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なぜ医者は「飛行機の中にお医者さんはいませんか」に手を挙げないのか?医師の本音

中山祐次郎外科医師・医学博士・作家
飛行機の中だと聴診器はエンジン音で聴こえませんし、点滴を吊るす場所にも困ります(写真:アフロ)

夏休みの時期になりました。飛行機で遠方へ出掛ける方も多いと思います。海外旅行に行かれる方は、5時間も10時間も、場所によってはさらに長時間飛行機に乗っていることになりますよね。そんな機内でもし体調が急に悪くなったら・・・どうしますか?

筆者は外科の医師であり、過去に機内で「飛行機の中にお医者さんはいませんか?」というコールを聞き、出て行ったことがこれまでに2回あります。そのエピソードとともに、新しくANAとJALが導入する(した)「飛行機の医師登録制度」についてお話します。

機内の「ドクターコール」とは?

これまでは飛行機の中で急病人が発生した場合、「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいませんか」という、いわゆる「ドクターコール」が機内全体にアナウンスされ、医師がいる場合には名乗り出るというスタイルでした。「ドクターコール」を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。

飛行機の医師登録制度とは?

この「ドクターコール」よりも確実に、機内で医師を確保し診療してもらうためのシステムが医師登録制度です。これはあらかじめ医師がANAやJALなど航空会社に「私は医師ですよ」と登録しておき、医師が搭乗する際には機内のキャビン・アテンダント(CA)などスタッフが座席を把握しておいて、いざ急病人が発生したら「ドクターコール」を機内放送で流すかわりに登録した医師に直接声をかけ診療にあたってもらうというものです。JALは今年2月に制度を始め、ANAは9月からスタートする予定です。

ドクターコールに応じた時の話

少し筆者の経験をお話しましょう。

一度目は筆者が医師になって4年目の駆け出しの頃、ヨーロッパの国際学会に発表に行く途中のフライトでした。英語のドクターコールがあり、私はすぐには反応しなかったのですが、おそらく名乗りでる医者が居なかったのでしょう、次に日本語のドクターコールがあったので立ち上がりました。調子が悪い人のもとへ駆けつけると、日本人のお客さんが椅子から落ちそうなほどぐったりしていました。そこで急いで一番前の小さなスペースでその方に寝てもらい、CAに救急バッグを持ってきてもらいました。

その方は意識がぼんやりとしていて、血圧を測定すると60/30とかなり低下していました。私は慌て、ざっと全身を診察しました。そして救急バッグから大急ぎで見つけ出した見慣れぬ針をその方に刺して「saline(生理食塩水のこと、点滴で使います)」とかかれたバッグの点滴をしたところ、幸い数十分で元気になりました。原因はおそらく迷走神経反射だったと推測しますが、機上の救急バッグだけでは何もわかりません。もしその方が心筋梗塞や脳梗塞など重病だったとしたら、私にはなすすべがなくそのまま死亡していたでしょう。

その時乗っていたのは海外の航空会社。外国人のCAから「もし緊急着陸が必要だったら、2時間後にロシアの空港に着陸できますがどうしますか」と言われました。これには本当に参りました。倒れた方が命に関わる病状かどうかなど、機内の限られた機器からの情報だけでは全く判断できなかった上に、ロシアのどんな空港に緊急着陸しどんな規模の病院が近くにあるかも不明だったからです。なんとなく大丈夫そうだったので、「大丈夫です」と答えました。しかしその後も、飛行機が目的地に着陸するまでは全く私は気を抜けませんでした。なにせ原因もわからないのですから、その方がいつ急変するとも限りません。私に出来ることは正確な「カルテ」を時間とともに書き、その後何が起きても対応できるようにすることだけでした。「何が起きても」とは、その後倒れた方が急変した時の情報提供だけでなく、訴訟などになった時の証拠という意味も含んでいます。私の書いた、ただの私的なメモがどれほど法的に有効かもわかりませんが。

二度目のドクターコールは、数年前にプライベートでヨーロッパに向かうフライト中で、その時も似たような状況でした。倒れたのが外国人の方だったので、下手な英語で問診をし点滴をして幸いすぐに良くなりましたが、私はやはり対応したあと着陸まで緊張状態が続きました。

機上で治せるのか?

