「酒鬼薔薇聖斗」の“人間宣言”――元少年A『絶歌』が出版される意義

元少年A『絶歌』(2015年・太田出版)

1年遅かった出版

7月7日!!酒鬼薔薇聖斗くん32歳の誕生日おめでとう♪(///∇///)

出典:名古屋大女子のTwitterより

これは、今年1月に殺人容疑で逮捕された名古屋大の19歳の少女が、事件の5ヶ月前に残した一言である。ひとを殺すことに強い興味を示していた彼女は、昨年12月に老人を殺害した。逮捕後、高校時代に毒物・タリウムを同級生に飲ませたことや、殺害決行直後に実家そばに放火したことが発覚し再逮捕されている。そんな彼女のTwitterには、「酒鬼薔薇聖斗」以外にも、秋葉原事件の被告など多くの猟奇殺人犯への憧憬が記されている。2005年に起きた女子高校生のタリウムを使った母親殺害未遂事件も真似ているように、彼女は模倣犯でもあった。

そんな彼女が憧れた「酒鬼薔薇聖斗」が、「元少年A」という名で18年前の神戸連続児童殺傷事件についての手記『絶歌』を上梓した。この出版については、書店が販売拒否するなど、否定的な反応が大勢を占めている。

しかし、300ページにわたるこの手記を読んだ私の感想は、そうした一般的な反応とは正反対であった。結論から述べるならば、この本は(留保付きではあるが)出版することに意義があると考えられる。なぜならそれは、ときに神格化あるいはスター扱いされる猟奇殺人者「酒鬼薔薇聖斗」の“人間宣言”であるからだ。

あと1年早く出版されていたならば――と強く思った。昨年夏に長崎・佐世保で起きた高1女子の同級生殺害事件、そして名古屋大少女の事件と、未成年者による猟奇殺人事件が続いた。このふたりに共通するのは、ひとを殺すことや人間の身体に強い興味を示していたことだ。もし彼女たちがこの本を読んだならば、もしかしたらそれらの事件は食い止められたかもしれない。それくらいに、この本に記された少年院出所後のAの流転と悔恨の情は重い。

ひたすら綴られる悔恨

この本は二部構成となっている。前半が事件前から逮捕後の精神鑑定まで(小学生時代から中学3年まで)、後半が医療少年院出所後から現在にいたるまで(21歳の春から32歳の現在まで)である。その内容は、前半と後半でまるで別人が書いたかのように印象が異なる。

事件を起こすまでを中心とした前半は、高山文彦が『「少年A」14歳の肖像』(1998→2001年/新潮文庫)で追った事実関係をAの視点で書いた内容だと言える。そのほとんどは高山の記述と大きな違いはないが、Aでしか知りえないことについても触れられている。

だが、この前半部で重要なのは、こうした彼の主観が過剰に修飾を施した文体で綴られていることだ。それは決して上手なものではない。その過剰さゆえに非常に稚拙で、まるで小説家志望の学生の文章を読んでいるようだ。それゆえ、この“文学的な”文体による情景描写と彼の心象は、ひどく胸糞が悪くなる内容である。

高山文彦『「少年A」14歳の肖像』(2001年・新潮文庫)
高山文彦『「少年A」14歳の肖像』(2001年・新潮文庫)

この本からAの強いナルシシズムと自己顕示欲を感じるひとが多いのは、この前半のインパクトが大きいからだろう。ただし、非常に残忍なシーンでは意図的にある部分が描かれていない。編集判断の可能性もあるが、そこからは本書の目的が残酷な描写にはないことがうかがえる。

対して、少年院出所後に職を転々としながら生活をする後半は、社会化された彼の心情がとても率直に書かれている印象を受ける。とくに、職場の先輩家庭や公園の家族を目の当たりにして強い後悔を感じるくだりには、モンスター「酒鬼薔薇聖斗」の面影はまるでない。思春期に愚かな過ちを犯してしまった青年の後悔がひたすら綴られている。

さらに終盤近くにある「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いに対する彼の回答は、彼の悔恨の情を強く感じさせる。その問いは、事件直後の『ニュース23』(TBS)で10代の男性が発した一言だった。その場にいたコメンテイターたちが、まともに返答できないことが当時大きく話題となった。Aはその問いに対して、真摯に回答する。

大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

(中略)

どんな理由であろうと、ひとたび他人の命を奪えば、その記憶は自分の心と身体のいちばん奥深くに焼印のように刻み込まれ、決して消えることはない。表面的にいくら普通の生活を送っても、一生引き摺り続ける。何よりつらいのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を切り苛む。そうなって初めて気が付く。自分がかつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。

出典:元少年A『絶歌』p.282-283(2015年・太田出版)

あの当時「ダメなものはダメだ」、あるいは「その問い自体が問題外だ」としか答えられなかった大人たちよりも、それは十分に説得力のある言葉として機能するだろう。事件によってまともな職に就けず、過去の素性をいっさい隠したままで他人と付き合わなければならない彼は、本書の後半でこうした苦悩を吐き続ける。だからこそ、「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください」という一文は説得力を持つ。

本書の問題点

ただし、この本にはやはり問題点もいくつかある。ひとつが、被害者の遺族に無断で出版されたことと、その印税の扱いである。もうひとつが、この本では触れられていない時期があることだ

