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ヒトラーの毒味役だった独女性の証言・ 死と背中合わせの料理に震えた!

シュピッツナーゲル典子在独ジャーナリスト

ヒトラーがベジタリアンだったという説は、以前からあったようだ。

それを裏付ける事実を語り始めた一人のドイツ人女性がいる。

ヒトラーの毒味役として、死の恐怖に震撼し続けたマルゴット・ヴェルクさん(95)だ。

ヒトラーはベジタリアンでした

料理はどれも美味でした。アスパラガス、エキゾチックな果物、本物のバターやコーヒー、新鮮な野菜も豊富に使われた料理で、一般庶民が口にすることの出来ない食材を口にすることが出来たのです。しかしその味を満喫することはできませんでした。一口飲み込むごとに、これが最後になるかもしれないと震えていました・・・マルゴットさんは当時を振り返り、話し始めた。

豪華な料理をヒトラーが食する前に、毒味をするのがマルゴットさんはじめ合計15人、皆20代の若い女性だった。2年半、どんな思いでこの役目を務めたのか、マルゴットさんの証言は続く。

それは1941年冬のこと。マルゴットさん(24)は、ベルリン・シュマルゲンドルフに両親と一緒に生活していた。その実家が爆弾で破壊されてしまったため、マルゴットさんはオストプロイセン(東プロイセン・現在、その大部分はポーランドとロシア、北端の一部がリトアニアの統治下)にあった夫の両親の家へ避難した。

1933年に結婚した夫カールは、軍人として召集されたため、爆弾が落ちた時には不在だった。夫の両親宅へ逃げ込むしか選択肢がなかった。この義父母家の所在地がマルゴットさんのその後の人生を大きく変えるとは、夢にも思っていなったと振り返る。

義父母の家からわずか2,5キロほど離れた場所にヒトラーの総統大本営ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)があったことを知ったのは、引越し後のことだった。その街の市長もナチだったそうだ。

やっと義父母の家に落ち着いたと思った矢先、目の前にSS(ナチス親衛隊・Schutzstaffel)が現れた。

「一緒に来い!」とSSにいわれ、マルゴットさんはついていくしかなかった。

彼女が到着したのは、ナチス大本営近くにあるバラック小屋だった。この小屋の2階(日本式だと3階)に、ヒトラーの食する料理を調理するキッチンがあった。

マルゴットさんは、このキッチンで毒味役として働くことになったのだ。その当時、連合軍がヒトラーを毒殺するという噂が立っていたため、毒味役が必要だった。

「肉を使った料理はありませんでした。ヒトラーはベジタリアンでした」と、マルゴットさん。

「料理は美味しかった、というか、本当に絶品でした。でも、それを満喫することはできなかった・・・」

料理を口にするたびに死ぬかもしれないと恐怖に慄いていた。毒味後、その料理が安全とわかると、SSはヒトラーの待つ本営に運び込んでいたという。

毒味役を言いつかった女性たちは、それぞれ自宅で過ごし、毒味が必要な時に召集されたそうだ。

毎朝8時になると、義父母家の前にSSが現れ、叫んだ。「マルゴット、起きろ!」。そしてSSは、マルゴットさんをキッチンへ連れて行った。

毒味をしたのは、ヒトラーが大本営ヴォルフスシャンツェに滞在していた時だけだった。毒味役として仕えた2年半の間、マルゴットさんはヒトラーを一度も見たことがなかったという。

シュタウフェンベルクの暗殺計画ですべてが変わった

1944年、ドイツ陸軍の国内予備軍参謀長シュタウフェンベルクは、ヒトラー暗殺計画を目論み、総統大本営ヴォルフスシャンツェに時限爆弾を落とした。

「ヒトラーが死んだ!」と誰かが叫んだ。だが、ヒトラーは、軽症を負っただけで生き延びた。

この暗殺計画により、大本営周辺の警備が一段と強化された。毒味役だった女性たちも自宅から通うことは禁止され、大本営近くの旧学校校舎で生活をすることになった。

まるで、檻に閉じ込められた動物のようだった、と淡々と語るマルゴットさん。

ある晩、生涯忘れることのできない事件が起きた。はしごをよじ登って一人のSSが、旧学校校舎内のマルゴットさんの部屋に忍び込んできたのだ。そしてマルゴットさんを強姦した。

