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つきあってきた死刑囚が次々と処刑されたこの7年間、死刑をめぐる意味について考えた

篠田博之月刊『創』編集長
増補版 ドキュメント死刑囚 ちくま文庫

2008年、社会を震撼させた連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚の刑が施行された時、私は親が亡くなった時と同じくらい衝撃を受けた。死刑確定から執行まで、当時としては異例なほど期間が短かったからだ。社会的には凶悪犯とされた人物であっても、12年間もつきあってきた人間が処刑されたことは私には重く受け止められた。

そして2013年2月、死刑確定前に深くつきあった奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚が処刑された時にも私は衝撃を受けた。同じ日に土浦無差別殺害事件の金川真大死刑囚も執行されたのだが、同時に処刑された3人のうち2人が私の知り合いだった。これは偶然ではなく、その2人がいずれも自ら死刑を望んで刑を確定させたという事情を抱えていた。

宮崎勤の処刑は、鳩山邦夫議員が法務大臣に就任し、死刑執行をベルトコンベアに載せるように行っていくと公言して最初に遂行したものだった。鳩山氏本人が見せられた資料の中から自分が知っている凶悪犯を選んだと後にテレビで語っていた。

そして2013年の処刑は、第二次安倍政権が発足して法務大臣に任命された谷垣禎一議員が最初に行ったものだった。これも民主党政権下で思うようなペースで死刑執行がなされなくなったことへの反省から自民党政権が意識的に取り組んだものだったと思う。

その間、死刑になりたくて殺人を犯したと言う金川死刑囚は、民主党政権下で死刑執行が滞っていたことに不安を感じていた。死刑になりたくて事件を起こしたのに、それが停止されるのでは自分が殺人を犯した意味がなくなってしまうと思ったのだろう。

こうしてみるとこの7年間、死刑囚と接してきて体験したいろいろな事柄が、俯瞰してみるとある種の意味を持っていたことがわかる。重罰化の影響で無期懲役も、かつては20年経てば仮出所と言われていたのが30年に延びた。場合によっては生きて市民社会には戻れず獄死することも覚悟せざるをない人もいるだろう。

さてそういう現実に直面しながら死刑囚や重大犯罪を犯した人たちと接して来た体験をもとに書いたのが『ドキュメント死刑囚』だ。7年前にちくま新書から出したのだが、この12月、大幅に加筆してちくま文庫から増補版として刊行された。最初に刊行した時点では宮崎勤も小林薫も健在だったが、その後処刑されてしまったため、その処刑をめぐる経緯を加筆したものだ。

例えば宮崎死刑囚の場合は、統合失調症の疑いが持たれ、自分に死刑判決が出されたことの意味もわかっていないとされたのだが、気になったのは処刑された翌年、彼の書いた新たな文書が明らかになったことだ。処刑2カ月前に彼は「この手紙をコピ―して、いつも肌身離さず持っていて!」と書かれた手紙を母親に預けていた。中身は、彼が自分の物を誰にどれだけ預けたかといったことをリストにしたものだった。当然ながら、お金を含め預けた物が一番多いのは私だった。

私が気になったのは、それを宮崎死刑囚はどういうつもりで母親に預けたのかということだった。何となくそれが遺書めいていたからだ。もしかすると彼は自分が処刑されるかもしれないことを自覚していたのではないか。精神的に崩壊し、死刑の意味もわからないとされた彼が、実は万が一を考えて遺書のようなものを書いていたとすれば、これは明らかなニュースだった。しかし、実際のところはよくわからない。

日本では死刑制度を支持する人が8割という。ただその調査アンケートに回答する際に、実際の死刑囚を具体的にイメージできている人はほとんどいないだろう。死刑制度についての是非を抽象的に問うのでなく、我々は死刑囚というのがどういう存在なのかもう少し具体的に知ったほうがよいと思う。死刑は究極の刑罰と言われるが、死刑になりたくて殺人を犯した金川死刑囚にとってそれは刑罰どころか目的達成を意味する。

また死んでしまいたいと死刑判決を望んで来た小林死刑囚は死刑判決を聞いて法廷でガッツポーズをとったことで知られる。少なくとも彼らを処刑することは全く処罰したことになっていない。

犯罪者を裁くとはどういうことなのか。罪を償うとはどういうことなのか。それを考えるために書いたのが『ドキュメント死刑囚』だ。ぜひ読んで一緒に考えてほしいと思う。

そして全文340ページの文庫本の中から序章をここに公開する。私の問題意識はこの序章にほぼ書かれていると思う。読んでいただいて興味を持たれたらぜひ全文を購読してほしい。

