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猪瀬元知事がもしもあの「借用証」をねつ造していたとしたら何罪?

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士

先日、猪瀬元知事の例の「借用証」について、5000万円は実際はもらったものだけど、大騒ぎになったので、個人的に借りたことにして、後からその「証拠」としてあのような「借用証」をねつ造していたとしたら私文書偽造罪になるのですか、という質問を受けました。

結論からいえば、この場合は私文書偽造罪は成立しません。

刑法第159条1項(私文書偽造)

行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。

■「文書」とは

まず「文書」とは、文字や符号によって誰かの意志を外に表示したものであり、(1)誰かの意志を表した部分と(2)誰がそれについて責任を負うのかを示す部分からできています。この〈書かれた意志内容について責任を負う人〉を「名義人」といいます(「作成名義人」という場合もあります)。つまり、文書は、名義人が自分の意志を外に表示したもので、誰かが後でその内容について名義人にその責任を追求できる証拠となるものだといえます。

      【文書(借用書)の例】
      【文書(借用書)の例】

たとえば、AさんがBさんから100万円を借りて、Bさんに100万円の借用書(右図)を書いて渡していたのに、返済期限がきてAさんが借りた覚えはないと借金を否定したとしたら、Bさんは借金の証拠としてその文書を提出することができるというわけです。

このように文書というものは、私たちの社会生活におけるさまざまな場面で証拠として活用される制度だといえます。そして、文書偽造は、この証拠としての文書の機能を侵害する犯罪として処罰されるのです。

■偽造とは

文書がもっている証拠としての価値を保護するならば、何よりも(内容について責任を負う)名義人の記載を信頼できるような仕組みを作っておくことが大切なことになります。三文判を押した簡単な借用書であっても(つまり、ニセ物を作ることはきわめて簡単なことなのですが)、それにもかかわらずその文書に証拠としての信用性が認められるのは、その点を偽(いつわ)ると処罰されるからなのです。勝手に他人名義の文書を作成すると文書偽造として処罰されるという仕組みがあることによって、お粗末な文書であってもその人が書いたものなのだと信用され、証拠としての価値が生まれるのです。

問題は、これを超えて、名義人みずからが内容を偽る、虚偽の文書作成も処罰するのかということです。

公務員が作成する公文書の場合は、(1)公務員でない者が無断で公務員の名義をかたって「(ニセの)公文書」を作った場合(公文書偽造罪)と、(2)公文書を作ることのできる公務員が内容虚偽の公文書を作った場合(虚偽公文書作成罪)の両方を刑法は処罰しています。たとえば、ニセのパスポートや免許証を作るという場合が公文書偽造罪であり、公立病院の医師が虚偽の診断書を作成した場合や警察官が虚偽の捜査報告書を作成した場合(ともに文書としては本物)などが虚偽公文書作成罪です。

これに対して、私文書の場合は、文書の内容を偽る場合は処罰されずに、名義人を偽る場合だけが処罰されています。たとえば、Cが勝手にD名義の借用書を作成したような場合が典型的なケースですが、無断で他人の名前を使用して、その人があたかもその文書を書いたかのような外観をもった文書を作成する場合だけが私文書偽造罪として処罰されています。

このように公文書と私文書とではその法的な扱いに違いがあるわけですが、その背景には、およそ公務員(最終的には国家)が作成する文書には一切のウソは認められないという考え方があると思われます。それに対して私文書の場合は、名義人の記載が正しいという点だけを刑罰で保証してその信用性を担保し、名義人が内容についてウソをつかないという点については道徳にゆだねているわけです。ただし、私文書であっても内容の真実性がとくに強く要求される場合として、医師が公務所に提出する診断書や死亡証書などに虚偽の記載をした場合だけを刑法は例外的に処罰しています(刑法第160条)。

■猪瀬元知事の場合

猪瀬元知事が、かりに例の5000万円について実際はもらったものだけど、大騒ぎになったので、個人的に借りたことにして、後からあのような「借用証」を書いたとしても、「借用証」の名義は「猪瀬直樹」本人になっていますので、猪瀬元知事は無断で他人名義の文書を作成したわけではありません。したがって、この場合は、私文書偽造罪は成立しないということになります。

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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