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セラピスト兼公認会計士、引き寄せの力で活躍するまで

坂口孝則コメンテーター。調達コンサル、サプライチェーン講師、講演家
日本の女性はもっと自由を手に入れていい(写真:アフロ)

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載

このところ、第二次、第三次の起業ブームが起きています。個人がサラリーパーソンから独立し、士業やコンサルタント、また個人事業主として食っていくとき、どのような困難が待ち受けているのか。私は一人の独立した人間として、他の先人たちに興味を持ちました。彼らはどのように独立して、食えるにいたったのか。それはきっと起業予備軍にも役立つに違いありません。さきほど、「第三次の起業ブーム」と入力しようとしたら、「大惨事」と変換されました。まさに大惨事にならない起業の秘訣とは。公認会計士の松田眞理さんにお話を聞きました。

――おちこぼれからの出発とお聞きしたのですが、子どもの頃のお話しからぜひお聞かせください。

はい、私の出発点はおちこぼれからでした。厳格な両親のもと、4人兄弟の末っ子として生まれた私は、小学生の時には、自分がおちこぼれであることを自覚させられました。親の方針で小学4年生の後半から中学受験の塾に通うことになったのだが、そこで待っていたのは、いつも成績優秀だった兄弟たちとの比較です。

当時、私は全国に教室をもつ塾に通っていました。そこでは毎週日曜日に全国でテストが行われ、成績順にランキングされます。毎週、私のもとへは全国ランキングが送られてきました。テストを受ける会場も成績順で決められるという、おちこぼれの私にはなんとも酷な制度でした。

そこで、私は「マンネンジュンカイイン」でした。そう、「万年準会員」です。成績が悪すぎて、会員にもしてもらえなかったのです。それを私の母親は「マンネンジュンカイイン」と私に言い聞かせました。私はマンネンジュンカイインなんだと、それはそれでちょっと誇らしげでした。

そんな私に危機が訪れます。小学5年生の秋のことです。なんと、テストの成績が悪すぎて「マンネンジュンカイイン」からもドロップアウトしてしまいそうになったのです。

なんとか首の皮一枚でドロップアウトを逃れたものの、その時に私は社会の怖さを知りました。テストの成績が悪ければ、大人は親切にしてくれないのです。一方、兄弟は大人からちやほやされていました。少なくとも、私の目にはそんな風に見えていました。

おちこぼれには社会の風は厳しいです。「ジュンカイイイン」にもさせてもらえなくなったら、どんな扱いを受けるのだろう。いうなれば「人間」として認められてもらえないかもしれません……。小学生の私にとって、あまりにも怖い世界を想像しました。

それでも私は勉強をしませんでした。いくら優秀な兄弟達と比べられ、ちょっと窮屈な想いをしても勉強をしたいと思いませんでした。なぜなら、当時の私には勉強がちっとも楽しくなかったからです。勉強よりも遊びが好きでした。下校時刻までめいっぱい遊び、塾は仮病を使ってサボりました。好きなことを選択する力は人一倍もっていたようです。

――そんな松田さんが、どうして公認会計士になったのでしょうか。

そうですね、今では公認会計士という職業について、「松田先生」などと言われているのだから、人生何がどう転ぶかわかりませんね。しかも、自然派セラピスト専門の公認会計士という、ちょっと変わり種会計士としての活動もじわじわと皆様に知っていただいています。

私が思うに、人生ってタイミングなのだと思います。山があるから谷がある。谷があるから山がある。小学生の時、私は本当に勉強が嫌いでした。おちこぼれだった。でも、それがなければ現在の自分はいません。今は心から、おちこぼれでよかったと思います。

そんな、山あり谷ありの私の人生の中で、大きな決断を下すチャンスが何度か到来しました。そのひとつが大手監査法人を辞めて、公認会計士として個人開業したことです。

――個人開業したきっかけを教えてください。

合格率が8%以下という、超難関の公認会計士試験を突破することができたのは、奇跡でもまぐれでもなく、私の努力と根性の賜物だと思います。今思えば頭がおかしくなるくらい勉強をしました。いや、実際、合格したときは頭がおかしくなっていたと思います。

毎朝7時から専門学校でテストを受け、講義を受け、夜10時近くまで自習室でひたすらインプットとアウトプットをしました。当時の試験制度は7科目を1発合格しなくてはなりませんでした。とうてい、すべての試験範囲を完璧に勉強するなんてことはできず、いかに満遍なく全科目で合格レベルをクリアするか、そればかりを考えて勉強していました。