増補版 ドキュメント死刑囚 序章

突然の死刑執行

本書は2008年に上梓した『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)に大幅加筆し新たな章を加えたものだが、その前著の出版直前、私にとっては衝撃的な事態が起きた。同年6月17日、それまで私が12年間つきあってきた連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚が突然、刑を執行されたのだった。

その日の朝、会社へ向かうために家を出た私の携帯電話に、マスコミからの電話が次々とかかってきた。宮崎死刑囚が刑を執行されたのでコメントがほしいという内容だったが、各社から電話が殺到して、なかなか駅に着けなかったのを覚えている。会社へ着くと建物の入り口にテレビカメラなどが待機していた。その日、私は一日中、マスコミの取材対応に追われたのだった。

翌々日の朝、会社にいる私に、宮崎死刑囚の母親から電話があった。受話器をとった私の耳に「宮崎勤の母です」という女性の声が飛び込んできた。死刑確定後、宮崎との手紙のやりとりが制限されてからは、この母親経由で手紙が送られていたので、経緯について彼女は逐一把握していたが、私と直接の接触はなかったのだった。何よりも宮崎の家族は、世間から身を隠して生きなければならない立場だった。伝え聞くところでは、宮崎という姓も変えていたという。

「勤が長い間、お世話になりました」

その母親が最初に口にしたのは、私が長年、息子とつきあってきたことへのお礼だった。

「せめてお線香をあげさせてもらえませんか」

会話の最後に私がそう頼むと、母親は一瞬、戸惑ったような様子を示し、続いてこう言った。

「もうすべてお任せしましたから」

拘置所に遺体の処理を任せたという意味だ。遺体を搬出してもマスコミに知られずに埋葬するのは大変であるし、拘置所が荼毘に付したのだろう。

宮崎勤の父親は、息子が逮捕された後、事件を苦にして投身自殺した。母親も死にたい気持ちだったろうが、そうすると息子のめんどうをみる人間がいなくなる。そう思って母親は覚悟を決めたのだろう。逮捕された息子のもとへ毎月のように着替えなどの差し入れに通い、被害者遺族への賠償も行ってきた。もちろん事件当時の家に住むことはできず、世間にわからないようにひっそりと生きてきたのだった。事件後、半生を全て犠牲にして生きることを強いられたのだった。

宮崎死刑囚は、長年のつきあいの過程で、私にいろいろなことを任せていた。例えば、毎月彼からは大量に購入図書のリストが届き(大半はマンガだったが)、私は管理している彼のお金の中からそれらを購入して送っていた。

宮崎死刑囚の刑が執行された数日後、彼の遺品となったたくさんの手紙などを整理していて、思わず涙がこぼれた。彼が、月刊『創』に掲載して欲しいと送ってきた原稿を、その前年頃から掲載しないまま保留しておいたことに対する後悔の念もあった。

掲載しなかったのは他意があったわけではない。死刑確定者となってからは裁判もなく、彼が原稿に書くのは、毎日の食事メニューや獄中で流されたラジオ番組などで、毎回同じような内容になっていたからだ。社会から隔絶された死刑確定者にとっては、単純な日常が繰り返される生活になる。せいぜい変わったことと言えば、彼が楽しみにしているビデオを月に何回か見られることで、最初は宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」を見たとか、興味深い話でもあったが、そういう情報も毎月となるとすべてを雑誌に掲載していくことが難しくなったのだ。

宮崎死刑囚は、08年5月の手紙で、保留になっている原稿を掲載してほしいと強く催促してきた。そして私も掲載することに決め、準備を進めていた。ところがその間に死刑が執行されたために、7月発売の8月号にまとめて掲載した原稿は、彼の遺稿になってしまったのだった。掲載するためにそれらの手紙を整理していて涙がこぼれた。

たとえ世間からどんな極悪人と非難された犯罪者であろうと、12年間つきあった人間が処刑されるという現実は重たいものだった。特に衝撃だったのは、死刑判決が確定してからその時点でまだ2年強しか経っていなかったことだった。その後、重罰化の影響で死刑執行のペースは上がっていくのだが、当時は、そんなに早く刑が執行されるとは思われていなかった。

宮崎死刑囚は再審請求を起こそうと、あちこちの弁護士に代理人になってほしいと依頼する手紙を送っていた。死刑確定まで弁護人を務めた弁護士も、再審請求を考え、準備を進めていた。その矢先に突然、死刑が執行されてしまったのだ。

