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90年前の海難から生まれた帆船「日本丸」と帆船「海王丸」

饒村曜気象予報士
日本丸(ペイレスイメージズ/アフロ)

霧島丸の海難

今から90年前の3月9日、伊豆の下田港を出港して銚子沖を航行中の鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸(999トン)」が暴風雨で沈没し、教職員、乗務員、生徒あわせて53名が亡くなっています。

日本海に中心気圧が752ミリ水銀柱(1003ヘクトパスカル)の発達中の低気圧があり、関東地方には風が急変する不連続線が解析されています。

当時は、気圧はミリ水銀柱単位で測定し、前線という概念がないのですが、当時の天気図から銚子沖では温暖前線が通過して風が急変し、強い南風が吹くという、海難が起きやすい状態でした(図1)。

図1 地上天気図(昭和2年3月9日6時、中央気象台作成の印刷天気図の一部)
図1 地上天気図(昭和2年3月9日6時、中央気象台作成の印刷天気図の一部)

また、全国各地(陸上)に暴風警報が発表されていましたが、海上にいた小型船の霧島丸には届いていなかったいと思います。

図2 当時発表されていた暴風警報
図2 当時発表されていた暴風警報

この海難は、海運関係者、教育関係者に大きなショックを与えています。

当時、船員の養成機関としては、高等教育として東京高等商船学校と神戸高等商船学校、中等教育が函館(北海道)、富山、鳥羽(三重)、隠岐(島根)、児島(岡山)、広島、大島(山口)、粟島(香川)、弓削(愛媛)、佐賀、鹿児島の各商船学校で行われていました。

しかし、十分な設備・大きさでないにしても、まがりなりに専用の練習船を持っているのは、東京、神戸、函館、広島、鹿児島だけでした。

民間商船に依頼して学生を分乗させて実習を行うなど、苦労していたやさき、数少ない練習船の海難でした。

このため、公立商船学校共有の大型訓練船2隻を作ることが急遽決まりました。

この大型訓練船はディーゼルエンジンを積んでいますが、4本マストに29枚の帆を張ると、帆船として動くことができました。風や並の影響をもろに受ける帆船は、船員の教育効果が高いと考えたからと思いますし、実際に多くの船員を育てています。

2隻の大型訓練船の建造費

大型訓練船の建造費は、2隻で182万円でした。

現在と貨幣価値が全く違いますが、当時の国家予算は軍事費・国債を除くと8億7000万円でしたので、2隻の建造費は0.2パーセントにあたります。

現在の国家予算は、国債と防衛費を除くと70兆円くらいですので、その0.2パーセントというと1400億円という、かなりの額になります。

それだけ、海難の衝撃は大きく、日本の将来のためには船員の養成が重要と考えられたのです。

「日本丸」と「海王丸」

昭和5年1月27日に「日本丸(2278トン、全長97メートル)」が、同年2月14日に「海王丸(2238トン、全長97メートル)」が、ともに神戸にある川崎造船所で進水しています。

帆を張ったときの美しさから、「太平洋の白鳥」とか「海の貴婦人」などと呼ばれながら、船員を育てています。

日本丸は昭和59年に引退して横浜港に保存されるまで、地球を45周半(183万キロメートル)航海し、1万1500名の実習生を育てています。

また、海王丸は、平成元年に引退して富山新港に保存されるまで、地球を50周(196万キロメートル)航海し、1万1190名の実習生を育てています。

つまり、2隻で約2万3000名の海の男を育てたのです。

そして現在は、日本丸(二世)、海王丸(二世)が、船員養成の任を引き継いでいます。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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