムラ」批判のおかしな帰結

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歴史的にみて、原子力規制の根本的な問題は、原子力行政そのものが原子力事業者に丸投げされてきたので、規制する側の政府よりも、規制される側の事業者のほうが、圧倒的に情報や経験において優越する状況になっていたことです。このことは、東京電力福島第一原子力発電所の事故に関する複数の調査報告書の共通見解であって、規制する政府が、規制されているはずの東京電力によって、絡め捕られていたことに、事故の原因を求めているのです。「原子力ムラ」というのは、規制側が被規制側に絡め捕られてしまって、両者間の適切な距離感と緊張感が維持できず、馴れ合い(「ムラ」)の関係に陥ったことをいうわけです。

この奇怪な事態を招来したことについて、各調査報告書は、陰の実力者としての東京電力を強く批判していますが、本当は、東京電力の「慢心」よりも、その「慢心」を放置した規制側の責任こそが、問われるべきです。少なくとも、原子力規制のあり方という一点については、規制する側の政府の責任だけが問題になるわけです。

故に、今の原子力規制委員会は、規制改革として、原子力事業者との距離を明確にしたのです。それはいいのですが、原子力事業者との対話を拒むだけでなく、原子力事業者を排除するような規制のあり方へと、あまりにも極端に走ってしまったのです。

必要なのは民主主義的な対話

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しかし、「ムラ」の解体と新たなる規制の枠組みを構築することとは、別です。現実問題として、原子力に関する経験や知識が、原子力事業者と原子力事業者に近い(というよりも何らかの関係がある)学者・専門家に偏在していることは事実でしょう。

原子力安全規制を改めるとはいっても、現在の原子力規制委員会が行おうとしているように、原子力事業の現実を超越した視点から、全く新たなる基準を作成するというのは、さて、現実的なものでしょうか。というよりも、そのような基準が有効に機能するものでしょうか。そもそも、原子力事業者と敵対し、原子力事業者を排除する規制というのはおかしくはないでしょうか。むしろ、原子力事業者との開かれた場での対話こそが重要だと思います。

「ムラ」の問題は、密室における密談だと思われます。「ムラ」改革の方向は、規制側からの一方的かつ強権的な命令や指示ではなくて、民主主義の原則に忠実に、公開の討論を通じた健全な合意形成にあるのではないでしょうか。

あり得ない専門家抜きの規制改革

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最近の安直な世論や政治の風潮というのは、規制とは、即ち、既成勢力の保護であり、官界(規制側)と既成勢力(被規制側)との癒着である、という図式の適用であり、故に、規制改革の論議には、既成勢力は排除されるべきである、との結論に至るようです。原子力規制委員会は、まさに、そのような論調から生まれていますし、電気事業改革も、同様の方向です。

こうなると、例えば、いわゆる「発送電分離」でも、電気事業連合会が安定供給の視点から技術的な問題性を述べても、単なる改革反対の保守反動の既得権益擁護の発言と見做されてしまう。しかし、電気事業を一手に担ってきた専門家の意見を無視した電気事業改革というのは、安定供給の視点からは、技術的に危険だと思われます。

規制改革というのは、新規参入の事業者と既存の事業者との対等な関係のなかで、両者の主張を公正に取り扱うのでなければいけません。原子力規制についても、原子力事業者の主張が正当に評価されなくてはならないのです。原子力事業者を、お白洲に土下座させるような扱いは、やはり、不当です。これは、原子力推進か反原子力かという次元の問題ではない。民主主義の根幹にかかわる哲学の問題です。

安全性の真に科学的な意味

ところで、根源的問題に帰れば、原子力規制は、原子力事業の存在を前提とし、その安全性の確保を目的としたものですから、規制の本質は、危険性を許容限界に収めることであって、安全性を証明することではないはずです。

実は、危険か安全かは、きれいに白黒がつくものではあり得ません。本来の原子力規制委員会の役割は、そして他の全ての規制機関の行政組織上の役割は、許容できる危険限界を定め、その限界からの逸脱を積極的に立証することだろうと思われます。その立証ができなければ、規制上は安全ということになるはずです。安全とは、そのような意味です。ここは、冷静になっていただきたいのですが、安全とは、そのような消極的な意味しかもち得ないのです。

これに反して、現在の原子力規制委員会の立場は、原子力事業者において、安全性が積極的に立証されることを求めるものですが、これは、事実上、不可能を強いることです。原子力事業者にできることは、危険であるとは積極的にはいえないという主張であって、事実、そのような反論をしているはずです。

このとき、本来は、原子力規制委員会において、危険の存在についての積極的な反証ができないならば、安全を宣言しなければならないはずです。それなのに、原子力事業者に安全性の証明を求める姿勢を変えない。これでは、建設的な議論にならないし、明らかに、原子力規制委員会の権限を逸脱することにもなってしまうのです。

危険の積極的な論証ができないということは、微小な危険の存在を前提にしたうえで、その危険が、建築工学、土木工学、原子力工学等の現在の技術水準に照らして、十分に制御可能であるという意味です。これが、安全性の真に科学的な意味なのです。

もしも、この安全性に国民が満足しないならば、原子力事業は成り立ち得ません。自動的に、脱原子力の国民的決断が帰着します。それが国民多数の意志であり、その決断の対価として巨額な国民負担を甘受することに国民の合意があるというならば、国民の一人として、受け入れるしかないことです。しかし、そのような決断は、原子力規制委員会の機能とは、全く関係ないことです。

原子力規制委員会は、自己の役割に忠実に、安全な、上に述べた意味での安全な、原子力事業の健全な発展のために尽力すべきです。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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