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ゼロックスで起きた”誤審”は、ビデオ判定の呼び水になるのか?

清水英斗サッカーライター
ゼロックス2016 広島対G大阪の判定シーン(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

20日に行われたゼロックス・スーパーカップは、サンフレッチェ広島が3-1でガンバ大阪を下した。

昨年と同じく今年のゼロックスも、審判の判定が話題に上がった。焦点となったのは、後半10分のシーンだ。広島の柏好文が蹴ったクロスが、スライディングしたG大阪の丹羽大輝の腕に当たったとして、ハンドの判定。広島にPKが与えられた。

しかし、丹羽は腕ではなく、顔面に当たったと主張。赤くなった頬を指差して必死に抗議するも、判定は覆らず。広島がPKを決めて2-0とリードを広げた。最終的に広島は3-1で逃げ切っている。

問題の場面は、スタジアムでは全くわからなかったが、リプレイ映像で確認すると、たしかにボールは腕に当たらず、脇の下を通過して顔に当たったように見える。誤審かもしれない。

だが、正直なところ、リプレイでも辛うじて判別できるレベルだ。丹羽が振り上げた両手は、完全にクロスのコースを塞いでおり、いかにもハンドらしく見える。よくもこれほど狭いところを、ボールが通り抜けて顔に当たったものだ。

実際、クロスを蹴った柏は丹羽のハンドをアピールした。加えて、この日降っていた雨も視認を難しくした。ついでに言えば、丹羽の頬が赤くなったからといって、腕に当たらなかったとは断言できない。腕と顔の両方に当たった可能性があるからだ。飯田淳平主審にとっては酷なシーンだった。

そして、問題は続く。

試合後の談話として、丹羽は飯田主審が誤審を認めていたと、メディアに話した。しかし、審判委員会の聞き取りでは、「処分がどうなるか自分にはわからない」「必要があればビデオを確認する」と丹羽に答えただけで、飯田主審は誤審を認めたことを否定。

審判委員会は「誤審」という表現に、とても敏感だ。

ただでさえ、サッカーの審判は人の恨みを買いやすい。南米では、審判とのいざこざが殺人事件にまで発展する。日本でそこまでは起こらないにしても、審判個人に対して誹謗中傷が及ぶことを避けるため、審判委員会は「誤審」を認めることに対し、慎重な姿勢を崩さない。

もちろん、ルールの適用を間違えたり、一方のチームに肩入れしたり、明らかに怠慢と言えるようなミスをした場合は話が別だが、今回のように単純な見極めの問題であり、目の性能を議論する以外にないケースでは、“人間が判定する以上、こういうことは起こり得る”と帰結するしかない。他にどうしようもない。

じゃあ、サッカーも、他のスポーツがやっているようにビデオ判定とか、チャレンジ制度を導入すればいいじゃないか?

ところが、サッカーのルールは、国際サッカー評議会(IFAB)が管理している。たとえ日本やJリーグが導入したくても、IFABの許可なしに、いかなる競技規則の変更も行うことはできない。それをやれば、FIFAから除名処分を受け、ワールドカップにも出られなくなる。だから、現行のルールで、やれることをやりましょうと。

ここまではある意味ワンセット。誤審騒ぎにおける一般的な流れだ。

しかし、今年からは状況が変わってきた。

2016年1月にIFABは、審判の判断を助けるために、リプレイ映像を試験的に導入することを推進。サッカーも、ビデオ判定の時代が始まろうとしている。

ただし、適用するのは微妙なゴール判定、ペナルティーキック、レッドカード判定の3つに限定。すでにオランダやドイツは、試験導入に積極的な姿勢を表明した。

私がビデオ判定に慎重なわけ

FIFAのゼップ・ブラッター会長は導入に積極的だったが、欧州サッカー連盟(UEFA)は、サッカーに対するテクノロジーの導入に一貫して否定的な態度を取ってきた。あらゆるスポーツの中で圧倒的にお金を持ちながら、サッカー界がビデオ判定に慎重だったのは、サッカーに対する保守的な考えがあることが一因だろう。

