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縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(後編)

宗像明将音楽評論家
「おながわ秋刀魚収獲祭2014」で歌う寺嶋由芙(写真:アーカーゲー)

『縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(前編)』から続く)

震災遺構の前での最初で最後の祭り

「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の当日である2014年9月21日の朝、前夜に飲みすぎた仲間たちはさっぱり起きてこず、自動車で早朝に到着した友人たちに「意識が低い」とTwitter越しに言われる有り様だった。なんとか午前10時過ぎにチェックアウト。今日も女川は陽射しは強い。

民宿の玄関には、女川出身で現在は私の近所に住んでいる友人が迎えに来てくれた。旧市街地の会場に向かう途中で「この辺まで津波が来た」と教えてくれたのだが、海はやっと見える程度。そのぐらい遠い場所まで津波は到達したのだ。

「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の会場を通り抜けて、一旦「お魚いちば・寿司 おかせい」へ向かう。その途中には、造成のための大きな盛り土がいくつもあり、津波の避難先もしっかりと用意されていた。女川漁港周辺には巨大なコンクリートがズラリと積まれており、復興に向けてこれまでになく女川の風景は変化していた。「お魚いちば・寿司 おかせい」では今回も「特撰女川丼」を注文する。

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「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の会場周辺をひとりで見て回る。今回の「おながわ秋刀魚収獲祭2014」は旧市街地で開催されているために、震災遺構である江島共済会館の周囲一帯も駐車場として使われている。そして手向けられている花の位置も以前と変わっていた。江島共済会館が解体されたら、この花はどこに手向けられるのだろう。

女川を一望できる「輝望の丘」へ登ると、「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の会場からはモクモクと煙が上がっていた。無料で5,000尾が振る舞われるさんまを炭火焼きする煙だ。そして旧市街地にこれほど人が集まっている光景を初めて見た。

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「輝望の丘」から「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の会場に戻ると、祭りの会場からも江島共済会館が見える。2014年内の解体が予定されているため、江島共済会館の前で祭りが開催されるのはこれが最初で最後なのだ。

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「女川港大漁獅子舞 まむし」では、ミニマルな和太鼓と笛にコブシが乗り、会場を獅子舞が練り歩く。石巻市のダンスチームであるFDCは、フィンガー5の「学園天国」も踊っていた。

寺嶋由芙がひとりのアイドルとして女川と向かい合った瞬間

そして寺嶋由芙のステージ。50分の持ち時間でも昨日のセットリストと重複するのは岡村靖幸のカヴァー「だいすき」のみで、今日はシングルのタイトル曲である「#ゆーふらいと」や「カンパニュラの憂鬱」も歌われた。

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(写真:ばくもん)

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(写真:アーカーゲー)

そして寺嶋由芙は、「カンパニュラの憂鬱」を歌い終えると5分ほどMCをした。その全文は長いので私のブログに書き起こしておく。

寺嶋由芙「おながわ秋刀魚収獲祭2014」MC文字起こし - 小心者の杖日記

「私が女川町になぜこうしてお邪魔しているかというとですね」という言葉とともに、寺嶋由芙は自分がBiSのメンバーであったこと、BiS時代に女川に招かれたことなどを語りだした。驚いた。彼女が「BiS」というグループ名をパブリックな場で口にすること自体が、脱退後初めてだったからだ。

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(写真:がすぴ~)

再びアイドルとして女川に戻ってこれたことへの謝辞や、この縁をこれからも続けていけたら嬉しいとの挨拶のあと、寺嶋由芙はBiSが女川に招かれたきっかけについて語りだした。それは、女川さいがいエフエムで放送されたBiSの「太陽のじゅもん」を聴いた当時高校生だった女の子が、その歌詞に津波で亡くなった友達の言葉を重ねて泣き、曲名を教えてほしいと女川さいがいエフエムに手紙を送ったことがきっかけだった。覚えている。2年前、2012年9月23日に開催された「おながわ秋刀魚収穫祭2012」のステージ上で、その女の子からの手紙を読み上げたのは、まさに当時BiSのメンバーであった寺嶋由芙だったのだ。

その縁が今も続いていることへの謝辞のあと、「女川に負けないように私自身もどんどん成長して大きくなっていかなくちゃいけないなと、そんな気持ちを込めて次の曲を歌いたいと思います」と述べて、寺嶋由芙は次の曲名を告げた。「太陽のじゅもん」と。その瞬間、私の周囲の元研究員(BiSの元ファンの総称)たちが叫びにも似た驚きの声を上げるのを聞いた。

強い陽射しの差す女川の青空を背にし、ゆふぃすと(寺嶋由芙ファンの総称)が吹くシャボン玉も空を流れていく中、寺嶋由芙によって「太陽のじゅもん」は歌われた。前述のような経緯から、女川において「太陽のじゅもん」は鎮魂歌だ。そして、さまざまなしがらみやエゴを超えて、寺嶋由芙は「太陽のじゅもん」を歌うことを選んだ。そのバックトラックは、「#ゆーふらいと」や「カンパニュラの憂鬱」の作編曲を担当したrionosが、このために制作したものだという。そこまでして脱退したグループの楽曲を歌おうとした強い意志は、紛れもなく寺嶋由芙が女川という土地と真摯に向かい合おうとした結果だった。