「あの時ほど、無力に感じたことはなかった・・・・」と、マルゴットさんの声に戦慄が走る。

後日、ソビエト赤軍がナチ大本営から数キロ離れた場所にやってきたことがわかると、ある中尉が毒味役の女性たちに、「逃げろ!」といって、彼女たちを解放した。マルゴットさんは、この中尉のおかげで命拾いをしたことに感謝している。

戦争終了後、ベルリンで偶然その中尉に遭遇した。彼は、毒味役の女性たちはロシア兵隊に全員銃殺されたらしいと語った。

マルゴットさんは、ある医師宅の地下に隠れ、生活を始めた。折しも、逃亡者を抹殺するためSSがその医師宅へ押し入って来た。だが、この時も運よく、マルゴットさんはその場を逃れて命拾いをした。 

赤軍がベルリンにやって来た

実家のあったシュマルゲンドルフにマルゴットさんが戻ると、ベルリンにやってきた赤軍ロシア兵に腕をつかまれた。そして2週間にも及び、そのロシア兵はマルゴットさんを強姦し続けた。兵士の暴行と残忍な行為により、マルゴットさんは子どもを産めない身体となってしまった。

「あの時、本当にどうしたらいいかわからなかった。命を絶とうと思った」と、声を震わせるマルゴットさん。

1946年、夫カールさんに再会した時から、またマルゴットさんに希望と生きる力がよみがえった。

戦場での辛辣な体験と拘留期間を過ごした夫は、その壮絶な体験を少しづつ妻マルゴットさんに語り始めたという。その後、二人は34年間楽しい夫婦生活を過ごしたそうだ。

「ユーモアは忘れていませんよ」

生死を賭けたすざましい人生を過ごしてきたにも関わらず、マルゴットさんは、いつも陽気に過ごし笑顔を忘れないよう心がけているそうだ。過去は過去、事実として受け止めて、あまりドラマチックに考えないことがマルゴットさんの生きる術だという。

マルゴットさんは、これまで一度も暗い過去を話すことはなかった。自分の恥部をさらけ出すことに抵抗を感じていたからだ。

今回、自身の過去を話すきっかけとなったのは、95歳になったマルゴットさんの自宅へ、地方紙ジャーナリストが祝福のためインタビューに訪れた時だ。これを機会に、マルゴットさんはかっての体験を明かすことにした。

「私はただ過去を話しただけです。ヒトラーは本当に残虐だった」

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このインタビューは、昨年末、ベルリン西部のシュマルゲンドルフのマルゴットさん宅で行われました。現在住んでいるこの家は、彼女の実家です。つまり95年前、彼女が生まれた場所・部屋で今マルゴットさんは生活しています。

さて、ドイツをもっと知りたいあなたへ!

ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、ヒトラーはブラウナウ生まれのオーストリア人です。

ヴィキぺディアによれば、オーストリアはドイツ民族の一部と見なされていた為、ヒトラーもドイツ人とされていたようです。また、3歳の時、家族とドイツ南部のパッサウに引越しした、後にドイツ人に帰化した、というような説もあるようです。

ドイツに滞在後、ウィーンに戻ったヒトラーは、受験には失敗したのですが、ウィーン美術アカデミーで勉学したかったようです。

もし、ウィーン美術アカデミーの入学が許されていたなら、ヒトラーはウィーンに滞在したでしょう。そうすれば、歴史は全く違ったものになっていたかもしれません。

在独ジャーナリスト

ビジネス、社会・医療・教育・書籍業界・文化や旅をテーマに欧州の情報を発信中。TV 番組制作や独市場調査のリサーチ・コーディネート、展覧会や都市計画視察の企画及び通訳を手がける。ドイツ文化事典(丸善出版)国際ジャーナリスト連盟会員

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