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愛されるカープの“新井さん”――「不器用」と評価された新井貴浩が、2000本安打に到達するまで

松谷創一郎ジャーナリスト
2006年5月4日、先制ホームランでカープを勝利に導いた後の新井さん(筆者撮影)

愛される新井さん

4月26日、広島東洋カープの新井貴浩選手が、通算2000本安打を達成しました。史上47人目の記録はタイムリー二塁打という、見事な到達でもありました。試合も、エルドレッドと鈴木誠也が2本ずつ、堂林もホームランを打ち、ヤクルト相手に11対3で圧勝。選手全員で新井の記録を祝う、素晴らしい一日となりました。

スポーツ新聞では、多くの関係者からお祝いの言葉を寄せられています。なかでも、入団年に監督だった達川光男は、新井のおもしろエピソードを交えながら、「これ以上、お前の若い頃のことを思い出していると、ワシも泣けてくるけえ」(スポーツ報知)と締めくくりました。それは、ファンにとっても涙を誘う感動的な一言でした。

2000本安打を達成したカープOBが口にするのも、同じような評価でした。山本浩二は「不器用な男」、衣笠祥雄は「決して器用な選手ではない」、野村謙二郎は「怒られている姿しか印象にありません」、前田智徳は「入団時から、ギリギリ瀬戸際の立場だった」と口を揃えます(スポーツ報知 4月27日付)。

そう、ドラフト6位入団の新井は、努力の選手なのです。

ドラ6以下の達成は稀有

新井が努力のすえに2000本安打に到達したのは、データからも証明されます。プロ野球のドラフト会議が始まったのは65年秋からです(衣笠祥雄が入団したのが65年)が、これ以降に入団したドラフト指名選手で、日米通算で2000本安打を達成した選手は33人います。それをドラフト指名順位で並べると、このグラフのようになります。

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一目瞭然のように、ドラフト上位から下位まで徐々に減っていきます。これはスカウトの腕の良さを示していると言えるでしょう。

前述したように、新井はドラフト6位指名でした。しかも、高卒よりも3年以上後に入団する大卒選手です。大卒・社会人出身のドラフト6位以下で2000本安打を達成したのは、福本豊(ドラフト7位)に次いで二人目の快挙でした。

その他は、高卒選手でドラフト外指名の秋山幸二(前ソフトバンク監督)と石井琢朗(現広島コーチ)でした。このふたりは、ともに注目選手でありながらも大学進学を表明していてドラフト指名されず、その後ドラフト外で入団した選手でした。つまり、実力的にはドラフト下位指名には本来はならない選手でした。

そうしたことを踏まえると、新井の2000本安打達成がいかに稀有なケースであるかということもわかるでしょう。周囲からさほど期待されてはいなかったものの、必死の努力をしてコツコツやってきたのが新井なのです。

「守備が“荒い”さん」

新井がカープに入団したのは、1998年のことでした。広島市出身で、高校は広島県立工業(県工)。駒沢大学を経て、ドラフト6位でカープに指名されました。同期のドラフト1位は、抜群のセンスで注目されていた東出輝裕(現・広島打撃コーチ)でした。甲子園でも活躍した高卒の東出に対し、新井は甲子園出場経験もなくそこまで目立った選手ではありませんでした。189センチの恵まれた体躯に潜在能力がありそう、といった印象です。

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そしてこの入団は、駒沢大学出身で、当時まだ現役で後に監督となる野村謙二郎のコネがあったのではないか、と言われています。実際、学生時代に野村の自宅を訪ね、素振りを披露したことは野村自身が公表しています。カープにはときどきこうしたコネ入団の選手がいます。なかにはまったく芽が出ない選手もいますが、金本知憲(現・阪神監督)のように大成する例もあります。こうしたとき、金本も含めそのほとんどは広島出身です。親会社を持たず資金面で劣るカープにとって、地元出身の選手を時間かけて育成することは、苦肉の策ではありますがひとつの戦略でもありました。新井は、広島出身と駒大人脈という有利なポイントがふたつあったのです。

とは言え、結果を出さなければすぐにクビになるのがプロの世界。新井はドラフトの下位指名で大卒でしたから、3年ほど1軍に上がれなかったらクビになる可能性もありました。

