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天海祐希と久々のタッグ『偽装の夫婦』は人気脚本家・遊川和彦の新境地か?

成馬零一ライター、ドラマ評論家

『偽装の夫婦』で久々のタッグとなる天海祐希と遊川和彦

日本テレビ系夜10時から放送中の『偽装の夫婦』は、天海祐希と沢村一樹が主演のドラマ。脚本は、『家政婦のミタ』(日本テレビ系)や『純と愛』(NHK)で知られるヒットメーカーの遊川和彦。天海祐希とは2007年の『演歌の女王』(日本テレビ系)以来、久々のタッグだ。

図書館司書の嘉門ヒロ(天海祐希)は、大学の時に付き合っていた幼稚園園長代理の陽村超治(沢村一樹)と再会する。理由も言わずに25年前に逃げた超治は実はゲイだったとヒロに告白。そして、病気で余命いくばくもない母親を安心させるために偽装結婚をしてくれと持ち掛ける。

ヒロは冷静沈着を装っているが、心の中では、あらゆることに毒づいている女性だ。

そんなヒロの周りには超治の他にもレズビアンで子連れのシングルマザー・水森しおり(内田有紀)や、宅配の仕事をしていて正義の味方になりたい青年・弟子丸保(工藤阿須加)などといった様々な人が集まっていく。

心を閉ざし、人と関わるのを避けていたヒロだったが、超治に巻き込まれる形で、人と関わるようになっていく。他にもヒロの亡くなった母親の妹にして、育ての母親である

郷田照乃(キムラ緑子)を中心とした郷田家の従妹たちもクセのある人々ばかりなのだが、面白いのは、タイトルにある「偽装」がヒロと超治だけでなく、他のキャラクターにも、かかっていることだ。すでに超治の母親である華苗(富司純子)が病気で余命いくばくというのも、超治がゲイかどうかを確かめるための嘘だったことがわかり、他の登場人物もそれぞれ秘密を抱えていて、先は全く読めない。

だが、ストーリー以上に興味深いのは、ドラマが持つあっけらかんとした明るいムードだ。これは最近の遊川ドラマには、あまりなかったテイストだ。

『女王の教室』からはじまった露悪的な炎上戦略の限界

遊川和彦は80年代後半にデビューして以降、『オヨビでない奴!』や『予備校ブギ』(ともにTBS系)といったコメディタッチの明るいドラマを得意としていた。

大きな転機となったのは2005年に発表した『女王の教室』。本作で遊川は、脚本家としてのスタイルを大きく変えることになる。

『女王の教室』は、虐待すれすれの教育と“この世は弱肉強食だ から負け組になりたくなければ、勉強しろ”という身も蓋もないメッセ―ジを小学生に訴える小学校の女教師・阿久津真矢(天海祐希)と生徒たちの戦いを描いた物語だ。

本作で天海が演じた阿久津真矢のような、心を閉ざして機械的な口調で喋る寡黙な女性ヒロインは『女王の教室』以降の遊川ドラマでは定番のヒロイン像で、ミステリアスな外見や予測不能の行動が大きな話題となった。

つまり、物議を呼ぶような強烈なエピソードとキャラクターを、あえて第一話でぶつけることで、賛否を巻き起こして視聴者の関心を最終話までひっぱるという、現在でいうところの炎上商法的な作風へと変化したのだ。

あれから10年が立ち、遊川の炎上スレスレの手法と強烈なメッセージは極限まで先鋭化されてきた。

しかし、それと引き換えに、大衆向け娯楽作としてのテレビドラマとしては、バランスが大きく崩れはじめていた。特に前作の『○○妻』(日本テレビ系)後半の崩れ方は見ていられないものがあっ た。露悪的な描写とセットで語られる純粋な正義感から発せられるメッセージも説教臭いを通り越して宗教的な領域に接近していて、この方法論で脚本を書いていくと、いずれ作家として破綻するだろうなぁと心配していた。

だからこそ『偽装の夫婦』の変化には驚かされた。

別れた彼氏が実はゲイで、なりゆきから偽装結婚をするという物語や、主人公のこと を好きになるレズビアンのシングルマザーが登場するといった性的マイノリティとのコミュニケーションをコメディで見せるというやり方こそ、相変わらずセンセーショナルだが、過去作にあったギスギスとした露悪性はほとんど見られない。

むしろ同性愛については「それって普通のことでしょ」というようなサラっとした描き方になっている。それでいて必要以上に美化することなく、ポップなコメディに仕上げていて、安心して楽しめる。

ドラマから受ける 印象は、遊川がデビュー当初の『オヨビでない奴!』などにあった、ポップで少し物悲しいコメディドラマに回帰しているようにみえる。

それをもっとも象徴しているのは、沢村一樹が演じる超治だろう。

軽薄だが実は思いやりのある男性主人公も遊川の得意とするキャラクターだ。

最近の作品ではドラマの重たいトーンのせいで脇に置かれていたが、TBSのコメディドラマや『GTO』(フジテレビ系)の鬼塚英吉(反町隆史)の系譜にある、80年代後半から90年代末にかけての遊川ドラマを象徴する男性主人公である。

つまり、『偽装の夫婦』は、初期の遊川作品の明るい主人公と『女王の教室』以降の機械的なヒロインが夫婦生活を送ることで、新旧の遊川ドラマが融合していると言え、遊川の新境地であると同時に ある種の原点回帰となるドラマなのだ。

露悪的炎上商法の限界と、そこからの脱却

それにしても、遊川は何故、ここに来て作風を変えたのだろうか? 

