Yahoo!ニュース

リアリティショーとしてのAKB48:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈1〉

松谷創一郎ジャーナリスト
(写真:アフロ)

峯岸みなみ丸坊主騒動における3つの論点

 AKB48・峯岸みなみの丸坊主映像が、大きな波紋を呼んでいる。1月31日夕方の公開直後からネットでは大騒ぎになったが、翌日にはNHKニュースでも取り上げられ、さらに海外でも報じられている。そして、ファンの要望を受け、ついに2月2日いっぱいでYouTubeからも映像が削除された。

 この映像への反応とは、ほとんどがネガティヴなものだった。もちろん、これまでにもAKB48と総合プロデューサーの秋元康は、数多くの批判を受けてきた。ただ今回の一件は、これまでとはちょっと質の異なる反応をされている。

「気持ち悪い」

 多くのひとが示すのはこうした情緒的な反応であり、それが堰を切ったように噴出している。

 だが、その「気持ち悪さ」の内実も多種多様だ。今回の一件が何に起因し、その上で論理的に批判する者がいる一方で、そのほとんどは論拠の乏しいヒステリックな反応でしかない。

 このとき必要なのは、こうしたさまざまな批判を冷静に峻別していくことである。つまり、「まともな批判」と「単なる感情論」を分けていくことだ。後者の反応のほとんどは、情緒を大義に、圧倒的多数という追い風を頼りにしながら、ここぞとばかりにしてバッシングしているだけでしかないからだ。それも極めて“気持ち悪い”日本の姿である。

 なお、先に断っておくが、私はAKB48のファンではない。ただし、周囲に熱心なファンは何人もいるので、AKB48についての知識はそれなりに有している。

そこで必要なのは、感情論をしっかり削ぎ落としながら、フェアな姿勢で問題の根本に迫っていくことだと考える。AKB48を全否定するでもなく、かと言って全肯定するでもなく──。

 さて、この問題の論点は多くあるが、大きく以下の三つに分けられる。

  • 1:リアリティショーの問題点
  • 2:丸坊主謝罪を導いた体育会系気質
  • 3:「恋愛禁止」ルール

 3回に分けて、この点について考えていく。

リアリティショーとしてのAKB48

 今回の一件が「気持ち悪い」と捉えられているのは、それが熾烈な競争をメンバーに課すAKB48の悪しき表出だと認識されているからだ。つまり、丸坊主になるほど追い込まれてしまう、AKB48の組織的な問題だと捉えられている。

 周知の通り、AKB48の特徴をもっともよく表すのは、2009年から4回続いている「選抜総選挙」だ。投票によってメンバーの順位を決めるこのイベントは、AKB48の根幹とも言える制度となっている。これによって、新曲におけるポジションが決まり、それに付随してメディア露出の多寡も決まってくる。

 そこでは未成年も多く含む若い女性たちが、苛烈な競争に晒されている。2012年に公開された2作目のドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』でも、それは十分にうかがえる。当時、AKB48のセンターを務めていた前田敦子は、舞台裏で過呼吸になって倒れながらも、ステージ上では笑顔になって歌い踊る。それは、壮絶としか言えない映像だ。

 つまりAKB48は、メンバーが真剣に競争する姿そのものがエンタテインメントにされている。さらにファンは、その競争に投票という形で間接的に参加できる。その手法はしばしば指摘されるように、リアリティショーの形式と言えるものだろう。

リアリティショーとは、作為的な企画・演出が備わったドキュメンタリーと言ったものだ。日本においては、90年代中期の『進め!電波少年』における猿岩石のヒッチハイク企画や、90年代後半にモーニング娘。を生み出した『ASAYAN』、最近人気なのは『ビッグ・ダディ』をはじめとする大家族番組が代表的なところだろう。

 AKB48は、それをテレビを中心とせず劇場とネットを中心に成立させた、世界的にも非常に稀なリアリティショーの形式だと言える。今回の峯岸みなみの坊主も、競争経過をすべて公開するリアリティショーのプロセスの中で生じたものである。

 多くのひとが感じた「気持ち悪さ」とは、若い女性たちを過酷な競争に晒し、それをエンタテインメントとして送り出すこの形式にこそあった。それは、なるほど大家族番組を観た後の後味の悪さと極めて似ている。また、専門的な知識を持つ人には、1971年に行われたスタンフォード大学の監獄実験のような、社会心理学の実験のように感じられたかもしれない。なんにせよ、それは残酷な側面を多く含むショーであったのだ。

芸能界はそもそも特殊な競争社会

 リアリティショーという形式は、多くのことをオープンにするからこそそう呼ばれる。峯岸の丸坊主も、なるべく状況を公開していこうとする、AKB48本来のコンセプトによって表に出されたものだ。それだけでなく、前述したように3作公開されたドキュメンタリー映画でも、多くの生々しい現場の様子が記録されている。

