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「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開

篠田博之月刊『創』編集長

2014年7月18日、「黒子のバスケ」脅迫事件の公判が開かれ、検察官の論告求刑と弁護人の弁論、そして渡邊博史被告の最終意見陳述が行われた。検察側は、この犯罪が、動機が身勝手で被告人の反省の情は皆無、模倣性もあるという点で「まれに見る重大で悪質な事案」だとして、考え得る最も重い罪を科すべきと主張。懲役4年6カ月を求刑した。弁護側は、この事件が死傷者を出すような意志を持ったものでないことを主張し、情状酌量を訴えた。さて、「最後に言っておきたいことはありますか」と裁判長に促された渡邊被告が用意してきた意見陳述を読みあげたのだが、あらかじめ「10分をめどに」と釘をさされ、短い時間で用意した原稿の一部を読みあげたのだった。被告は胸に「EXO」と書かれた黒いTシャツを着用しており、意見陳述の最後に「ベッキョン!サランヘヨ!」と叫んだのだが、傍聴席にいた誰も意味を理解できないようだった。

実は、この日のために渡邊被告は、A4のレポート用紙44枚にも及ぶ意見陳述用の原稿を書き上げていた。以下にその全文を掲載するが、法廷で読まれたのは、このうちの冒頭の香山リカさんに謝意を表明したところまでと、末尾の広野君の話以下の部分のみだった。

ここでは長大な原稿を幾つかのファイルに分け、読みやすいように番号と見出しをつけた。渡邊被告はさらにネットでこれを読む人のために「声明文」も書いており、これも末尾に掲載した

現在、渡邊被告は東京拘置所にいるが、そこでどんな生活を送っているかについては、発売中の月刊『創』8月号に獄中手記を書いている。彼は、獄中で多くの本を読み、自分の犯罪について考えた結果、冒頭意見陳述で述べた時とかなり違いが出てきている。また、『創』誌上での精神科医・香山リカさんや雨宮処凛さんらとの応酬を通じてもいろいろなことを考えるに至っている。そうした論者との応酬の内容については、『創』のホームページへアクセスすれば、ウェブ上で読めるようになっている。

http://www.tsukuru.co.jp/

※追補 このブログに掲載した最終意見陳述は、その後本人が加筆修正して裁判所に再度提出した。その最終版は本人の著書『生ける屍の結末ーー「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』に収録されている。今後、引用などする際にはぜひその最終版を使っていただきたいので、未完ともいえるブログに公開したものは、冒頭部分を除いて非公開にします。      (『創』編集長・篠田博之)

「黒バス」事件 最終意見陳述1

冒頭意見陳述は撤回したい

「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の渡邊博史です。このたびは初公判と同様に意見陳述の機会を与えて頂けましたことに心から謝意を表させて頂きます。改めて申し上げますが、起訴事実については争いません。全て間違いなく自分がやったことです。

ネット上に全文が公表された初公判での冒頭意見陳述に対しては、自分の予想を大きく上回る反響がありました。弁護士さんなどから反響をプリントアウトしたものを差し入れて頂きましたが、読んでいて申し上げようのない違和感を覚えました。それらの批判や罵倒が自分に対して向けられているとは、あまり感じられなかったからです。例えば2ちゃんねるのあるスレッドで自分は「アニオタのスーパー嫉妬人」と呼ばれていました。自分はこれを見て、「自分はアニオタだったっけ?それに『スーパー嫉妬人』呼ばわりされるほど嫉妬したっけ?」と思いました。自分は10年以上アニメを見ていませんし、それ以前もアニオタ呼ばわりされるほどアニメを見ていなければ、アニメにのめり込んでもいません。また新聞各紙の初公判の記事では、動機について「作者の成功を妬んだ」の一言で簡単にまとめられてしまっていましたが、それを見て、

「自分がクズなのは認めるけど、他人様の成功への妬みだけでここまでやるほどのクズだったっけ?」

とも思いました。

自分は冒頭意見陳述で自分がいわゆるワープア状態であったことを申し上げました。これは自分が被害企業に対して賠償を行う経済的当事者能力がないことを示すために申し上げました。これを文脈を無視して抽出し、事件の主たる動機及び背景要因として扱う論評も数多く見受けられました。自分は、

「どうしてこんなにズレた論評ばかりが並ぶのだろうか?」

と留置場から世界に向けて叫びたくなりました。そのようなことを考えながらめくっていた差し入れの月刊誌に事件の論評が掲載されていました。その中の「夢も叶わず」とか「叶いそうもない夢」などという記述を見て思い出したのです。

