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安政南海地震の教訓 稲むらの火の浜口儀兵衛が作った広村堤防と近くにある津波心得の碑

饒村曜気象予報士
和歌山県湯浅町・深専寺の石碑の読み下し文

安政南海地震と稲むらの火

紀州広村(現在の和歌山県広川町)から関東に進出し、銚子で醤油を作っで江戸で売りさばくことによって財をなした浜口家をついだ浜口儀兵衛は、162年前の12月24日(嘉永7年11月5日)に発生した安政南海地震に遭遇しています。

正月を故郷で過ごそうと帰郷中の浜口儀兵衛は、津波が村を襲ったとき、稲むらに火を放って漂流者に安全な場所を知らせることで多くの人命を救っています。浜口儀兵衛が35 才のときです。

そして、再来するであろう津波に備えて、巨額の私財を投じ、高さ5m、幅600m の堤防を作っています。4年間にわたる土木工事の間、村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます(図1)。

図1 広村堤防
図1 広村堤防

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、当時センセーションをおこしていた明治三陸沖地震津波 (明治29 年6 月15 日の地震津波で死者約2 万2 千人)の惨状の話と、浜口儀兵衛の話を組み合わせて 「A Living God (生き神様)」を書いています。

これを読んで感動した和歌山県の小学校教員・中井常蔵は、「稲むらの火」を書いて文部省 の教材公募に応募、こうして戦前の尋常小学校国語読本には8頁にわたって「稲むらの火」が載っています。主人公を老人にしている点など実話とは違っている点がいくつかありますが、すぐれた防災教育が行われていたということにはかわりがありません。そして、儀平衛の作った広村堤防は、安政南海地震から92 年後の昭和21年12 月21 日に発生した昭和南海地震の津波から、村の居留地区の大部分を救っています。

また、平成14年12月のスマトラ沖地震津波をきっかけとして、各国で 「稲むらの火」が高い評価を受けています。

図2 深専寺の入口
図2 深専寺の入口

深専寺の石碑

優れた日頃の防災活動が残っているのは広村だけではありません。

例えば、広川町と隣接ずる湯浅町の深専寺の山門入りロには 「大地震津なミ心え之記」と書かれた石碑(津波心得の碑)があります(図2)。

これは、安政南海地震発生2年後に作られたものですが、単なる記念碑ではなく、人目につくところにおかれている事実上のハザードマップです(図3)。

図3 津波心得の碑
図3 津波心得の碑

碑文には、安政地震の津波被害の惨状が記され、150 年前の宝永4 年の地震による津波の教訓が生きていなかったことをなげき、最後に、次のように、地震がおきたらどう行動するかが刻まれています。

昔よりつたへいふ井戸の水のへりあるひハにごれハ津波布有へき印なりといへれどこの折には井の水乃へりもにごりもせざりしさすれハ井水の増減によらずこの後満一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず浜辺川筋へ逃ゆかず深専寺前を東へ通り天神神山へ立のくべし

(意訳:地震がおきたら、過去の経験にとらわれず、まず津波がくると考え、火事を出さないように火の始末をして、この門の前を通ってすぐ東にある天神山という高台に逃げよ。けっして海辺や川筋にはゆくな。)

追記(12月24日13時):

'''地震津波が発生すると、川沿いに津波が押し寄せ、かなり高い場所まで津波が到達します。

「海辺にゆくな」ということは多くの人が意識していますが、「津波心得の碑」で記載しているように、海辺と同時に「川辺にゆくな」ということも重要です。川辺でも多くの人が亡くなっています。

'''

タイトル画像と図は、いずれも、著者撮影。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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