Yahoo!ニュース

10月も台風シーズン 東京湾の高潮と消えた塩田

饒村曜気象予報士
salt field(写真:アフロ)

台風シーズンというと8~9月を思い浮かべます。台風の発生数、上陸数ともに多いのが8月で、次いで9月ですが、10月に上陸して大きな被害を出した台風も少なくありません。

10月も台風シーズンです。引き続き台風に警戒が必要な月です。

現在、台風18号が日本の南海上を北西進していますが、来週は向きを北東に変えて日本接近、上陸の可能性もありますので台風情報に注意が必要で、接近してきたら警戒が必要です。

大正6年10月には、東京湾のすぐ西に台風が上陸して大きな高潮が発生し、東京湾の塩田が消えています。

東京湾の塩田

東京都に隣接する千葉県の行徳、谷津、津田沼というと、商業施設などの多くの高層ビルが林立し、多くの人が住んでいますが、ここには、大正時代まで塩田がありました。

塩田は、江戸時代に行徳から隅田川まで塩の路として小名木川が開削されたといわれる程、盛んでした。大消費地の江戸に隣接しているからです。

大正時代になり、他の地方の安い塩の流入によって衰退の傾向があるとはいえ、この一帯でも塩が作られていました。

しかし、大正6年10月1日に東京湾を襲った台風による高潮は、東京湾沿岸の製塩業に壊滅的な打撃を与えています(図1)。塩田関係者は、各浜毎に製塩所を一ケ所に統一して、資本の共同や器具機械を節約すること、低利資金を融通することを要求していますが、結局は、その後塩田は姿を消しています。

図1 大正6年10月1日6時の地上天気図と台風の経路(○印は6時の位置)
図1 大正6年10月1日6時の地上天気図と台風の経路(○印は6時の位置)

湾の奥で遠浅の海岸という立地条件は、製塩業に都合の良い条件であると同時に、高潮によって大きな被害を受け易いという条件でもあります。

京成電鉄は、大正10年に船橋・千葉間に路線を延長し、谷津海岸駅を設置したのを契機に、台風以後放置された90万平方メートルの塩田跡地を買収し、大正14年に日本で4番目の遊園地を建設しています。これが、昭和58年に幕を閉じた「京成谷津遊園地」です。

塩は昔から格好の課税物件で、財政収入の確保をはかるものでした。国による塩の専売制度が実施されたのは明治38年 (1905年)のことで、日露戦争の戦費調達が目的でした(財政専売)。それが、大正7年(1917年)頃になると、第1次大戦後の物価騰貴による,塩の買上価格の上昇などにより、専売収入が激減し、専売制度が見直されています。つまり、塩は国民生活の必需品であることから、消費者価格の安定などのための専売 (公益専売)に模様替えをしています。

つまり、大正6年の高潮被害は、このような切り換えの時期における被害です。

台風被害のあと、直ちに塩田が復旧しなかったのは、あるいは、この被害が切り換えを促進する一つの要因だったのかもしれません。

台風の被害

この台風による被害は、東京湾の高潮や大阪・淀川の大洪水など、全国で死者・行方不明者1324名以上、全壊・流失3万9000戸などでした。また、この時の被害の影響は、翌7年7月の米価暴騰と、その後富山県で始まった米騒動(1道3府県に波及し参加者79万人)にも及んでいるといわれています。

大正6年の東京湾の高潮

大正6年9月28日に沖縄本島付近にあった台風は、加速しながら北東に進み、10月1日に東京湾のすぐ西を通過しています。10月1日は、満月(月齢14・7)で大潮であり、しかも東京湾では満潮時刻が5 時21分(霊岸島における潮時)であったために、図2のような高潮が起きています。

図2 千葉県浦安の検潮記録(1917年9月30日~10月1日)
図2 千葉県浦安の検潮記録(1917年9月30日~10月1日)

東京が最低気圧953ヘクトパスカルを観測した3時30分ころから水位がさらに上昇し、5時頃最高水位に達しています。これは、急激な水位の上昇に、約1時間半の周期を持つ東京湾の固有振動が重なったものといわれています。

そして、沿岸部では激甚被害が発生しました(図3)。

図3 高潮による被害地域
図3 高潮による被害地域

台風前日の岡田中央気象台長の記者会見

台風襲来の前日、9月30日は、午後から雨が時々降っていたものの、蒸し暑さもないなど、台風襲来の前兆らしきものは感じられず、気象台から警報が出されていても,まさかと思った人も多かったといわれています(図4)。

図4 大正6年9月30日から10月1日のから東京の気温と気圧変化及び毎時降水量
図4 大正6年9月30日から10月1日のから東京の気温と気圧変化及び毎時降水量

「天気と気候」という雑誌に、中央気象台の藤原咲平はこの時の様子を、「新聞記者諸君が気象台に呼ばれ、岡田先生から今晩夜半過ぎから大台風の襲来があるからと申し渡されましたが、この時まだ星空がきらきらして居りましたので、新聞記者諸君は半信半疑で社に帰られました」と記しています。

しかし、台風の接近を予想した気象台であっても、このような大惨事になるとは、とても予想できませんでした。

図の出典:饒村曜(1993)、続・台風物語、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

饒村曜の最近の記事