「自分は夢なんか持っていない!まともに夢すら持てなかったんだ!」

そして自分は、

「冒頭意見陳述が自分の本当の心理風景からズレているから、論評もズレたものだらけになってしまったのだ」

という結論にたどり着きました。

さて自分は一体いつどこで何をどう錯覚してしまっていたのか?見当もつかず途方に暮れていると、1冊の本が差し入れられました。その本は子供時代に虐待を経験した大人が発症する「被虐うつ」という特殊な症例のうつ病の治療に取り組む精神科の著書でした。

自分はこの本を読んで、小学校に入学していじめられて自殺を考えてからの約30年間に、自分がどのような人生を送ってしまったのかを全て理解できました。自分が事件を起こしてしまった本当の動機も把握できました。ついでに申し上げれば、本人の著書を読んでもちっとも理解できなかった2008年の秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の動機も理解できてしまいました。

この本を差し入れて頂けたのは2014年4月18日です。この日から自分はそれまでとは別人になりました。いや「別人になった」という表現は適切ではありません。いじめれて自殺を考えた時に凍結した「渡邊博史」としての自分の人生が再スタートしたという感じです。

ですから今は、冒頭陳述は誤った認識に基づいて書かれたと自分は考えています。よって冒頭意見陳述は撤回させて頂きたいと思います。「ズレた論評」などと申し上げましたが、論者には全く落ち度はありません。ズレた冒頭意見陳述を書いた自分が悪いのです。

自分が認識の誤りに気がつけたのは、ズレた冒頭意見陳述の奥の急所を見抜き、指摘して下さった精神科医の香山リカ氏のお陰です。香山氏の的確な指摘がなければ自力では絶対に謎を解くことはできませんでした。この場を借りて香山氏に謝意を表させて頂きます。

認識を新たに自分の人生を改めて振り返ってみて、自分の事件とは何だったのかを改めて考え直しました。そして得た結論は、

「『浮遊霊』だった自分が『生霊』と化して、この世に仇をなした」

です。これが事件を自分なりに端的に表現した言葉です。さらに動機は、

「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」

です。自分が申し上げたことを理解できる人は誰もいないと思います。自分がこれから説明をしましても大半の人は、

「喪服が心神耗弱による減刑を狙って『生霊』とかほざき出したwwww」

「「悪魔に体を乗っ取られた」とか「ドラえもんが何とかしてくれると思った」とかの方が言い訳として面白いよ」

というような感想しか抱かないと思います。そのような感想を抱いた人は、それがご自身が真っ当な人生を歩んで来た証拠ですので喜んで下さい。これから自分が申し上げることが少しでも分かってしまった人は、自分と同じような生きづらさを抱えている可能性が高いです。ですから自分はこの最終意見陳述について「で、それが何?」という反応が大多数を占めることを心から望んでいます。

説明を始める前に自分が用いる8つの言葉を列挙しておきます。まず「社会的存在」です。これと対になる言葉は「生ける屍」です。「社会的存在」という言葉は先ほど申し上げました「被虐うつ」に取り組む精神科医の著者からの引用です。

次に「努力教信者」です。対になる言葉は「埒外の民」です。この2つの言葉は自分のオリジナルです。「努力教信者」の枠内での強者が「勝ち組」で弱者が負け組です。

さらに「キズナマン」です。対になる言葉は「浮遊霊」です。「浮遊霊」が悪性化した存在が「生霊」です。良性腫瘍が癌化するのに似ています。そして「浮遊霊」も「生霊」も「無敵の人」です。

今回の事件のような普通の人には動機がさっぱり理解できない事件を起こしてしまうかどうかはまず「キズナマン」になれるかどうかがポイントです。乳幼児期や学童期に「社会的存在」になれるなり、学童期や思春期に「努力教信者」になれれば「浮遊霊」になってしまうことはありません。もし「浮遊霊」になってしまったとしても「生霊」になってしまうことはまずありません。

もちろん自分は「生ける屍」であり「埒外の民」でした。そして気がつくと「浮遊霊」になっており、事件直前には「生霊」と化していました。

まず「社会的存在」と「生ける屍」について説明を致します。

日本人のほとんど全ての普通の人たちは、自分が存在することを疑ったことはないと思います。また自分がこの世に存在することが許されるのかどうかを本気で悩んだこともないと思います。

人間がなぜ自分の存在を認識できるのかというと、他者が存在するからです。自分の存在を疑わないのは他者とのつながりの中で自分が規定されているからです。家庭では父として、夫として、息子として、兄として、弟として。親族の集まりでは祖父として、孫として、叔父として、甥として、従兄弟として。学校では生徒として、同級生として、部活の部員として。勤務先では上司として、同僚として、部下として。地域ではその地域の住民として。その規定のパターンは無限です。

