戦前の流氷観測資料がほとんど残っていない理由
2月22日に北海道の網走市で「流氷接岸初日」となり、オホーツク海側ではようやく本格的な流氷観光シーズンを迎えました。北半球で一番南にあり、しかも、都市での流氷は、大きな観光資源となっており、東南アジアなどの温かい国の人々にとっては、特に人気スポットです。
しかし、流氷は直接大きな災害をもたらすだけでなく、大気に影響をあたえて気候が変わりますので、昔から流氷の観測は重要でした。
北海道の代表的な空港である女満別気象台空港は、昭和38年4月15日から民間空港として再出発していますが、もともとは、昭和10年に作られた女満別中央気象台空港です。
しかし、昭和10年から女満別空港を使って始まった飛行機による流氷観測については、その観測資料がほとんど残っていません。
もともと秘密資料扱いで多くは作られなかったことに加え、火災と戦災により多くの資料が焼失したからです。
雪面からの離発着
静岡県の中央気象台三保出張所の飛行機を使って昭和10年3月11日から始まった飛行機による流水観測は、何とか年度内に流氷観測を行ってみる程度のものでした。
翌11年以降は、流氷シーズンになると三保出張所から飛行機が女満別気象台空港に送られ(最初は陸送)、流氷分布観測と航空写真撮影が続けられています。また、11年以降の観測機は、飛行機の車輪をソリに変え、雪面からの離発着ができるように改良されています。
昭和12年からは流水観測機として軽快な運動陸能を持つ3式艦上戦闘機が使用されていますが、この機は運動生を重視したため、不時着水の対策が施されていない、エンジントラブルがそのまま致命的なものでした(表)。
年度をまたいでの流氷観測の予算
昭和12年は流水の接近が遅く、3月末になっても流水が南下して来ませんでした。三保出張所長の根岸錦蔵は、新年度になったので戻れと言う中央気象台長・岡田武松の命令を無視、4月10日に知床半島の北100キロメートル流氷が接近したのを確認してから東京に戻っています。このとき、根岸錦蔵は、「俺は予算のために飛んでいるのではない。大勢の百姓のために飛んでいるのだ。氷には予算年度がない」と、岡田台長の胸倉をつかんで殴りかかったという逸話が残されています。
この熱意を受け、岡田台長は文部省や大蔵省と折衝し、翌年からは、流氷観測に限り、予算の越年が認められています。
流氷観測の結果は極秘扱い
昭和12年になると、流氷観測の結果を部外に発表することになりましたが、当時は米の取引所があったために、米相場に影響かあり、悪用される恐れがあるとして流氷観測の資料は極秘扱いとなり、中央気象台長に直接提出となっています。
このため、流氷の観測資料は多くは作られておらず、その中央気象台も昭和15年6月20日の落雷による大火や、昭和20年2月26日の東京空襲による大火で焼けています。
昭和29年6月に函館海洋気象台(現在の函館地方気象台)が当時残っていた資料を可能な限り集めて作った「流氷図」くらいしか資料は残っていません。
この流氷図に記載されている観測は、昭和12年から19年まで、延べ62回の流水観測です。
昭和17年になると89式艦上攻撃機とこれまでの飛行機に比べ、航続距離の長い飛行機が使われています。これは、太平洋戦争が始まり、北海道東部から千島方面の霧の観測も合わせて行うことになったためです。
昭和18年からは、朝日新聞社が供与した鵬型通信連絡機(93式双発軽爆撃機の改良型)を、乗員5名に改造して使っています(もともとは乗員3名)。また、昭和18年には中央気象台空港から海軍美幌航空隊第2基地となっています。
このように、流氷観測機は払い下げの廃棄寸前のボロボロのものを使用していたためか、機種はしょっちゅう変わっています。
最後の中央気象台の流氷観測
大雪でも翼の幅だけ除雪ができれば離陸したという根岸錦蔵の卓越した操縦の腕に加え、安全に雪面に着陸するため雪面に長時間人が立って目印となっていたなどチームワークも良く、大きな事故も無く流水観測は継続されてきました。
しかし,昭和19年5月7日、流氷観測から帰ってきた観測機は、着陸寸前に横風を受けて飛行場に墜落して大破しています。根岸錦蔵が衝突直前にエンジンを切るなどの緊急操作で乗員は軽傷をおっただけでしたが、この日が中央気象台による10年間の流氷観測の最後の日になっています(図)。
現在は陸上自衛隊と海上自衛隊、 海上保安庁が飛行機による観測を行い、観光や防災のために使われています。
人工衛星による海氷観測の技術が進歩しているといっても、雲の影響を受けない低い高度の観測である飛行機による海氷観測は、極めて精度の高い情報が得られることから重要な観測です。
図表の出典:饒村曜(2002)、多くの善意で始まった飛行機による流氷観測、海の気象、海洋気象学会。