筆者も、その保守的な人間のひとりだ。

機械化して失われるものが、実はサッカーにおいて最も価値があるのではないかと、いつも考える。何も失われないのかもしれないが、もし失われたらと考えると、やはり恐ろしい。『サッカーは人生の縮図』と語る人は多いが、まさにその通りだ。人生や社会で起きる喜び、いざこざが、サッカーのピッチでも同じように起こる。人生で難しいことは、サッカーでも難しい。人生で耐えなきゃいけないことは、サッカーでも耐えなきゃいけない。こんなに人間臭いスポーツを、よくぞ考えたものだと感心する。世界中でプレーされているのも、偶然ではないだろう。心から惚れ込んでしまった身としては、変わりゆくサッカーに対し、複雑な感情を常に持っている。

2006年にドイツで取材したストリートサッカーのワールドカップでは、世界中から集まったサッカーチームが、審判なしで真剣勝負に挑む姿を目の当たりにした。判定はすべてセルフジャッジ。そういうルールで行う大会である。

判定で揉めたときは、当人同士が話し合い、キャプテンがまとめ、それでも収集がつかないときのみ、大会の第三者が仲裁に出る。当然、審判という絶対の存在がいないのだから、お互いを尊重する気持ちがなければ、すぐにケンカになる。騙そうと思えば、相手のボールを横取りして始められるし、ファールの演技もやりたい放題。自分の裏切りを止めるのは、己を律するプライドと、チームメイトしかいない。相手に対する寛容も大切だ。人と人。創世記のサッカーをそのまま再現したような人間臭い試合を見て、筆者は「これがサッカーのベストだ!」と深く感動したことを覚えている。

おそらく、その記憶故だろう。サッカーに絶対的な存在が持ち込まれることに、説明しがたい残念な気持ちがあるのは。テクノロジーがあれば、今ほど人間性を試されることはない。機械の判断に従えば済む。試合は人間臭いものではなく、ストレスも減り、技術や戦術のピュアな応酬になる。筆者もあの経験がなければ、「早くビデオ判定しよう」と言っていたかもしれない。

しかし、今は判定ひとつで暴力が飛び交ってしまう現代だ。理想を語っていられないほど、サッカーの影響力は強くなったし、ひとつの勝負が持つ意味も大きくなっている。ビデオ判定は受け入れるべき現実であり、秩序なのだろう。Jリーグも試験導入するべきだし、その点に異論はない。

今後、Jリーグとしてクリアするべき点は、やはりビデオ判定にかかる費用だろう。

昨季は川崎フロンターレ対湘南ベルマーレの試合で、湘南の菊池大介のシュートがゴールラインを割ったかどうかについて、ノーゴールとされた判定が騒ぎになった。その件について、昨年のメディアカンファレンスで説明があったが、当時はリプレイ映像を何回見返しても、ゴールを割ったか否かがハッキリ視認できない、という話が出ていた。

つまり、放送用のカメラだけでは判定し切れないのだ。判定用に新たなカメラを設置する必要がある。そうなると当然、ランニングコストは人件費を含めて増すことになる。

ゴールラインテクノロジーを費用の問題で見送ったJリーグだが、ビデオ判定はどうするのか。このタイミングで、導入の議論を呼び込みそうな判定がゼロックスで起きたのも、何かの縁なのかもしれない。

サッカーライター

1979年12月1日生まれ、岐阜県下呂市出身。プレーヤー目線で試合を切り取るサッカーライター。新著『サッカー観戦力 プロでも見落とすワンランク上の視点』『サッカーは監督で決まる リーダーたちの統率術』。既刊は「サッカーDF&GK練習メニュー100」「居酒屋サッカー論」など。現在も週に1回はボールを蹴っており、海外取材に出かけた際には現地の人たちとサッカーを通じて触れ合うのが最大の楽しみとなっている。

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