そこで私が手に入れた法則は、「8割かける8割」です。

当時の試験は、全科目同時合格が必要であったこともあり、それぞれの科目で6割程度正解していれば、合格レベルをクリアできました。6割ということは、100点満点のテストだったら60点です。つまり、40点もミスができるってことです。そこで、私がじっくりと心に留めたこと。本番の試験では全部に手を出さず、吟味して8割解きます。そして、その8割解いた問題のうち、確実に8割を正解します。

8割かける8割で64%を正解できれば、合格レベルをゆうに超える、という算段です。この「8割かける8割」の法則は、この時から私の心の平和を保つ重要なキーワードとなっています。

同じ事象を、どうとらえるか。60%正解しなくては、と思うのか。40%間違えてもOKと思うのか。全部をケアしなくていい。8割のエネルギーでなんとかなります。

――合格後について、お話しいただけますか。

私は、公認会計士試験に合格してすぐに、公認会計士が3000人以上所属する、ある大手監査法人に入りました。そこでは国内監査部門に所属し、よく知られている名だたる大企業の監査を担当しました。チームメンバーとともにクライアント企業に行き、膨大な機密資料を検証するのが主な仕事であり、とてもやりがいのある仕事でした。

高校生の頃からバリバリのキャリアウーマンにあこがれていた私にとって、こうして監査法人のビッグネームの名のもとでクライアントに「先生ヅラ」をして仕事をすること、毎日終電まで仕事をすること、週末返上で働くことは自分のキャリアウーマン精神を満たすものでありました。

今思えば、いわゆるワーカーホリック(仕事中毒)に陥っていたのでしょう。プライベートとの垣根を持てずに仕事を続けてしまった結果、カラダに症状がでてしまうほどのダメージを受けてしまいました。

自分のカラダが悲鳴をあげて初めて、自分に向き合わざるを得なくなりました。そこで、自分が忘れていたことを思い出した。「8割かける8割」の法則で私はうまくいく、ということ。

公認会計士の専売特許である「監査」という仕事は、いってみれば、「会社の決算書の間違い探し」です。公認会計士試験でいえば、6割の正解部分を10割に近づけなくてはならない仕事です。6割しか合っていない決算書が世に出たら、それこそ大事件です。10割に近づけることによって、世の中の人々が安心して大企業の決算書を信用することができます。

それを仕事にしていると、だんだんと仕事で10割を正解することばかりで頭がいっぱいになってしまいました。私は自分の10割に近づけることばかりに意識を集中しすぎてしまったのでしょう。プライベートの時間も仕事の思考に侵されるようになりました。

カラダはよくわかっています。あるじがあらぬ思考に染まりかけている、それに症状という警鐘をならしてくれますから。

私がうまくいく法則は、自分のエネルギーは8割使い、そのうち8割が的を射ていればいいということです。カラダが思い出させてくれました。8割かける8割理論をまた実践すべく、思い切って私は5年間勤めた大手監査法人を辞める決意をしました。その時の私は、仕事での頑張りが認められつつあり、同期の中でも早くマネジメントの仕事を任されるというタイミングでありました。

――お金について、はどうでしたか?

公認会計士と聞いて、どんなイメージを持っているでしょうか。「お金にきちっとしている」、「お金に細かい」、「お金に厳しい」など、お金の管理はきちんとしているイメージを抱かれることが多いように思います。実際はそのような公認会計士ばかりではなく、「自身のお金の管理はどんぶり勘定」、という者も結構います。

私は、というと、今でこそきちんと管理できているが、独立開業する前のお金の管理は、それは、それは、ずさんなものでした。

自分でもびっくりしたエピソードがあります。終電の時間まで残業をし、週末もほとんど休むことなく事務所で仕事していた大手監査法人時代。お給料はそれなりにもらっていたし、給与口座で積み立てもしていたので、退職時にはそれなりに貯金ができていると思っていました。

お恥ずかしい話、銀行の通帳を紛失してしまい、5年間で1度も給与口座の記帳をしていなかったため、どれほど貯金があるのか把握できていませんでした。退職するにあたり銀行に行き、新しい通帳を作成して唖然としました。入金と出金の金額がまとめられて1行で印字され、そして、残高も思っていたよりもずっと少なかったのです。

「何に使ったんだろう」と思いだしてみると、心当たりは結構ありました。当時、一人暮らしをしていたマンションの家賃もそれなりの値段だったし、趣味のゴルフにかけていた金額や、洋服代。お酒が大好きで、夜中に飲み歩いたりもしていたため、タクシー代も。たまに行く旅行先もお金を気にせず選んでいたのです。

――それで、家計簿をつけはじめたのですか?