しかし、新井は1年目の99年から結果を出します。95打数で21安打、打率は.221でしたが、7本塁打を放ちます。ヒットの3本に1本がホームランという長打力をいきなり発揮したのです。

以降、2年目、3年目と順調に成績を向上させていった新井は、4年目の02年に全試合に出場し、28本塁打を放ちレギュラーに完全に定着します。その一方で課題だったのは、守備です。身体が大きくパワーヒッターとは言え、右投げの選手が若いときから一塁を守るというのはそれほど望まれるものではありません。ファーストは、左投げや外国人選手などが優先されるからです。そこで新井が挑んだのが、三塁手でした。新井入団の翌年に江藤智(現・巨人コーチ)がFA移籍し、サードのポジションがポッカリ空いていたのです。

が、しかし。新井の守備はとても下手でした。「守備が“荒い”さん」とも揶揄されたように、02年の守備率は.930。これはサードとしては極めて低い数字です。新井は、バッティングだけでなく、守備でも練習を重ねることが必要とされたのです。

新井を育てた山本浩二元監督が「不器用な男」と言うように、新井は確かに不器用な選手でした。02年にブレイクしたものの、03年と04年は不振の2年間を過ごします。特に04年は規定打席にも達せず、本塁打も10本止まり。成績に波があり、首脳陣の信頼を完全に得るほどではありませんでした。

そんな新井が完全に覚醒するのは、やはり7年目の05年でしょう。28歳だったこの年、開幕から2試合はスタメンから外れたものの、ラロッカの負傷で3試合目にサードのポジションを守ることになります。結果、東京ドームの巨人戦で2本のホームランを打ち、レギュラーに返り咲きます。この年、最終的には43本塁打を放って見事ホームラン王となります。カープでは、95年の江藤以来10年ぶりのこと。打率も.305と初めて3割に到達しました。打撃では、この年が新井のキャリアハイと言えるでしょう。

2006年5月4日、先制ホームランを打ってホームインする新井貴浩(筆者撮影)。
2006年5月4日、先制ホームランを打ってホームインする新井貴浩(筆者撮影)。

「つらいです」のFA会見

06年は25本塁打・100打点・打率.299、07年は28本塁打・102打点・打率.290と、新井は順調な成績を収めます。4番バッターとして申し分のない成績です。そして9年目の07年にFA権を取得します。

事前の予想を覆し、新井は苦悩したすえにFA宣言をします。記者会見で、「つらいです。カープが大好きなんで、つらいです」「喜んで出て行くのではないことを、理解してほしい」と、ポロポロ涙を流しながら話した姿は大きな反響を呼びました。

ファンからは、当然「おんどれゃ、カープが好きなら出て行くなや!」という批判があがります。阪神に移籍した以降も、カープファンからの新井へのブーイングはひどいものがありました。「つらいさん」と揶揄されるのもこの頃からです。

新井がカープを離れたことには、おそらく複数の理由があると考えられます。先に阪神に渡った金本のあとを追ったこと、優勝できる可能性のあるチームに行くこと、そして優勝を目指そうとしないカープ球団への問題意識等々――複数の理由が絡みあってのことでしょう。

こうした新井を考えるときに、実は重要なポイントであるのは、08年12月から4年間労働組合であるプロ野球選手会会長を務めたという事実です。それ以前にもカープ選手会会長も務めており、球団とは多くの交渉をしてきました。プロ野球をどうにかしたい、そうした意識がとても強い選手でもあります。あのFA移籍には、カープ球団へのメッセージとしての意味合いもあるのだと推察されます。

選手としては、阪神に渡ってからは期待されたほどの成績を残したとは言い切れません。08年には一塁手として初めてゴールデングラブ賞を受賞し、09~11年には全試合出場をしたものの、在籍7年間でホームランが年間20本を超えることは一度もありませんでした。11年には打点王に輝きますが、甲子園球場の広さだけでなく、年齢的な衰えも目立ち始めたのがタイガース時代です。

そして14年、94試合出場、本塁打3本、打率.244という成績を残し、新井は阪神を退団することになります。新加入したマウロ・ゴメスにファーストのポジションを奪われたのです。それは、どこのチームでも見られるプロの厳しさでした。