もし普通に生きていた男性がいきなり両親から「お前は私たちの本当の子供ではない。そしてお前は日本人ではない」と告白され、次に兄から「お前は血のつながった弟ではない」と告白され、次の妻から「あなたの妻は本当は死んでいる。私は途中から妻になりすましていた別人」と告白され、次に息子から「僕はパパの本当の子供じゃない。血のつながったパパは別にいる」と告白され、次の会社の上司から電話で「お前はクビ。今日限りで○○株式会社の社員ではない」と通告され、次に出身大学の学長から電話で「お前の卒業を取り消して除籍とする。お前は○○大学のOBではない」と通告され、次に住んでいる街の自治体の首長から電話で「今すぐ○○市から出て行け。お前を○○市の市民とは認めない」と通告されたらどうなるでしょうか?おそらく自分の全てが崩壊するかのような大パニックに陥ると思います。人間に自分の存在を常に確信させているのは他者とのつながりです。社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できている人間が「社会的存在」です。日本人のほとんど全ての普通の人たちは「社会的存在」です。

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか?端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。

乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。

またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。

この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。

このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。

幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。

「生ける屍」には思春期がありません。感情や規範を両親から与えられず、人や社会とつながっていない「生ける屍」は、それらの問い直し作業をやりようがないのです。

こうして「生ける屍」は

・自分の存在感が希薄なので、自分の感情や意志や希望を持てず、自分の人生に関心が持てない。

・対価のない義務感に追われ疲れ果てている

・親の保護を経て自立ができない。代わりに生まれた時から孤立している。

・常に虚しさを抱え、心から喜んだり楽しんだりできない。

・根拠のない自責の念や自罰感情を強く持っている。

という心性の人間となります。これは子供時代に両親から虐待を受けた人間に多いタイプです。「生ける屍」の多くは自らが虐待を受けたことに気がついてません。そして認知、つまり物の見方や感じ方が異常にネガティブになってしまっている自覚もありませんし、その原因にも気がついてません。しかし普通の人と比べれば「生ける屍」との表現が適切なほどに、生きる喜びや楽しみを感じられない人生を送っています。自分は「生ける屍」というショッキングな表現をしていますが、これに虐待経験者を侮辱する意図は全くないことは強く申し上げておきます。

次に「努力教信者」と「埒外の民」について説明を致します。

事件について寄せられたコメントの大半は「努力しなかったお前が悪い」という趣旨の自分に対する批判でした。それは予想通りでした。しかし、「先天性の身体障害以外は一切の不平等は存在しない。それ以外は全て努力で埋まる。私は格差など認めない、格差は全て当人の努力の差がそのまま反映したものでしかない」というコメントを見て衝撃を受けました。そのコメント主からすれば、都会に住む金持ちの子供と地方の山間部に住む貧乏人の子供は全く対等であり、アファーマティブアクションなど制度化された逆差別にしか見えないのでしょう。

自分は拘置所の独居房で考えを巡らしました。そして、

「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」

という結論にたどり着きました。この「努力教」の教養は「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する」のこれだけです。中世の民の「全ては神の思し召しのまま」という世界観に似ています。言い換えれば「全ては努力の思し召しのまま」です。

恐らくほとんど全ての日本人がこの「努力教」の世界観を持っています。この「努力教信者」は努力という言葉を何にでも持ち出します。拘置所の収容者向けラジオから美空ひばりの曲をリクエストしたリスナーのメッセージとして「ひばりさんは天才のイメージがありますが、陰での努力たるや云々」とDJが読み上げるのが聞こえて来た時に自分は、

「美空ひばりすら努力の枠内に押し込めて語ろうとするのか。凄いご時世だな」

と思い、何とも言えない気分になりました。

努力を巡る議論で「「努力は必ず報われる」のではない。「努力は報われるとは限らない。しかし努力しなれれば報われない」が正しい」という話がよく出て来ます。この議論には重大な欠陥があります。「努力すれば報われる可能性がある」という世界観を全ての人間が持っているという前提に立っているからです。この前提を持てている人間は「努力教信者」です。しかし世の中にはこの世界観を持っていない人間も存在するのです。それが「埒外の民」です。

世の中で「勝ち組」と呼ばれる人たちは勝つために努力をできていますから「努力教信者」であることは疑う余地がありません。そして負け組と呼ばれる人たちもほとんどが「努力教信者」です。日本人のほとんどは負け組を2種類にしか分類できません。「努力したけど負け組になった人間」と「自らの意志で怠けて負け組になった人間」です。しかし分類はもう2種類あるのです。それは「不可抗力により努力できなかった人間」と「努力するという発想がなかった人間」です。

「不可抗力により努力できなかった人間」は分かりやすいです。例えば中学校入学と同時に重い病気になり10年間の闘病生活を送ったという人がいたとします。病気が治ったとしても、その人が就く仕事はいわゆる負け組と呼ばれるようなものになってしまうことは仕方ありません。人生を決定づけるティーンの時代に何もできなかったからです。このタイプは基本的に無害です。本人が原因を把握しており、運命を受容できて、その枠内で前向きに生きていけるからです。