はい、そうなんです。おまとめ1行の通帳を眺め、当時、退職をココロにきめていた私はこれではいけないと、家計簿をつけることにしました。レシートをすべて持ち帰り、エクセルに入力します。お財布の残高と、エクセル上で計算したお金の残高が一致するときの爽快感。私のもとへ来てくれたお金(収入)、私のもとから旅に出たお金(支出)に思いを馳せります。「おまとめ1行時代」に私のもとに来てくれたお金(収入)はきっと不満だったでしょう。給与明細もろくに確認せず、私から意識を向けられることすらなかったのですから。

お金の専門家である私であるが、こうして、家計簿をつけてみて初めて、自身のやりくりの金銭感覚を身に着けたのです。この経験は、現在の当事務所での中核事業の大きなヒントとなっています。というのも、現在私が提供しているセラピスト向けのコンテンツは、この時に私が作成した家計簿がベースとなって出来上がったものであり、これが今や、私の個人事業の収益構造のかなりを占めているからです。

――独立開業と資金繰りについて、お話しいただけますか。

大手監査法人を退職した私の初めての仕事は、おおよそ独立開業とはいえないものでした。というのも、同業の父親が経営している会計事務所で働くという選択肢を選んだからです。

対外的には、私は個人会計事務所を営んでいる形ではあったものの、実質は父親の会計事務所を手伝い、また、会計士仲間から依頼される仕事をパートタイムで引き受けていました。これらの仕事の内容は決して自分の望んでいたようなものではなかったが、簡単に収入を得ることができるという点ではとても恵まれた環境でした。

残業も休日出勤もなく、のんびりと働いていても毎月の収入は7桁を超え、監査法人勤めをしていた時の2倍ほどの収入を得ることができました。そういう意味では資金繰りには全く懸念することのない、独立開業のスタートでした。

当時はこれこそまさに、「8割かける8割」仕事生活と思っていました。自分の8割のエネルギーを投入し、8割の成果を期待して、そして簡単に収入を得る。時間もお金もその時の私には十分なほどありました。

しかも、責任は自分にはありません。父の事務所だから、私が最終責任をとらなくていいのです。会計士仲間の仕事だから、パートだから私が最終責任をとらなくていい。責任がないのだから、まさに偽物の独立開業生活です。

達成感もなく、日々過ぎていく仕事生活。これでいいのだろうか、と疑問を感じ始めたころ、その偽物独立開業生活から私が脱出することになる「ある事件」がおこるんです。

――偽物というのがわかりませんが……。

当時、私は独身生活を文字通り謳歌していました。フルマラソンにはまり、国内・国外のレースに参加しながら旅行も満喫していました。もう結婚しないことを決めて、自分で住む家も購入しました。

そんな私に急に結婚話が持ち上がりました。5年以上飲み仲間であった今のパートナーと、ひょんなことから付き合うことになったのです。当時私は37歳、彼は38歳。すぐに結婚しようという話になりました。両親もきっと喜んでくれる。そんな想いで「結婚したい人がいる」と伝えたところ、なんと両親の答えは思ってもみなかったものでした。

「結婚反対」。両親の反対の理由は私にはうまく理解できませんでした。両親の思い描く理想の結婚相手。なぜにそこまで私の人生を両親の想いに合わせなくてはならないのか。思えば、私が小学生のころは勉強が本当にできないという点で、「兄弟いちの問題児」でした。それが大人になって、兄弟で私だけが父と同じ公認会計士という職業に就きました。「父の事務所を承継できるのは兄弟で私だけ」、という思いが私をがんじがらめにしていたのでしょう。

小学校のころは、どんなに両親から「勉強しなさい」といわれても、自分のやりたいことを優先していました。それが、いつの間にか両親の思い描く「いい娘」「いい跡継ぎ」を演じ、それが分厚い仮面となって、自分自身を苦しめてしまっていたのです。

両親と何度も話し合いました。それでもお互いの着地点をうまくみつけられず、私は自分の人生に責任をきちんととることにしました。自分の足で立つ。それは、自分がまた「おちこぼれに戻る」という選択肢でした。