前者については、遺族のひとりである土師守さんが出版中止を求める声明を出した。一方、もうひとりの遺族である山下京子さんは、1月に逮捕された名古屋大生の事件を受けて、今年の3月に「彼の生の言葉が社会に伝われば、そういった犯罪の抑止力になれるのでは」と述べている。『絶歌』の出版は、この山下さんの言葉を受けたものかもしれない。なんにせよここで指摘しておきたいことは、亡くなったふたりの遺族の意見が一致していないということである。

あとがきでは無断で出版したことを謝罪しているように、Aは非難されることを十分に想定していたようだ。よって、無断でなければならなかった何らかの理由がそこにあるのだろう。

印税の扱いについての議論もすでに出ている(たとえば『りんがる|note』「日本にも「サムの息子」法があれば「酒鬼薔薇聖斗」手記で儲けるなんて許されない」)。アメリカでは、犯罪者が事件の手記などで得た利益を差し押さえたり、被害者遺族への賠償金に充てることのできる「サムの息子」法が多くの州で制定されている。これは犯罪者が事件で得をすることを防止する法律である。日本では、故・永山則夫をはじめ犯罪者が手記を発表することは珍しいことではなく、それらがベストセラーになることも少なくない。しかし、こうした状況が野放しでいいのかという倫理的な議論は十分になされるべきである。

次にこの事件で触れられていない点とは、医療少年院における彼の治療についてである。この本では、Aが少年院に入っていた15歳から21歳までの6年半の記述がほとんどない。後半で遺族や自分の家族の手記を読んだという回想は見られるが、彼が受けた治療についての言及はほとんどない。

この部分についても書けない何らかの理由があるのかもしれないが、わずかでもいいから治療内容については必要だっただろう。もちろん自分が受けているカウンセリングを描くことに難しさはあるだろうが、殺人欲求を持つ者がそれを読めば何らかの手立てになるかもしれないからだ。

また、この本を読んで感じるのは、6年半に及んだ彼の治療はかなり成功しているということである(このことについては前出の高山文彦の本でも2001年の段階でじゃっかん指摘されている)。もちろん、彼がいまだに倒錯した性的欲求を抱えている可能性もあるだろう。しかし、少年院出所後の11年間、彼は犯罪に手を染めていない。頭のなかで妄想することとそれを実行に移すことには、明確に大きな違いがある。ホラー映画やアダルトビデオが社会で流通可能なのも、それがフィクションだからだ。彼は妄想を実行してはならないという現実を、いまは明確に認識しているはずだ。

社会的排除のリスク

古谷実『ヒメアノ~ル』1巻(2008年・講談社)
古谷実『ヒメアノ~ル』1巻(2008年・講談社)

本書には、彼がこれまで影響を受けたさまざまな小説やマンガについての言及や引用も見られる。古谷実の『ヒミズ』や『ヒメアノ~ル』、三島由紀夫の『金閣寺』、村上春樹の『1Q84』等々。また、10代で母親を殺し少年院出所後に女性ふたりを殺して死刑となった山地悠紀夫についても触れられている。みずからが起こした事件についても、フロイトの精神分析を援用しながら自己分析に取り組んでいる。そうした様子からは、自分が起こした行為を解釈し、必死に理解しようしていることがうかがえる。

そして「被害者のご家族の皆様へ」と題されたあとがきには、本書を上梓した理由が以下のように記されている。

この十一年間、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。

出典:元少年A『絶歌』p.293-294(2015年・太田出版)

本書が強く批判されるのは、Aのこの動機が身勝手だという意見である。しかし、こうして本にまとめることは、おそらく彼にとって必要だったことである。つらい過去と向き合ってまとめること――自己物語化することは、彼のような存在でなくとも、それによって癒やされるひとは多いだろう。

もちろんこうしたAに対し、強い調子で非難するひとも少なくない。ネットで目立っている「本当の裁きがあなたにくだされることを願って止みません」という苛烈な主張を言い換えるならば、Aは何も許されずにゾンビのように生きるか、自死をしろということである。

Aがいまどのように生きているかはわからないが、少年院出所後の流転を見ると、その生活は豊かではないことがうかがえる。最終学歴が中卒で、過去のことを語れないというコミュニケーション上のハンデもある。素性がばれて、職と居住地を失ったことも一度や二度ではないだろう。おそらく、彼はずっとゾンビのように煉獄の現実を漂ってきたはずだ。

このとき問われるのは、そんなAを日本社会は赦すのかどうかということである。現在、大勢を占めるのは「赦さない」という立場である。死刑制度を肯定するひとが8割が超える日本で、そうした反応は不思議なことではない。社会的包括よりも社会的排除が優先されるのが、現在の日本の態度である。もちろん、そうした態度は極めて感情的なものである。言い換えれば、感情的だからこそ共感され、その一方で熟考されることはない。そして日本独特のあの“空気”が生まれる。

しかし、そこで忘れられていることは、そのような態度によってAを社会的に追い詰めることのリスクである。社会が元犯罪者を受け入れないことによって、犯罪者に逆戻りすることは少なくない。思考停止と同義の生理的な感情が、社会のリスクを高めるという逆説的な悲劇を生んでしまう。

必要なのは、いっときの感情を優先することではなく、本書が日本社会の未来に対してどのような機能を持つのかという理性的な判断である。

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