Yahoo!ニュース

荒川放水路を作った青山士が作ったパナマ運河を徳島丸が最初に通過

饒村曜気象予報士
徳島丸の海上気象報告(大正3年12月11~15日)

今から93年前の大正13年(1924年)10月12日、皇太子殿下(昭和天皇)をお迎えして荒川放水路の通水式が盛大に行われています。この荒川放水路建設の責任者が青山士(あおやまあきら)、日本で唯一、パナマ運河建設に貢献した人です。

パナマ運河の水門の重要部分を設計

パナマ運河の建設は、太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカが強力に推進したもので、工事開始は明治36年(1903年)です。東京帝国大学工学部卒業後に単身渡米した青山士は、明治37年にパナマ運河工事委員会に採用され、勤勉さと手腕から次第に重用され、パナマ運河の要であるガツン閘門(こうもん)の重要部分の設計を担当しています。閘門は、開け閉めすることで水位を上下動させる(調節する)水門のことで、船を大西洋から海抜26メートルの高さにあるガツン湖まで上昇させる仕組みです。これがないとパナマ運河を船が通行することはできません。

しかし、パナマ運河が完成する前に辞表を出して帰国しています。日露戦争に日本が勝利したため、アメリカで日本人への警戒が強まってスパイ容疑がかけられたりしたことなどが原因とされています。青山士は、その後、内務省に技師として採用され、大正2年(1913年)から本格的に始まった荒川放水路の建設工事を指揮しています。

赤水門と青水門

関東の荒川下流域は、大雨や台風などで大規模な水害が繰り返し発生してきました。明治維新以降、東京が郊外へと発展し、荒川下流域にも多くの人が住むようになり、大災害が問題になってきました。なかでも、明治43年(1910年)8月は、5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめた台風と、14日に東海地方に上陸した台風が重なったことで、大水害が発生しています。関東の主要河川が軒並み氾濫して800人以上が死亡し、浸水家屋27万戸、被災者50万人という大災害が発生しました。

図1 明治43年8月の未曾有大洪水(浅草厩橋通り、当時の「写真はがき」より)
図1 明治43年8月の未曾有大洪水(浅草厩橋通り、当時の「写真はがき」より)

この大災害をうけて作られたのが全長22 km、幅約500 mの荒川放水路です。荒川の本流に水門(通称:赤水門)を建設し、本流の流れを新しく作った水路(荒川放水路)に流そうというものでした。荒川放水路の通水式以降も関連作業が行われ、完成したのは昭和5年のことです。

大正6年(1917年)9月30日の台風での記録的な高潮被害、大正12年9月1日の関東大震災による堤防亀裂など、幾多の困難が重なったからで、工事期間は予定の10年を大幅に超える17年、工事費は1200万円の予定が2.5倍の3200万円となっています。

しかし、荒川下流はより安全となって居住人口が大幅に増え、また、水運の便が良くなって東京の経済発展に大きく寄与しています。昭和7年の市区改正では、それまでの東京市(江戸時代の「江戸」とほぼ同じ範囲)から、現在の23区の範囲にまで東京が広がっていますが、拡大した東京の足立、葛飾、江戸川区といった荒川流域の人口は、昭和5年の130万人から、現在は1000万人を超えています。

その後の荒川放水路

その後、昭和39年に河川法が改正され、荒川放水路は荒川に、赤水門から下流の東京湾までは隅田川と名称変更となっています。

また、青山士が作った赤水門は、老朽化したことや、もっと大きな洪水に対応するために昭和57年に新しい水門(通称:青水門)が赤水門の少し下流につくられたことから、その役目を終えています。

しかし、内村鑑三に感化されてキリスト教徒となり、子孫のためになる仕事として大規模な土木事業を志し、帝国大学に入学した青山士の治水対策は、現在でも東京を水害から守っていることにかわりはありません。

パナマ運河を最初に通過した徳島丸

大正2年(1913年)12月にイギリスで竣工した日本郵船の徳島丸(全長129m、全幅17m)は、欧州航路に就航していましたが、大正3年7月に第一次世界大戦が始まると、ロンドンからインド経由で日本へもどれなくなってしまいます。

このため、ロンドンから西へ進み、この年の8月15日に開通したばかりのパナマ運河を西から東へ通って、日本に戻ったことで、徳島丸は、日本船として初めてパナマ運河を通過した船であると同時に、日本郵船の世界一周航路の最初の船になっています。

図2 パナマ運河を最初に通過した徳島丸の海上気象報告(部分)
図2 パナマ運河を最初に通過した徳島丸の海上気象報告(部分)
図3 パナマ運河の拡大図
図3 パナマ運河の拡大図

間違いやすいクイズ:パナマ運河を東に向かったときに出る海は

大西洋と太平洋を結ぶ中米のパナマ運河は、東西に延びる運河で、運河の東に大西洋、西に太平洋があるというイメージがあります。しかし、正確にはアメリカ大陸を南北に延びる運河です。

しかも、パナマ運河の太平洋の出口の経度は、大西洋の出口の経度より若干東にありますので、間違いやすいクイズですが、パナマ運河を東に向かったときに出る海は太平洋になります。

対馬丸など悲劇のT型貨物船

パナマ運河を最初に通過した徳島丸は、日本郵船が貨物船の性能と経済性を研究するために英国から購入した船で、以後、英国のラッセル造船所、長崎の三菱造船所、神戸の川崎造船所などで次々に同型船が作られています。対馬丸、高田丸、豊岡丸、富山丸、豊橋丸、徳山丸、常磐丸、敦賀丸、津山丸など、これらの船の頭文字がすべて「T」であったため、T型貨物船と呼ばれています。昭和初期の日本の海運を支えたT型貨物船は、太平洋戦争に徴収され、速度が遅いこともあってアメリカ海軍の潜水艦に次々に沈められています。昭和19年8月22日には学童疎開船であった「対馬丸」が潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1,476名を出したことから悲劇の船とされていますが、徳島丸も陸軍に徴用され、クローム鉱石を積んでフィリピンのマニラから台湾の高雄まで航行中の昭和19年9月16日、台湾の南で潜水艦の雷撃で沈没、182名が亡くなっています。

神戸コレクションにある徳島丸の観測報告

日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクション(神戸コレクション)には、1914年から1940年まで(欠けている年がある)の徳島丸の海上気象報告が含まれています。パナマ運河通過前のものは残されていませんが、パナマ運河を通過して太平洋にでた直後の12月11日午前10時には、北緯7度10分、西経80度48分にあって、北西の風で風力は3、気温は華氏80度(摂氏26.7度)、気圧は29.67インチ水銀柱(1005ヘクトパスカル)、天気は晴れなど、横浜にもどるまでの期間、1日6回(2時、6時、10時、14時、18時、22時)の海上気象観測が残されています。

そして、これらの記録は、地球温暖化の研究に役立っています。 

参考:荒川の概要と歴史(国土交通省荒川下流事務所)

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

饒村曜の最近の記事