兄弟1番のいい子から、またもや1番の問題児へ。私は結婚を選び、そして、親の事務所を辞めました。

――自分の名前で勝負するということについて、ぜひお話しください。

ここからが私の本物の個人開業ストーリーです。結婚して私は「松田眞理」となりました。公認会計士業界は旧姓のまま仕事を続ける女性が多いが、私はあえて新しい名前を名乗ることにしました。幸いにも、父の事務所にいた時から私個人で請け負っているクライアントがいくつかありました。そのクライアントとともに、「松田眞理公認会計士事務所」は開業の一歩を歩みだすこととなりました。

問題は資金繰りです。父の事務所を退職したことで、収入は激減しました。とりあえず、公認会計士の仕事をパートタイムで増やして資金繰りを立て直そうと考えました。その時に役に立ったのが、例の「おまとめ一行時代の家計簿」です。家計簿のデータで自分の支出の傾向がわかっているので、それに合わせて、収支計画をたてました。

これをもとに、事務所の事業計画書を作成し、いつまでに収入をどのくらいのレベルまで上げていけばいいのか、をシミュレーションしました。これは、私にとって、安心材料となりました。目に見える形で事業展開のスケジュールを把握できるということは、経営を継続していくうえでかなりな強みを発揮します。きちんと作りこまれた事業計画書は、珠玉の経営指南書となりうるのです。

この事業計画書は、いまでも私の事業の強みとなっています。コンテンツとしてブラッシュアップし、お客様に提供させていただいています。個人で開業し、継続していくためには収益を計上し続けることが重要です。「収益を計上しつづける」ことができるかどうか、事業計画書をみれば一目瞭然です。

そして、事業の継続に必要なもう一つのことは、「自分の名前で勝負できるもの」があるかどうかです。つまり自分のブランディングがきちんとできているか、です。自分でしか提供できないもの、それがわかっている場合は事業での強みを発揮しやすい。松田眞理公認会計士事務所でしか提供できないもの、それは自然と私のもとへやってきてくれました。

――現在は自分の好きなもので食っているわけですか。

私の現在の肩書は「自然派セラピスト専門公認会計士」です。主に、自然療法家の方に向けて、事業プランニングやコンテンツプロデュース、税務・会計業務を提供しています。

そもそも、私がなぜ「セラピスト専門」になったのか。結婚後、私は2人の男の子の母となりました。できるだけ自然に子育てがしたいという私の想いとはうらはらに、長男の体調不良が続き、そのたびに、病院では抗生物質が処方されました。疑問を持ちつつも、私は母親の責任として彼に抗生物質を飲ませることを選択しました。しかし、彼の症状はなかなかよくなりませんでした。薬はどんどん強いものとなり、ついには長男の全身に薬疹がでてしまったことがありました。

ショックでした。その姿を見て、私は私の意志で西洋医学の治療をストップすることを決めました。そして、様々な自然療法を調べ実践しました。結果的にこどもの体調不良を克服することができたのは、西洋医学ではなく、自然療法でした。

私は正直、子供の体調不良が治れば、それが西洋医学だろうが、自然療法だろうが、どちらでもよかったのです。ただ、自然療法が功を奏したことで私の興味はそちらに向かいました。子どもの体調をなんとかして治してあげたい、という一心で始めた自然療法の勉強であったんですが、これがなんとも楽しく、いつぞや私のライフワークとなってしまっていたのです。

いっとき、私は自身がセラピストになることも考えました。それほど、自然療法の世界は私にとって珠玉の世界であり、学べば学ぶほど、そのエッセンスに魅了されたのです。「好きを探求しよう」と、私は自然療法を学び続けました。そこで私はさまざまな出会いに恵まれました。たくさんのホスピタリティに満ちた講師の方々、一緒に学びを深める仲間たち。

受講生の中にはすでにセラピストとして活躍している方も多く、私がお金の専門家とわかるといろいろな相談を受けたりもしました。そこで感じた事は、「セラピスト業界はお金に苦手意識を持っている人がなんとも多いのだろうか」ということです。癒しを提供したいという強い想いがあって開業したものの、適正価格を請求できずに廃業せざるを得ないセラピストがほとんどであるという事実です。

開業したセラピストのうち3年以上事業を継続できるのは、なんと全体の2~3%ということに唖然としました。

「セラピスト業界をどうにかして盛り上げたい」

「仕事として継続できるセラピストを増やしたい」

そんな想いで、彼女たちのたくさんの相談にのっているうちに、気が付いたら「セラピスト専門会計士」になっていました。ありがたくも、現在はセラピスト専門会計士として、それなりに名前を知られるようになりました。