 もっともオープンな点は、総選挙という制度で各メンバーの人気を反映させているところだ。そもそもこの総選挙は、運営側によるメンバー間の不公平をなくすようにファンが求めた結果として生み出された。つまり、民意を反映することが目的だ(もちろんその「民意」とは、完全な民主制の反映ではない。「ひとり一票」という、従来の民主制ではないからだ)。

 それを踏まえると、今回の一件でAKB48をファンが批判するのは、当然必要なことだと言える。もっと言えば、ファンの声を反映することこそがAKB48のシステムなのだから、問題意識を持つならば批判しなければならない。それがAKB48のシステムに準ずるということであり、正しいファンの姿ということになる。

 一方、民意を反映させるこの手法は、外部からはなかなかうかがい知れない芸能界独自のパワーバランスに対し、強いカウンターとなっているのも確かだ。芸能界とは、有力なタレントを抱える事務所が、バーターで同じ事務所のタレントに仕事を回すことがしばしばある。よって、強い事務所に所属すればチャンスが増え、そうでなければチャンスは減る。それは、まったくファンのニーズに応えることには繋がっていない。AKB48の総選挙システムは、こうした従来の不公平な業界の慣習に対し、ひとつのアンチテーゼになっている。

 そして、そもそも芸能界は苛烈な競争の世界である。若者にこうした苛烈な競争を課す社会は、特殊ではあるが他にもある。たとえば、プロスポーツはその典型だろう。年端のいかない若者が、結果を求めて過度なプレッシャーに晒される。プロ野球でも、若手選手が自ら命を断った例はひとつではない。そこは誰もが進むことはできず、成功するのも一か八かの特殊な世界だ。

 現在20歳前後の芸能人も、10年後には1割も残っているかどうかだ。私もこれまで多くの芸能人に接してきたが、10年前にインタビューしたひとで現在も活躍しているのはわずかしかいない。結果を出さなければ、すぐにクビを切られる。芸能界とはそもそもそういう世界であり、その競争のプロセスが外部にはなかなか見えないだけである。しかもその競争の方法は、前述したように極めて不公平だ。AKB48はそこに民意を反映させ、さらに従来隠されていたプロセスも開陳したのだ。

丸坊主謝罪はリスキーな前例を残した

 ただ、そうは言っても、若い女性が苛烈な競争の中で半ば自傷的に坊主にするのは、異常なことだ。彼女が丸坊主になるほど追い詰められ、その姿での謝罪映像を公開してしまうリアリティショーのあり方は、間違いなく改善する必要があり、そこを批判すべきなのは間違いない。

 なにより、峯岸みなみによって引き起こされた大きな問題は、丸坊主になることによって許されたことにある。結果的に研修生に降格処分となったが、たとえそれが最初から決まっていたことだったとしても、丸坊主になったことによってAKB48に留まれたことを意味する。つまり、悪しき前例となってしまった。今後も、自傷行為をすればルールを破っても残れるということに繋がりかねない。これは禍根どころか、AKB48メンバーの今後に多大なリスクを残した。

 それを考えると、峯岸みなみは解雇されるべきであった。それは恋愛禁止というルールを破ったからでなく、勝手に坊主にしたという理由での解雇だ。

 もうひとつ、私が訝しく思うのは、やはり運営事務所のAKSや峯岸みなみの所属事務所であるプロダクション尾木についてである。峯岸はこの間成人式を迎えたばかりだ。周囲の大人は、そんな彼女が自ら頭にハサミを入れるのを止めず、しかもそれをそのまま受け止めてあの映像を公開した。つまり、丸坊主にすることと映像公開の二つを周囲がスルーしてしまった。いくらAKB48の売りがリアリティショーだとしても、この二者で歯止めが効かなかったことには、大いなる問題があるだろう。

 AKB48は、1月にも河西智美の写真集において、児童ポルノ法に抵触する問題が生じている。このときもAKSと河西の所属事務所・ホリプロ、そして出版元の講談社がスルーして発売の告知が打たれ、問題化した。

 そんなAKB48にいま必要なのは、若いメンバー個々のメンタルをケアする専門家を常駐させることであり、法務的な問題をチェックする専門家である。

AKB48に根ざす体育会系気質:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈2〉に続く】

・関連

AKB48の「恋愛禁止」ルール:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈3〉

〈追記〉

コメントしました→朝日新聞2013年2月6日朝刊「(探)丸刈り謝罪、誰のため? AKBファン『僕らが追い込んだのか』」

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

松谷創一郎の最近の記事