この年のシーズンオフ、新井は減額制限の40%を超えるダウン提示を受け、自由契約となります。そしてカープに復帰するのです。

「どのツラを下げて帰ったらいいのか……」

93年のFA制度導入以降、カープは有力選手を次々に放出してきました。川口和久(94年)、江藤智(99年)、金本知憲(02年)、黒田博樹(07年)、高橋建(08年)、大竹寛(13年)、木村昇吾(15年)と、先発投手や4番打者を次々と他球団やメジャーリーグに奪われてきたのが、この四半世紀における低迷の主要因です。新井もそのなかのひとりでした。

自由契約になった新井に、真っ先に声をかけたのはカープでした。これは、カープファンにとっては驚きでもありました。黒田や高橋建のように、メジャーからの復帰はありましたが、国内球団への移籍、しかも同一リーグの選手を受け入れることはこれまではありえなかったからです。声をかけたカープの鈴木清明球団本部長に対し、新井は当初は以下のように固辞していたと言います。

[阪神の――引用者註]南社長と別れると、すぐにカープの鈴木清明球団本部長に電話を入れた。

「さっき南社長と話をして、カープが僕のことを気にかけてくれていると聞いたのですが、本当ですか?」

鈴木球団本部長はひと言、広島弁でこう答えた。

「そういうことじゃ。帰ってこい」

僕は本当にびっくりして、「ええっ!」と心の中で叫んでいた。

(中略)

鈴木球団本部長とは、何回も電話でやりとりをした。

「とても帰りたいですけど、やはり僕は帰ってはいけないと思うんです」

最初の頃は、そんなことを言っていた。

「なんでや、帰って来ればええんじゃ」

「そう言って頂けるのは嬉しいですが、どのツラを下げて帰ったらいいのか……」

「ええけぇ。わしの言うことを聞け」

そんなやりとりを、何度も、何度も繰り返していた。

出典:新井貴浩『赤い心』(2016年/KADOKAWA・中経出版)より

OBたちからのお祝いメッセージやFA行使の涙会見、そしてこのやり取りからもわかるように、新井は純粋で不器用で、そして多くのひとから愛される存在です。「守備が“荒い”さん」や「つらいさん」という揶揄も、いまでは「新井さんはそういうやつなんだ」という愛情表現に変わっています。そうした不完全な、不器用な部分も含めて新井なのです。

新井貴浩『赤い心』(2016年/KADOKAWA・中経出版)
新井貴浩『赤い心』(2016年/KADOKAWA・中経出版)

いまでは、ファンも新井のことを「新井さん」と敬称をつけて呼びます。これは、阪神時代に金本が後輩の新井をからかってお立ち台で使っていた表現です。金本の新井に対する愛情は、いまではファンの多くが共有するようになったのです。新井さんを応援するのは、カープファンだけではありません。退団した阪神をはじめ、他球団のファンでも新井さんを応援するファンは少なくありません。

昨年のカープ復帰後、新井さんは満身創痍です。左手中指は、昨年脱臼したままになっています。いまは痛みがないようですが、昨シーズンは痛みをおして試合に出場していたそうです。オフには手術するという選択もあったようですが、2、3ヶ月の患部を固定しなければならないために見送り、引退するまで手術する気もないと述べています(前出『赤い心』より)。

昨年の成績は、ホームランは7本とやはり衰えを感じさせます。しかし今シーズはオープン戦から絶好調で、ルナの離脱後は4番としてカープを支えています。本塁打は1本にとどまるものの、打率は.323で20打点は、非常に立派な成績だと言えるでしょう(成績は2016年4月26日まで)。11年前にホームラン王をとった20代の頃の姿とは異なりますが、それこそが不惑を目前としたベテラン“新井さん”の現在の姿です。むかしと同じくがむしゃらでひたむきでありながら、チームバッティングに徹したからこそ、この結果を導いています。

ファンが望むのは、そんな新井さんの一日でも長い現役生活です。2歳年上の黒田は今年も絶好調です。新井さんが慕う金本は、44歳まで現役を続けました。2000本安打を達成したとは言っても、あと5年くらい選手を続けてほしいと多くのひとが願っています。

新井さん、おめでとう! そして、これからも頼むぞ!

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ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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