好きなことを仕事にしようと思っていたわけではないのですが、好きを探求しようという想いが今の私の個人事業主人生に色をつけてくれたのです。私は「松田眞理公認会計士事務所」の経営者です。経営者として、必ず守っていこうと思うことがあります。それは、「小さな成功をし続ける」ということです。なにも大きな成功でなくていいのです。

私にとっての小さな成功は例えばこういったことです。

・お客様の書類を少しでも効率的に準備できるように仕組みつくりを考える。

・無線LAN接続で印刷の時間を短縮する。

・お客様ごとに作成しているカルテ情報を常に更新する

何事も継続することが大事ではあるものの、ただ繰り返しているだけではつまらない。

そこに自分なりの工夫があって初めて継続していることに意味がでてくる。

継続することで、他から抜きんでることは可能かもしれません。ただ、さらにちょっとした成功を意識することで、そのスピードはもっと速くなるのです。昨日より、見やすい書類を作成することができました。先週より、もっと早く印刷することができました。先月よりカルテが見やすくなりました。そうして積みあがった小さな成功がやがて大きな成功として花開くタイミングがやってくるのです。

――自分の想いを声に出し続けるのが大切だとか。

私は2015年をアウトプットの年にすると決めました。人間はインプットとアウトプットを繰り返すことで生命を維持しています。例えば呼吸。インプットがなければアウトプットできないし、アウトプットしなければインプットもできないカラダになってしまいます。

これは事業も同じです。それまでの私は、アウトプットがインプットに比べて圧倒的に少なかったのです。アウトプットの少ないまま事業を続けていくことは、やがて停滞につながります。そこで私が2015年に目標としたこと。事業に関係することでアウトプットし続ける。

具体的には、

・ブログを毎日更新する

・本を出版する

・講師の仕事をどんどん引き受ける

といったことです。

そして、私はこれをことあるごとに周りに言い続けました。

その結果、

・ブログを毎日更新することができた

・本を出版することができた

・講師の仕事の依頼がどんどん舞い込んでくるようになった

・執筆の仕事の依頼がじわじわと増えてきた

自分の想いを周りに発信しつづけることで、その想いを簡単に実現することができたのです。チャンスはいつ訪れるかわかりません。私はたまたまチャンスに恵まれたのかもしれません。ただ、一つ言えることは、自分の想いを発信しなければチャンスに出会うことはなかったということです。いつチャンスが訪れてもそれを受け入れられるように、準備は万全にしておくべきです。

――引き寄せ力を自分で高めているのでしょうか。

そうですね。自分で言うのは少し恥ずかしい気もするが、私の引き寄せ力はすごいです。どれくらいすごいかというと、電車で座っていると、隣で眠っている人はほぼ100%私の肩にもたれかかります。きっと、私は人を引き寄せるなにが磁力のようなものを発しているのでしょう。もしくは、よっぽど私の肩はよりかかり甲斐があるのか。そんな冗談はさておき、事業を成功させるのに様々な出会いの引き寄せ力を高めることは最重要課題といっても過言ではありません。

人と出会うチャンスはどこにでもあります。毎日1人でもいいから誰かと出会うというのはそんなに難しいことではありません。例えば、コーヒーショップで店員さんと会話をする、銀行のATMに並んでいるときにちょっとした会話をする、ジョギング中にすれ違った人におはようございます、とあいさつをする。私はもともと人懐っこく、すぐに人に話しかける傾向にあるため、自然と人との出会いも多いです。

人との出会いに恵まれると、その出会いをさらに広げたくなります。今までも、色々と人を引き合わせてきました。お客様の中には、私の人脈を目当てにしている方も少なくありません。私が出会った方たちには、私の人脈をどんどん活用していっていただきたいと思っています。そう考えると私の出会い力は私の特技の一つであり、事業上のウリなのです。

私のお客様は売り上げを大きく伸ばされる方が多いです。その理由の一つには、まさに私の出会い力をも活用して、ご自身の力に変換されているということもあるのでしょう。見返りを期待して人と出会うことは私にとっての出会いではありません。ただ、偶然にも出会った相手が、私と出会ってよかったと喜んでくれるのは実に気持ちのよいことです。そこからまた何かが始まるワクワク感、それが本来の出会い力なのでしょう。