なぜ彼の死刑執行が早かったのか。その理由は、その後明らかになった。法務大臣に就任した鳩山邦夫議員が、死刑執行は法律に則って、迅速に進められねばならないという方針を打ち出し、死刑確定者のリストを自分で見て、凶悪事件として名前を知っていた宮崎勤を選び出した、とテレビ番組で語ったのだ。その鳩山法相の意向がなければ、そんなに早い執行はなかったはずだ。

死刑囚にとって、刑の執行はその朝突然、知らされる。執行の朝、宮崎死刑囚がどんなに驚愕したかを思うと、複雑な思いにかられる。本人も、自分の刑執行がそんなに早くなされるとは思っていなかったに違いない。

06年に宮崎勤の死刑が確定した時も、私は重たい気分になったが、しかし、その判決はあらかじめ予想されたことだった。それに比べて死刑執行はあまりに突然で、私自身、気持ちの整理をするのに時間がかかった。12年間彼に関わってきて、死刑確定後もどちらかが先に死ぬまでつきあうつもりだ、と決めていたのだが、その別れがこんなに早く訪れるとは思っていなかった。

死刑にしてほしいと自ら主張

その後、死刑執行に関して私が再び衝撃を受けたのは2013年2月21日のことだった。その日も私はそれをマスコミからの取材の電話で知った。その日、3人の死刑が執行され、うちひとりは私が死刑確定時に深くつきあっていた奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚だった。驚いたのは、続けて電話をかけてきた新聞社の記者から、もうひとりが土浦無差別殺傷事件の金川真大死刑囚だと聞かされたからだ。つまり3人の死刑執行のうち2人が私が接触していた人物だったのだ。

これはもちろん偶然ではない。ふたりに共通するのはどちらも、一審の死刑判決の後、自ら控訴を取り下げ、死刑を確定させたということだった。民主党政権に替わって成立した第二次安倍政権下で執行のペースは加速するのだが、谷垣禎一法相の就任後初の執行がこの時だった。死刑囚自らが控訴を取り下げたケースだという要因は、まず誰を執行するかという判断に関わっていたのはまちがいないだろう。

本書で取り上げる附属池田小事件の宅間守死刑囚もそうだが、本人が早期の死刑執行を望む場合は、異例の早さで執行が行われる。小林薫死刑囚がどういう思いで自ら控訴を取り下げ死刑を確定させたかについては、本書第二章をご覧いただきたい。本人がぎりぎりの瞬間まで迷い動揺していたことを知っている私としては、小林の刑執行についても複雑な思いにならざるをえない。

裁判の過程から、小林死刑囚は、もう死んでしまいたいと常に言っていたから、死刑自体は覚悟していたと思う。もうひとりの金川死刑囚については、私は短いつきあいだったが、多くのことを考えさせられたケースだった。

08年3月、茨城県土浦市のJR荒川沖駅構内で彼は、通りすがりの客らに次々と襲いかかり、8人を死傷させた。そして逮捕後の供述で動機をこう語った。

「自分で自殺することができないので、人を殺して死刑になろうと思った」

つまり死刑になるために人を殺したというのだった。多くの人の価値観からすれば考えられない動機だろう。私は水戸地裁で彼に死刑判決がくだされ、それが確定する時期に、何度か拘置所に通い、手紙のやりとりも行った。当初、マスコミ報道で受けていた印象と実際に会って話をした金川死刑囚とのギャップにまず驚いた。凶悪犯というイメージとは全く違う、ナイーブな好青年だったからだ。

自殺願望が強かったし、死刑になるために殺人を犯すという発想は明らかに短絡なのだが、それは恐らく彼がまだ若く、複雑な家庭環境もあって、ある種の妄想にとらわれてしまったためだと思っている。もし彼に何か異なる環境が訪れたならば、あのような凶悪な事件を起こさずにすんだはずだ。

問題は、3人のうち2人が自ら死刑を望んだ人物だったという事実だ。この世に生きる価値を見出せず、死んでしまいたいと考える人にとって、死刑は刑罰としての意味を果たしたことになるのかどうか。私は小林とつきあうようになってから毎月、奈良に通い、すべての法廷を傍聴したが、その過程で常に疑問を感じずにはいられなかった。死刑判決が宣告された時、彼は法廷でガッツポーズを行い、その直後に接見した私に、これで満足だと晴れやかに語った。