『純と愛』、『○○妻』と、視聴者の激しい批判にさらされたことで、作風を軌道修正したということは当然考えられるが、それ以上に思うのは、誰よりも早く(それこそネットで炎上という言葉が流行る前から)炎上的な手法を用いてきた遊川だからこそ、ネットを中心とした炎上商法を見ていて、炎上を推進力とする物語の限界に気づいたのかもしれない。

先に言及した『女王の教室』は、序盤こそ虐待スレスレの教育場面が物議を醸しだしたが、物語が後半になるにつれ、謎の女教師の正体が明らかになり、実は、子ども達に強くなってほしいという思いから、あえて厳しい教育をすることで子どもたちの壁として立ちはだかっていたことが最後に判明する。

だからこそ、最初は激しい抗議があったとしても最終的には多くの視聴者を感動させることに成功した。

しかし、これは連続ドラマとしての『女王の教室』に視聴者が最終話まで付き合ってくれたからこそ成立することだ。一話で見るのを辞めた人にとっては、本作は女教師が小学生を虐待するドラマでしかない。

あるいは、例えば第一話で強烈な反社会的なメッセージを仕組んだ時に、今の視聴者はそれを、のちにひっくり返すための逆説的なものとして受け取らずに、額面通りに受けとってしまうことが多くなってきているのかもしれない。

これはネットも含めた他の媒体を見ていても感じることだが、悪意のある表現が持つアイロニー(皮肉)は、共通認識を持った受け手がいて、はじめて成立するものだ。

しかし今、テレビにおける受け手と送り手が同じ価値観を共有していたが故に成立した豊かな表現を許容する余裕は、急速に失われつつある。

もしも、遊川が、今までの手法で『偽装の夫婦』を展開するならば、同性愛者に対する差別的な発言をする人間を登場させたり、逆に過剰に同性愛者を差別的に描き、最終話に向かう中で、そういった偏見をひっくり返すという物語を描いたのかもしれない。

しかし、それをやれば、額面どおりに受け取り、差別的なドラマとレッテルを張られていただろう。何よりメッセージとしても浅いものにしかならない。

そんな状況下で、本作が選んだもっともシンプルな選択は、同性愛も40歳以上の男女が初婚であるといったことも、シングルマザーも、私たちの世界では当たり前のことであって、別におかしなことではない。ということを丁寧なやりとりで見せていくことだ。

むしろ本作で一番、心が病んでいるように見えるのは、表向きはにこやかに笑いながら、あらゆるものに心の中で毒づいていているヒロの不健康な内面だったりする。

ヒロを見ていると、何でも批判的に突っ込みを入れるクレーマー気質、それ自体を茶化しているのではないかと思えてくる。

一方、劇中には正義の味方に憧れる弟子丸保という青年が登場する。遊川作品にはよく登場する正しいことをしたいと願う純粋な心の持ち主だが、彼の正義感と、世の中のあらゆるものに毒づくクレーマー体質は実は表裏一体である。

そのため、遊川作品の主人公は純粋な心で社会に異議申し立てをしていけばするほど、周囲から鬱陶しがられて周囲から孤立していくのだが、本作では一人の人間に背負わせていた要素をヒロと保に分離させており、そのことによって保つの正義感は若さゆえの純粋さとして、距離を置いてみれるようになっている。

こういった細かい微調整が本作からはうかがえる。

その結果、メッセージそのものも前向きだが、その提示方法も、実にナチュラルかつ全うなものへと変化したと言える。

とはいえ、何が起こるかわからないのが遊川ドラマである。

ヒロの従姉弟たち郷田家の描写などは『家政婦のミタ』以降、執拗に描いている殺伐とした家族であり、本作に不穏な影を落としている。もしかしたら、今のトーンをすべてひっくり返してバッドエンドを向かえる可能性もゼロではないかもしれない。

そんな先の読めない展開も含めて、続きが気になるドラマだ。

ライター、ドラマ評論家

1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて幅広く執筆。単著に「TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!」(宝島社新書)、「キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家」(河出書房新社)がある。サイゾーウーマン、リアルサウンド、LoGIRLなどのWEBサイトでドラマ評を連載中。

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