――女性はもっと自分の自由を手に入れるべきだと日々おっしゃっています。

そうですね。セラピストの方々を応援していくうちに、私は根本的な問題にぶちあたりました。それは、人生に大きな不安を感じている女性がなんとも多いということです。セラピストだけではない、日本の女性の根底にある人生への不安。女性は男性に比べて、人生の要所で大きな決断を迫られることが多いです。

・結婚するのかしないのか

・子供を産むのか産まないのか

・仕事を続けるのか続けないのか

・離婚するのかしないのか

男女雇用機会均等法が定められ、彼女たちは選択できるという自由を手に入れたはずでした。にもかかわらず、増えるいっぽうの人生への不安要素。日本の女性は、なぜこれほどまでに人生に不安を感じるのか。自由であるがゆえの不自由……。

一昔前の日本女性のように、「結婚して家庭に入るのが当たり前」といった時代のほうが女性は不安を感じずに済んでいたかもしれません。そして、女性たちは、この人生への不安をお金や時間で解決しようとします。

お金がたっぷりあったら、時間がたっぷりあったら、その不安要素はなくなるのだろうか? 残念ながら、その答えはNOです。なぜなら、そもそもお金や時間そのものに対して不安を感じているからです。不安を不安で払拭してもそれは解決には至らないのです。

私はたくさんの女性と接してきました。そして、「あること」を実践すれば、今すぐにでも、彼女たちの不安はぬぐい去ることができることに気づきました。これを実践することで、日本女性のあり方は、きっとこれからどんどん変容していくに違いありません。

日本の女性はもっと自由を手に入れていい。そうすることで、女性はもっと美しくなります。美しく自由な女性が増えれば、社会全体が生き生きとした色に満ちてきます。そんな日本の光景が近い将来、実現することを私は心から望んでいます。

<プロフィール>

松田眞理(まつだ・まり)

1973年東京に生まれる。公認会計士・税理士。

自然派セラピスト専門公認会計士

日本女子大学英文学科卒。フランス語履修。

13歳で初めてフランス語を学び、フランス文化に触れる。

フランス女性の生き方に感銘を受け、そのことが自身の心の自立を保つ原点となっている。

1994年山一證券株式会社に入社。営業を担当し、活躍するが1年半で退職。その後、公認会計士の受験に取り組み2001年に公認会計士試験合格。

合格と同時に、監査法人トーマツ(現 有限監査法人トーマツ)に入社。

監査法人にて大企業相手の激務がつづき、体調を崩すが、それをきかっけに中医学・鍼灸に通い、体の自然の力によって健康を回復する。

結婚後2児の母となり、今度は子供が体調不良を起こす。現代医学で治療するも、薬漬けとなり、子供の全身に薬疹がでてしまう。

このことで、西洋医学だけでなく、アーユルヴェーダやフィトセラピーの実践を始め、様々な自然療法と出会う中で子供の体調不良を克服する。

2006年には会計事務所を独立開業。自然療法を学ぶ過程で出会ったセラピストさんからの税務・会計の相談を受けるようになり、現在は多くのセラピストの事業計画や独立開業のサポートをしている。

初の著書「セラピスト・ヒーラーのためのお金の強化書」がKindle1位ランクイン。

たくさんの女性に伝えたいことを14のルールに集約した。

『フランス女性に学ぶ自立の心セオリー ~14 Rules~』(http://marimatsuda.com/

■松田眞理公認会計士事務所

http://www.matsudacpa.com/

.■~自分を大事にするためのやさしいマネーレッスン~

http://ameblo.jp/mmshan223

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載

コメンテーター。調達コンサル、サプライチェーン講師、講演家

テレビ・ラジオコメンテーター(レギュラーは日テレ「スッキリ!!」等)。大学卒業後、電機メーカー、自動車メーカーで調達・購買業務、原価企画に従事。その後、コンサルタントとしてサプライチェーン革新や小売業改革などに携わる。現在は未来調達研究所株式会社取締役。調達・購買業務コンサルタント、サプライチェーン学講師、講演家。製品原価・コスト分野の専門家。「ほんとうの調達・購買・資材理論」主宰。『調達・購買の教科書』(日刊工業新聞社)、『調達力・購買力の基礎を身につける本』(日刊工業新聞社)、『牛丼一杯の儲けは9円』(幻冬舎新書)、『モチベーションで仕事はできない』(ベスト新書)など著書27作

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