医師なら強くご同意いただけると思いますが、乗客の方がなにか致命的なものを発症した場合にははっきり言ってほとんど治せません。もし致死的な状況でも医者がいたらなんとかなるかな、というのは、

・機内食などのアレルギーからアナフィラキシーショックになった場合のアドレナリン投与による救命

・突然の致死性不整脈(VTなど)になった場合の除細動(AED)による救命

くらいではないかと思います。筆者は救急のトレーニング(6年も前ですが)も積み日常的に外科医として働いていますから、一通りの救命行為は可能です。心臓マッサージ・気管内挿管を含む蘇生行為、止血、そして胸腔穿刺など。しかしそれでも、機内で出来ることはかなり限られるでしょう。

医師が急病人に対応する時は、「原因」を考えつつ「生命徴候(バイタルサイン、血圧や心拍数など)を安定させる治療」を並行して行います。ところが機内ではまずこの「原因」を考えるところが極めて困難です。機内には10数種類の薬とともに、いくつかの医療機器(聴診器・血圧計・挿管セット・パルスオキシメーター・AED)がありますがこれらで出来る診断はかなり少なく、「命が危ないかそうでないか」くらいしかわかりません。筆者は1度目のドクターコールに応じた際、「息苦しい」という訴えから緊張性気胸という病気を疑いました。これは肺に穴が開きそのせいで血圧が下がり死亡してしまうもので、もしそれだった場合には大急ぎで胸を少し切ってチューブを胸腔の中に入れる必要があります。しかしそれを診断するための聴診器で胸の音を聞こうと思っても、機内の「ゴー」というエンジン音で全然聞こえません。もちろんレントゲンも撮れません。幸いその方は緊張性気胸ではありませんでしたが、機内での診療にはそんな障害もあるのです。

「原因」がわからず出来ることは、

「血圧が下がったら点滴をする」

「呼吸が止まりそうだったら補助する」

「心臓が止まりそうだったらAEDをつけ、止まったら心臓マッサージをする」

位でしょう。ちなみに飛行機に乗っている医療機器や薬、JALはこちら、ANAはこちらですが概ね同じラインナップです。

責任の所在は?

もし手をあげて急病人の治療に当たり、結果が思わしくなく訴えらえたら----これは医師の視点になりますが、登録者数を増やすという意味では大変重要なものです。医師は一人の客として乗っている時に突然仕事をするわけで、なにも契約のもと給料が出て治療に当たるわけではありません。しかも他にスタッフがいない中、極めて貧弱ないくつかのモニターだけで戦うわけです。この圧倒的に不利な状況であることを考えた上で、各航空会社はどう考えているのでしょうか。

JALは、

賠償責任と保険

機内での医療援助に起因して、医療行為を受けたお客さまに対し民事上の損害賠償責任が生じた場合には、故意、重過失の場合を除き、当社が付保する損害賠償責任保険を適用いたします。援助者が個別に加入されている損害賠償責任保険が適用されるときは、その保険金額を超える部分に当社の保険を適用いたします。

出典:JALホームページ

と明記しています。「重過失の場合を除き」というところが注目ポイントでしょう。

一方ANAは、

実施いただいた医療行為に起因して、医療行為を受けられたお客様に対する損害賠償責任が発生した場合、故意または重過失の場合を除き、ANAが主体となって対応させていただきます。

出典:「ANA Doctor on board」登録のご案内

と、同じく「重過失の場合を除き」という表現に加え、「ANAが主体となって対応」となっています。

筆者には重過失がどんなものかわからないので、知人の法律家に意見を伺うと、「医療過誤による損害賠償訴訟で重過失の有無を判断した判例はおそらく無いのではっきりはしません」とのこと。「重過失」とは保険関連でよく使われる法律用語で、故意に近い行為のことのようですが、判例がないのではわかりません。

ゆったり旅行している最中に善意で仕事をした結果、訴訟で数千万〜数億円の賠償リスクがあり、多くの医師が入っている医師個人の賠償保険(いわゆる医賠責)も適応はされません。正直登録しづらいというのが本音です。

ドクター登録制度のメリットは?