奈良地裁の一審判決には、実は事実と違うところがたくさんあるのだが、それを争うと自分が死刑から無期懲役になってしまう。だから法廷ではいっさい真実を語らない。小林死刑囚はそう言っていた。

本来、自分の無実や情状酌量を被告側が訴え、検察側と議論を闘わせることで真実に近づくというのが裁判のはずだが、小林死刑囚は、死刑判決を望みたいので、それにそぐわない事実はいっさい法廷では語らないというのだ。私は裁判を傍聴しながら、この法廷が犯罪者を裁くことになっているのかと疑問を抱き続けた。

「裁判は茶番だ」

小林死刑囚がよく口にしていた言葉である。

もともと社会から疎外され、現実社会に自分の居場所がないと思い、死んでしまいたいと考える人にとって、死刑はもう怖い刑罰ではない。01年に池田小学校に押し入って児童を殺傷した宅間守死刑囚の場合は、もっと自覚的に、自分を疎外するこの社会に復讐するために凶悪犯罪を犯した。死刑を宣告されてからも、早く執行してほしいと言い続けて、確定から約1年間という異例の早さで死刑を執行されたのだった。

こうした事例を見るたびに思うのである。

死刑を極刑とする今の裁判のシステムは、本当に現代の社会を震撼させるような犯罪に対応できているのだろうか、と。

言動のギャップ

宮崎勤死刑囚の場合も、最期まで死刑判決の意味や、自分の置かれた状況をきちんと理解していたかどうか疑わしい。殺害したとされる4人の幼女や遺族への謝罪の言葉はいっさいなかったし、むしろ自分は良いことをしたのだという趣旨の言葉さえ口にしていた。

06年、宮崎勤に最高裁で死刑判決が出された時、世間では、さすがに今度ばかりは、彼もショックを受けたに違いないと考え、そういう主観をまじえて書かれたマスコミ報道も見られた。しかし当時、頻繁に彼と接触していた私は、その見方に単純にうなずくわけにはいかなかった。

死刑判決を前後して、彼が私に何度か依頼してきた用件のひとつは、その年の夏のコミケ(コミックマーケット)はいつどこで開かれるのか調べてほしいというものだった。

コミケのカタログで自分のアピールをしたいと考えていた彼は、その前年あたりから、コミケにかなり執着するようになっていた。前年の暮れのコミケに際しても、彼の依頼に応じて、私がカタログを取り寄せて差し入れた。死刑判決が近いというので、私のもとへも新聞やテレビの取材が頻繁に入るようになっていたちょうどその時期のことだ。

世間が考えている死刑囚のイメージと現実の宮崎死刑囚の言動のギャップは、しばしば私を困惑させた。

事件当時に「オタク」という言葉を負のイメージとともに世間に流通させた宮崎勤は、事件から20年たっても、時間が止まったままではないかと思わせるような振る舞いが多かった。私が彼に関わり始めた96年頃、頼まれて大量に差し入れた書物の中には、“特撮もの”のカタログが幾つもあった。

現実の社会の流れと隔絶された形で、宮崎勤の時間は流れているのだった。世間の認識と彼の言動とのギャップは、何度も私を驚かせ、そのたびに私は思うのだった。彼の処刑によって、本当にあの事件が何か解決したことになるのだろうか。それが、彼を裁いたことになるのだろうか。あるいはもっと根源的に、犯罪を裁くというのはどういうことなのだろうか、という疑問だ。

時代が平成に入ってから、それまでの価値観では推し量れないような、動機のよくわからない凶悪犯罪が目につくようになった。発生のたびに世間を震撼させる凶悪事件も、3か月もすると忘れられ、次から次へと新しい犯罪はマスコミを通して世間に消費されていく。

動機が不明な事件がこれだけ起きているというのは、社会のどこかが壊れつつあることを示すシグナルだと思うのだが、それにこの社会はほとんど何の対処もできていない。

それは昭和から平成に“時代が変わる境目”に起きたという意味で象徴的な宮崎事件を、ほとんど何も解明せぬまま、死刑に処することをもって片付けたと錯覚しているこの現実に、端的に現われていると思う。

私は宮崎勤や小林薫といった人物と直接関わりを持つうちに、彼らの中に共通項が多いことに気付き、気になり出した。いずれも精神鑑定によって「反社会性人格障害」と診断された人物だ。そもそも医学用語としては曖昧で、社会に受け入れられないけれど医学的な病気ではないという意味で使われているとしか思えない「反社会性人格障害」というレッテルによって、彼らは「責任能力あり」として死刑が宣告された。