被告人質問で検察側から「お前より不遇な人は幾らでもいるぞ。それなのにお前は云々」という質問兼批判がありました。自分は被告人質問の時には上手に答えられませんでした。本人が原因を自覚できるくらいの不遇なら、かえって前向きになれますし、周囲の理解も得やすいのです。自分の不幸は不遇が中途半端だったため原因を自覚できず、周囲の理解も得ようがなかった点です。重度の障害者は福祉の手厚いケアを受けられるが、軽度の障害者は放置され気味という日本の福祉の実態と似ています。

問題は「努力するという発想がなかった人間」です。

人間はなぜ努力できるのでしょうか?それは努力の先に勝利などの報いがあるからです。少なくともあると信じられるからです。人間は参加資格のない大会に出場するために練習はできませんし、受験資格のない試験を受けるために勉強はできません。

人間が努力の先の報いの存在を信じるためには、肯定的な自己物語が必要です。これは特に凄い自己物語が必要という意味ではありません。「僕は○○が好きだから、プロの○○になりたい!」とか「私は○○になりたいから、その勉強ができる○○大学に入りたい!」ぐらいの自分の意志があればいいのです。つまり自分の人生に興味があればいいし、自分に可能性があると思えればいいのです。突き詰めれば無意識裡に「自分は幸せになりたい!」と思えてればいいのです。

ところが自分の人生に興味が持てなかったり、自分には可能性が皆無だと思い込んでしまう人間がいます。このような人間が「埒外の民」であり、負け組の中の「努力するという発想がなかった人間」です。

「埒外の民」は怠けて努力しないのではないのです。初めから報われる可能性がないと思い込んでいるから、努力することを思いつきすらしないのです。このような世界観が形成されてしまう原因となる主な出来事は虐待といじめです。

虐待によって「生ける屍」になってしまうと自分の存在感が希薄ですから、自分の人生に興味が持てず、自分の意志も持てません。また両親からの虐待を「僕が悪い子だったから酷い目に遭った」と考えて合理化しがちです。そのような子供はどうしても自罰感情に囚われて「僕は参加資格がない」「僕には可能性はない」などと思い込んでしまい努力する意欲を持ちようがありません。また「規範を守る対価としての「安心」を得る」というサイクルがしつけで身についていないので、努力が対価のない義務としか思えません。

いじめは人間が持つ根源的な「安心」を毀損します。いじめられた人間は強烈な対人恐怖と対社会恐怖を抱くようになります。するとチャレンジするにも失敗したり酷い目に遭うことばかりがイメージされてしまいます。チャレンジする前にその恐怖と戦うだけで疲れ果ててしまうのです。またいじめられると「自分はダメだ」「自分はブサイクだ」「自分には無理だ」という自己イメージを持ってしまいがちです。そして「ダメな自分は努力しても無駄だ」という世界観を持つに至ります。この思い込みは簡単には改善しません。また意識的にか無意識かに関わらず「不幸にはなりたくない!」としか発想できなくなります。すると普通の人が前向きな努力に使えるエネルギーを人や社会からの逃走に使ってしまいます。いじめられっ子にとって、人や社会とつながることは不幸の始まりだからです。

いじめられっ子が必ずこうなってしまうとは限りません。しつけのサイクルが上手く回っていて強固な「安心」を持っていれば、対人恐怖や対社会恐怖を抱くこともなければ、抱いたとしても回復は早く、悪化しません。もちろん両親や教師がいじめに真剣に対応することも毀損された「安心」を修復します。

まとめると認知が狂って「自分には可能性がない努力しても決して報われない」という世界観を持ってしまった人間が「埒外の民」です。「競争に参加する資格がない」と思い込み、自分の立ち位置を埒外と規定しているからです。

この「埒外の民」は周囲からはただの怠け者にしか見えません。しかし本人の主観では人や社会に対する恐怖と必死に戦ったのです。心の疲労度合は努力して「勝ち組」になった人のそれよりも大きいのです。しかし「埒外の民」は自分が「埒外の民」であることにあまり自覚的ではありませんし、そのようになってしまった原因にも気がついていません。物凄い生きづらさを抱えていますが、それを周囲に説明ができません。周囲もそれを理解する術もなく「埒外の民」を怠けて負け組になった人間としか思いません。ですから「努力しないお前が悪い」と「埒外の民」をひたすら責め立てます。「埒外の民」は「自分がどうしようもない怠け者だったから負け組になった」という自己物語を形成します。このような自己物語を持った人間が、それからの人生を頑張る意欲を持てるはずがありません。底辺に沈殿するような人生を送ることになってしまいます。  (以下省略)

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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