もちろん第一には機内の急病人に対して速やかに医師が対応できるということです。これは大きいですね。

さらには、このシステムにより、乗客が不安感のつのる「急病人が発生しています、医師の方はいらっしゃいませんでしょうか」というアナウンスを聞くことが減ります。さらには、飛行機の中では名乗り出た医師に対して「医師であるという認証」ができませんが、この制度で「機上のニセ医者」を防止することも可能でしょう。ニセ医者のニュースって実は毎年のようにあるんです。

では、このシステムに登録する医師側のメリットは何でしょうか。筆者に聞こえてくる情報として、JALは空港のsakuraラウンジが使えるようになるそうです。一方ANAは特に情報が入ってきていません。ちなみに、ルフトハンザ航空では5,000マイルの付与と、次回使える50ユーロ分のチケットが医師登録でプレゼントされるとホームページに公開しています(詳細はこちら)。

ANAの方に登録してみました

JALに医師であると登録するためは「医師資格証」という電子医師免許証明書が必要になります。この電子医師免許、発行すると日本医師会に所属しなければ有料で毎年6,000円もかかる上に何ヶ月か待つようなので、筆者は登録を見送りました。周りの医師に電子医師免許を持っているという話を聞いたことがなかったので、日本医師会電子認証センターに問い合わせると「8月1日現在で、計6244件の申請が寄せられている現状となっております。」というお返事でした。いま日本に30万人いる医師の中で6千人ですから、普及はまだまだのようです。

そこで、ANAに登録してみました。このANAのページから登録するか、この書類を郵送することで登録ができます。

実際の登録用紙(ANAホームページより)
実際の登録用紙(ANAホームページより)

記入していくと、一つの疑問に当たります。筆者は外科医ですが、選ぶ専門の科の欄に「外科医」がありません。項目は「麻酔科医」「産婦人科医」「一般開業医」「内科医/心臓専門医」「神経科医/精神科医」と、「その他」となるようです。機上で生じる疾患を分類するとこんな項目になるのでしょうが、あまり的確ではありません。というのは、医師が持っている「スキル」とその医師が名乗る「ホニャララ科」が必ずしも一致するわけではないからです。全身管理をしない麻酔科医もいれば、お産をみない産婦人科医もいます。一般開業医(こんな呼び名があるのですね)の医師の中には循環器(心臓)を専門とする医師も頭痛を専門にしている医師もいます。「内科/心臓専門医」ですが、これも不正確の極みです。内科医の全員が心臓を専門的に診られるわけではないですし、これを同じにするのはさすがに無理があります。

これくらいにしておきますが、この欄は「専門の科」だけを記載するのではなく、それに加えて「持つスキル」を選ばせるべきです。例えば「蘇生行為」「AED使用」「挿管」など。

ちなみに登録は簡単で、数分で終わりました。数日後にメールで認証されたという返事が来て、「ご登録いただいた御礼として、お客様のANAマイレージクラブカードに3,000マイルを進呈させていただきました」

とありました。

ANAに電話インタビューしてみました

突然の電話にもかかわらず、丁寧にご対応いただきました。

Q. 登録医師は何人いるのですか?

A. 申し訳ありませんが、現在は公表しておりません。

Q. 医師が機内で診療を行った際、報酬はありますか?

A. 「お礼状など常識の範囲内での対応」とさせていただいております。

Q. なぜ報酬を発表しないのですか?

A. あくまで医師のご厚意、ボランティアとしてのご登録を期待しお願いしております。報酬があるからということでのご登録のお願いという趣旨ではないため、公表はしておりません。

筆者の提言

以上のことから、筆者はこの4点を提言させていただきます。

1、医師に機内で医療行為を行わせるのであれば、まず法的整備をすること

現行法では正直なところ不安で仕方がなく、登録を見合わせるという医師が多いでしょう。医療行為とは極めて不確実な行為で、自然の一部である人体を対象としたものであり、予測のつかないことが日常茶飯事です。それに対して刑事責任を負わせるという姿勢は、かつての大野病院事件(産婦人科医師が逮捕されその後産婦人科医不足に拍車がかかった事件、2年後に無罪が確定)を繰り返すだけでしょう。このような、医療がうまくいかないリスクが高い場面では医療を控えることを「萎縮医療」と言います。飛行機で医者が手を上げないことは、この萎縮医療の典型例です。「人命を救うことを志した医師ならばリスクを取れ」という意見もごもっともですが、医師にも生活があり、家族があることを知って欲しいと思います。医師の善意のみに大きく頼ったシステムは、なかなかうまくいかないでしょう。医師は何も人命救助に興味がないわけではなく、そのあまりに高すぎるリスクのせいで手をあげられないのです。