しかし、自らに宣告された死刑の意味もどこまで理解しているかわからなかったり、自ら社会を憎悪し死にたいと言っている人物に、そんなレッテルを貼って抹殺することで、問題は解決したのだろうか。いや、そもそも今の司法システムは、こうした「反社会性人格障害」と名付けられた人たちの凶悪犯罪を裁く装置として有効に機能しているのだろうか。

本書の前半で取り上げる宮崎勤、小林薫、宅間守の3人には、社会的に弱い存在である子どもに対して向けられた犯罪であることや、反社会性人格障害という診断を受けたことなどのほかに、その家族との関係によく似た点が見られる。3人とも父親を激しく憎悪していた。

家族とは社会の雛形であり、彼ら3人の家族との関係が崩壊していたことは、彼らと社会の関係が崩壊していたことの反映だろう。我々の社会のどこかが壊れ始め、家族が崩壊し始めている現実を、彼らは体現していたといえる。家族の崩壊という点ではまさに金川真大死刑囚も同じだった。それが彼の人間形成に影響を及ぼしたのは明らかだ。しかし、小林薫や宅間守と違って、金川死刑囚は家族を決して非難しなかった。もしかすると、それは諦めの境地だったのかもしれない。

加害者の背後にあるものを想像すること

宅間守死刑囚が死刑確定後に獄中結婚したことは知られているが、実は彼との獄中結婚を望んだ女性は2人いた。世の中には変わった女性もいるものだという単純な話で、これを片付けてはいけない。そのうちの1人は私も以前から知っていた女性だが、自らも小学生の頃からいじめに遭い、社会に疎外されてきた人物だった。

我々市民のほとんどは、凶悪事件の報道に接した時、「一歩間違えれば自分の子どもも被害にあっていたかもしれない」と、被害者の側に自分を投影する。しかし、逆に「自分も一歩間違えれば宅間守になっていたかもしれない」と、犯罪を犯した側に自分を投影する人もこの社会には存在する。

宅間との結婚を望んだ女性に話を聞いた時、私はそのことに自分の想像力が及んでいなかったことを自覚させられた。そういう人たちが社会に存在することに想像力を働かすことができないと、その犯罪を解明することはできないのではないかと思う。

これらの事件のほかにも、97年に起きた神戸児童殺傷事件や、14年に同級生を殺害して遺体を解体しようとしたという佐世保の女子高生の事件に見られるように、動機がわかりにくい事件が目につく。神戸児童殺傷事件の元少年Aは、15年夏に出版した手記『絶歌』の中で書いているように、慕っていた祖母の死に大きな影響を受けたという。また佐世保事件の女子高生も事件の前に母親の死に直面していた。宮崎死刑囚の事件が、慕っていた祖父の死から3か月後に起きていることとよく似ているのだ。

身近な人の死に直面したことで、自分の精神に何かが起き、殺害した遺体を解体するという犯行形態にも共通性が見られる。それらは決して偶然ではないように思う。

動機不明の凶悪事件に社会が対処し、防止策を講じるためには、もっと異なる根源的なことを社会全体が考えていかねばだめなような気が、私はするのである。宮崎勤や宅間守を処刑しただけでは、第二、第三の彼らが生まれるのを防止することにはならない。

私は宅間守死刑囚とは直接の面識を持たなかったが、金川真大とは何度か接し、宮崎勤、小林薫の2人とはかなり深く関わった。前著『ドキュメント死刑囚』を大幅加筆して新たに文庫化するにあたって、小林死刑囚の執行の朝の様子を書き加えたり、宮崎死刑囚の死後見つかった文書などについて加筆したほか、金川死刑囚の話を新たに加えるとともに、和歌山カレー事件の林真須美死刑囚の話を拡充し、新たな章を設けた。

林真須美死刑囚は今も冤罪を訴えているし、他の死刑事件と背景は全く異なるために前著では扱いを小さくしたのだが、死刑確定者の処遇や置かれた状況を考えるためには、ぜひ知ってほしい事例だからだ。私は彼女とも98年の事件当時から、もう足かけ20年近いつきあいを続けている。

死刑確定者がどういう状況に置かれ、何を考えているのかは、以前はほとんど知られることがなかった。刑が確定したとたんに、接見は禁止され、死刑囚が社会とやりとりすることを国家が制限してしまうからである。しかし、そういう処遇の仕方が本当に正しいのかどうか。死刑確定者の処遇の問題にも本書はできるだけページをさいた。 (文中敬称略)

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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