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(写真:きくりん)

それは特別な場所での特別な出来事だった、とも言えるかもしれない。しかし、音楽は女川で思わぬ意味合いを持ったり、思わぬ力を発揮することがある。それゆえに私たちの心が動かされる瞬間に過去何度か立ち会ってきた。何かが起きるときには、そこには何かしらの必然性があるのだ。今日の寺嶋由芙のように。

女川を訪れるとき、震災の爪あとが色濃く残るがゆえに日常性と非日常性が交錯する土地を前にして、どこまでいっても自分が「部外者」である難しさを感じさせられることもある。しかし、それでも音楽は私たちと女川が幾重もの縁でつながっていることを伝えてくれる。ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬が女川で歌った「満月の夕」や、カーネーションが女川で演奏した「女川」、そして女川でBiSから寺嶋由芙に歌い継がれた「太陽のじゅもん」のように。

寺嶋由芙のステージは、最後の「ぜんぜん」で女川町のシーパルちゃん、北海道のてっぺん、愛媛のにゃんよといったゆるキャラたちが応援に駆け付け、ファンによる激しいコールとともに終わった。感傷を一気に吹き飛ばすかのように。私もまた勢いにまかせてコールを叫んでいた。アイドルであることに非常に自覚的な寺嶋由芙という人物だからこそ生み出せる強さと楽しさがそこにはあった。

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(写真:がすぴ~)

寺嶋由芙のステージを見ながら、彼女越しに女川町地域医療センターが常に視界に入っていた。そこがまだ女川町立病院だった東日本大震災のとき、17メートルを超える津波はその1階にまで到達したことを思い出す。寺嶋由芙の指先が、ふとしたときに女川町地域医療センターの脇に植えられた「WE LOVE 女川」という文字の形の草に重なる瞬間もあった。

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「おながわ秋刀魚収獲祭2014」実行委員会の蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんは、「太陽のじゅもん」で泣くのは我慢したものの、「ぜんぜん」で泣いたという。かつて1,000人が死んだ場所で、3年半経ってやっと祭りをやろうと決心して、寺嶋由芙がそれに応えるかのように幸せな光景を見せてくれたからだ、と。

八神純子が歌った中島みゆきの「時代」

続く八神純子のステージも素晴らしかった。ソウルフルな「みずいろの雨」で幕を開け、ヒットメドレーではやはりソウルフルな「パープルタウン」を歌った。

そして八神純子はこの日、中島みゆきの「時代」をカヴァーして歌った。「中島みゆきさんが来て歌ってくれたら元気が出るのになぁ」という女川の人の言葉を聞いたそうで、「でも中島みゆきさんはたぶん来ないから私が歌う」という主旨の発言をした後に歌ったのだ。まさにプロだと感銘を受けた。

八神純子は別にカヴァーを入れなくても自身のヒット曲でステージを構成できるし、実際2014年3月16日の「女川町復幸祭2014」でのステージはそうしたものだった。しかし、八神純子は中島みゆきの「時代」を歌うのだ。女川の人々のために自身のエゴを捨てるプロフェッショナルな歌手の姿を八神純子は見せてくれた。

いとしのエリーズはゴージャスな11人編成で、ヴォーカルは桑田佳祐に本当に似た声質。「マンピーのGSPOT」ではさらにダンサーも登場した。

毎年「おながわ秋刀魚収獲祭」の最後を締めくくるのは、地元の中学生を中心にして踊られる「さんまDEサンバ」だ。ふと見ると、寺嶋由芙もそのステージに参加して踊っていた。

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(写真:きくりん)

「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の来場者が38,000人とアナウンスされたのはそんな終盤のことだ。私はすべてが終わってから、やっとその日最初のさんまを食べた。言うまでもなく美味しかった。

2年前から始まった縁が美しく回収される感覚

浦宿駅に電車が来るまで時間がない。「おながわ秋刀魚収獲祭2014」の余韻を引きずりながら、私はひとり徒歩で浦宿駅へ向かった。喧騒を離れた反動で、一気に孤独が押し寄せる。そしてふと足元を見ると、歩道がきれいに舗装されていた。1年前はまだアスファルトが剥がれた箇所が多かったのに。だから昨夜、暗くても意外なほど歩きやすかったのか、と納得した。

帰路の新幹線では、興奮が残っていたのか思ったほど眠れなかった。iPhoneを手にTwitterを見ると、私たちを女川に招くことになった、あの友達を津波で亡くした女の子がツイートしていた。

それは「太陽のじゅもん」を踊る寺嶋由芙の写真と、彼女への感謝の言葉だった。

それを見た瞬間、2年前から始まった縁が、美しくひとつに収まったかのような感覚を味わった。彼女もまた女川であの瞬間を共有していたのだ。女川だからこそ共有できたのだ。

だから最後の締めの言葉はいつだって決まっているのだ。また、女川で会いましょう。

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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