2、機内に良い超音波の機械を置くこと

仮に心筋梗塞で心臓の動きが極めて悪かった場合、循環器内科医など専門の医師ならば心臓超音波検査で心臓の壁運動を見ることなどにより緊急着陸などの判断がしやすくなると考えられます。

3、相応の報酬を付ける、あるいは付けないことを明言すること

報酬に関しては、JALもANAもごにょごにょしているようでホームページを探した限りでは見つかりません。ですが、ちゃんと明言し公表していただきたいと思います。医師としてではなく旅行者として移動している、あるいは機内でリラックスしている医師に労働をさせるのですから、その労働の対価はあってしかるべきでしょう。これは医師であってもなくても同じこと。例えば「機内の食事が落っこちて全てダメになってしまいました、ごく簡単な調理器具と素材がありますから料理人の方は名乗り出てボランティアで乗客分の食事を調理してください。とても不味かったら訴えられます」と言っているようなものです。

もしくは、「医師には高邁な精神を発揮して欲しい」という考えであれば、「無報酬の完全ボランティアです」と明言し実際にそのようにして欲しいと思います。正直なところ、数千マイル付与やラウンジ利用権などの報酬よりそちらの方が気持ち良く感じます。

なお、1、の法的整備があれば無報酬でも登録する医師は多数いると思います。繰り返しますが、ほとんどの医者は人命を救いたくて医者になったのですから。

4、医師だけでなく、看護師、救急救命士の登録制度も

これも是非前向きに検討していただきたいと思います。

急病人発生時、私が感じたのは「医師一人での対応は人手が足りなさすぎる」ということでした。血圧を測りつつ問診をし、聴診をし、点滴をバッグから探し出し、点滴を吊るす場所を探しセットし、消毒と針を準備して刺し点滴につなぐ、という一連の行為を一人でやったので、10分くらいはかかったでしょうか。大変なタイムロスです。CAさんには点滴の準備はできませんから、バッグを開けて物を探すところから一人でやることになります。

また、急変時には心臓マッサージが必要になります。講習を受けただけの人の心臓マッサージと、救急救命士のプロの心臓マッサージは全くクオリティが違いますし、体力やその他の医療補助行為という点でもぜひ救急救命士の方の登録もしていただきたく思います。ただでさえ医師の多くは過労死レベルの超過勤務をしフラフラの状態で飛行機に乗っているのですから、治療に当たる人が一人でも多い方が良いのは間違いありません。

終わりに

この暑い夏が過ぎると、医者の世界では「学会シーズン」の秋がやってきます。私もANAを利用してヨーロッパの学会に参加する予定ですが、さてどうなることやら・・・。

(謝辞)

急な問い合わせにもかかわらず、誠実にご対応下さいましたANA

Doctor on board登録事務局のスタッフの皆様に深謝申し上げます。

※機内の急病人のエピソードは実際に筆者が遭遇したものですが、個人情報保護のためいくつかのステイタスを架空のものにしています。

※法律解釈の議論になることを避けるため、本記事では「医師の応招義務」と「善きサマリア人の法(Good Samaritan Laws)」については検討していません。

※筆者と各航空会社の間に利害関係はありません。

参考

日本医師会プレスリリース「「医師資格証」を用いた「JAL DOCTOR登録制度」を開始」

http://www.med.or.jp/nichiionline/article/004183.html

外科医師・医学博士・作家

外科医・作家。湘南医療大学保健医療学部臨床教授。公衆衛生学修士、医学博士。1980年生。聖光学院中・高卒後2浪を経て、鹿児島大学医学部卒。都立駒込病院で研修後、大腸外科医師として計10年勤務。2017年2月から福島県高野病院院長、総合南東北病院外科医長、2021年10月から神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院で手術の日々を送る。資格は消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医(大腸)、外科専門医など。モットーは「いつ死んでも後悔するように生きる」。著書は「医者の本音」、小説「泣くな研修医」シリーズなど。Yahoo!ニュース個人では計4回のMost Valuable Article賞を受賞。

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